第21話 シンイチ

 抑えようとしてもどうしようもなく嗚咽が漏れてしまう。

 どうやら銃を乱射する類のゲームを始めたらしい隣の部屋には聞こえっこないと思ったが、念のためシンイチはベッドの端のナイトテーブルに置かれたテレビをつけた。ほとんど見ないから必要ないと高校生の時に主張したのに、時事問題に疎くなってはいけないからニュースぐらい視なさいと強制的に与えられた薄型の画面は小さく、涙が滲んだ瞳では眼鏡越しでも何が写っているのか判然としない。そのうえ隣室から壁を突き抜けて届く殺戮のメロディがあまりにも騒々しく、こちら側の音声がさっぱり聞き取れないのだが、はなから放送内容に興味などないシンイチは気にしなかった。


 早く母親が帰って来ればいいのに。引きこもりの娘と二人きりでいるのが気づまりで、親戚の家にでもでかけたのだろうか。


 会社員の父と、専業主婦の母。どこにでもいそうな平凡な両親から、なぜあのようなモンスターが生まれてしまったのか。母だけにこの生き地獄を背負わせたことが後ろめたい。

 だが、妹の舌と唇の感触が、今でも生々しく思い出されて、吐き気を催すのだ。もう一度あのような目に遭ったら、今度こそタガが外れてしまうに違いない。理性を完全に失ったらどうなるのかなんて、考えたくもない。

 シンイチはティッシュペーパーを二枚抜き取って、顔を拭い、鼻をかんだ。最悪の気分だった。無性に酒がほしかった。強い酒を飲んで、前後不覚になりたかった。

 いや、駄目だ。そんなことをすれば、今度は浮浪者染みた化け物に上に跨られた状態で目覚めることになるかもしれない。あの体重では、とても跳ね除けることはできない。


 死んだ方がマシ――実際、事の最中に圧死するかもな。アスファルトの上で踏み潰れた蛙みたいに、内臓を口から吐き出して。


 不謹慎だと思いつつ、シンイチはついふきだして、笑った。げらげら、げらげらと、涙が頬を伝い落ちたが、それでも笑い続けて、派手にむせて、終いには呼吸困難に陥るまで。

 いよいよタガが外れかかっているのかもしれない。なぜこんな目に遭わなければならないのだろう。

 ようやく収まった笑いの発作の名残りに身を震わせていると、背後でばさり、と音がした。びくっと身を震わせたシンイチは、恐怖に目を剥いて振り向いた。

 なんのことはない。スーツのジャケットが床に落ちただけだった。

 ああ、椅子の背もたれにかけてあったんだと安堵の息を吐きながらそれを拾いあげたときに、左胸の部分の膨らみに気が付いた。中身を確認するまでもなく、それが何か、ただちに思い出した。結局処分できずに実家まで持って来てしまった。


 処分?


 この世界において、今の自分ほどこれを必要としている人間がいるだろうか。

 いや、こんなものは、誰のためにもならない。問題から顔を背け直視する瞬間を先延ばしにするだけでなく、確実に状況を悪化させる。こんなものは、害でしかない。しばしの間正体をなくしたいのであれば、酒に弱い自分のことだ、父親が晩酌していた日本酒をコップに二、三杯あおるだけでいい。

 いや、前後不覚になってはいけないし、ぶっ倒れるのはもっといけない。あの化け物に食われてしまうから。

 シンイチはポケットの中身を取り出して、上着はベッドの上に放り投げた。掌に載る小さなジッパー付き透明袋、その中にさらに密封された干からびた植物、それにチューンガムに似た平べったい紙の包みと使い捨てライター。

 シンイチは喫煙とは無縁の人間だが、チューインガムを思わせる入れ物から一枚取り出した紙片の用途は想像がついた。この紙で葉っぱを巻いて片方の端に火をつけ、反対側から、吸う。古い外国映画で見たことがあった。フィルターなしでの喫煙は倍速で肺癌を患いたい者向けだが、ニコチンによる健康被害を隠蔽しても通用していた時代は、まだそう遠くなっていない。

 それよりさらに昔、坂口安吾の時代には、ヒロポンという覚醒剤が栄養ドリンクとして売られていた。覚醒剤。読んで字の如く。今、シンイチの目の前にある乾燥植物などよりはるかに中毒性が高いと言われる、麻薬。


 それに比べれば、こんなクサの如きは


 何を言っているんだお前は。酒や煙草でさえ中毒になるのが恐ろしくて避けて生きてきた人間がいきなりドラッグに走るなんて、飛躍が過ぎる。どうかしている。

 体が泥のように重い。瞼が下がってくる。頭も下がってくる。デスクの上に肘をついても、体を支えているのが徐々に困難になる。

 頭がガクンと垂れた拍子にハッとして頭を振る。ちらちらと視界の端で何かが動く気配に首を捻ると、15インチのテレビ画面に見覚えのある映像が映し出されていた。完全に日が暮れた夜、閑散とした道路、ひしゃげた車、興奮気味のリポーター。

 またあのニュース。

 シンイチはリモコンで音量を上げた。画面は、これまた見覚えのある男性アナウンサーの顔に切り替わる。


「今晩午後七時十二分、乗用車が歩道に乗り上げ、不登校中の児童の列に突っ込み、九人を次々と撥ねました。九人は救急車で病院に運ばれましたが、いずれも、搬送先の病院で死亡が確認されました」


 不登校中の児童。確かにそう言った。午後七時十二分と言った。決して聞き間違いではない。

 腕時計に目をやると午後五時過ぎだった。机上の目覚まし時計も同じ時刻を示しているから間違いない。いつの間にか室内が薄暗くなっている。シンイチは隣室からの騒音に苛立ちながら、自室のテレビの音量をさらに上げた。


「被害に遭った児童達の身元は明らかになっているんでしょうか」


 男性アナウンサーに促されて、隣に座る女性アナウンサーが目の前の原稿からカメラ目線に切り替え口を開いた時、スタッフが横から新たな原稿を手渡した。女性アナウンサーは、受け取った原稿とカメラ、交互に目を向けながら、読み上げる。


「たった今、情報が入りました。被害者は、先程九人とお伝えしましたが、もう一人増えて、十人です。事故の被害者十人すべての身元が判明しました。一人目は、山本春香ちゃん、二十歳、無職。中学三年生から不登校になり、現在はネットゲーム廃人だったということです。二人目は安西冬馬君、二十四歳、会社員。勤務先の先輩工員と口論になった際に暴力行為に及んでしまい、以来工場長からの説得にも応じず、無断欠勤を続けていたそうです。三人目は……」


 シンイチの手からリモコンが滑り落ちた。

 何を言っているんだ、こいつら。

 シンイチはテレビ画面を凝視したまま立ち上がり、テレビに近づいた。狭い部屋だ。ほんの数歩の距離。

 いや、狂っているのは自分なのかもしれない。アナウンサーたちの大真面目な顔を見つめながらシンイチは思う。「なーんちゃって」なんて、絶対に言わないだろう。その種の悪趣味な番組ではない。ストレス。極度のストレスに曝されて、ちょっと混乱しているだけ。

 ニュースの続きは全く頭に入ってこなかった。もう限界だった。

 シンイチは、意味をなさない音の反乱で無音状態になった画面を食い入るように見つめた。

「被害者」と呼ばれた十名の写真。

 そして、事故現場。

 その場所には見覚えがあった。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。


 シンイチは、勉強机に戻り、両肘をついて頭を抱えた。目を固く閉じて、また開けると、机の上には、があった。

 震える手が袋を掴んだ。

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