第6話 シンイチ

 シンイチにとってはアヤが初体験の相手だったが、アヤは既に経験済みだった。自分が奥手であることを自覚していたシンイチは、過去は過去、自分と出会う前のことだと、これまで特に気にしたことはなかった。彼がアヤ以外の女性と関係を持ったことはなく、いずれはアヤと結婚するものと、就職先が決まった頃にはぼんやり考えていた。

 社会人になってから一人暮らしを始めたシンイチのマンションに「一緒にいられる時間を増やしたいから」とアヤが入り浸るようになり、歯ブラシから始まってマグカップ、化粧品や着替えとアヤのものがどんどん増えていった。そして「ただいま」といって会社から直接シンイチのマンションにやってくる回数が増え、もはや半同棲というよりほぼ同棲状態になった。極めつけにアヤが

「契約更新。向うのマンション解約しちゃった。家賃がもったいないもの」

 とあっけらかんと言い放って残りの荷持を運び込んでからは、尚更そう思うようになった。アヤの荷物はすべて合わせても、同年代の女性と比較してありえないほど少なかった。

 それに加えて、入社時からお世話になっている先輩の結婚である。純白のドレスを着たアヤは、さぞかしきれいだろうと考えると、仕事に一層やりがいを覚えるようになった。


 家庭を持つのだ。妻と子を幸せにするのは自分の役目である。


 シンイチは、友人達から「殉教者」――本来の意味とは異なり、厳格なキリスト教徒並の貞操観念の持ち主という意味らしかった――とからかわれても平気だった。寝た女の数で男の格が決まるのであれば、自分のような人間は絶対に上位に立てないことを早くから自覚していたから。それでも可愛い彼女がいて、自分は幸せなのだとずっと思っていた。

 しかし今は、己の愚かさ加減を呪いたかった。

 すれ違う若い女性たちを見て、シンイチは思う。


 コノクライ、ダレダッテ


 アヤの口から発せられた言葉。

 ダレダッテ?

 そんなはずはない。浮気なんかしたことがないし、今後もするつもりはない、そんな人間だって、男女共に、相当数いるはずだ。それは単に、きっかけがないとか度胸がないが故の結果なのかもしれない。それでも、大切なのは、最終的に不貞に及ぶのを思い止まりパートナーを裏切らないこと、ではないのか。

 シンイチの友人達だって、シンイチを憐れむような振りをしていても、根は結構真面目で、彼女との関係にそれなりに満足している。いくら


「いい女とやりてえな」


 なんてタフガイぶってぼやいてみせても、いざそんな機会が訪れたとしたら、大半は一線を越えることが出来ずに彼女や妻の元へすごすご帰るのだとシンイチは思っている。ドラマや映画、雑誌インターネット等々、浮気なんか当たり前みたいに溢れかえっているから、なんとなく自分もしなければ損だ、もしくは慣習的にそれが男の甲斐性だなんて信じている連中が大勢いたとしても、大半は(少なくとも半数以上は)、浮気など生涯しないまま終えるのだとシンイチは思っている。女性も恐らくそうに違いない、と。

 だから自分は、たまたま運悪く――もしくは余程女を見る目がなくて――不誠実な女に引っかかってしまって、それに気づくのに八年もかかってしまった、というだけだ。正式にプロポーズする前に気付いたのだから、むしろ幸運だった。夫の留守中に男を家に引き入れるような妻なんて、おぞましい。もし子供ができたとしても、自分の種かどうかわかったものではない。浮気の一回ぐらい許すことこそ男の甲斐性だなんて言う輩がいたら、自分は甲斐性なしで結構だ、と思う。そもそも、二十四にもなって、たった一人の女性しか知らない自分だ。甲斐性なんてものは、あった試しがないし、今後もなくていい。


 しかしどれだけ自分を慰めてみても、目いっぱい着飾って土曜の午後を謳歌している女性達、彼氏と楽しそうに腕を組む女性も、横並びでかしましい三人組も、同等の嫌悪感をシンイチに抱かせた。

 いたたまれない思いで足元を見つめながら歩いていると

「ちょっと、いいかな」と男性の声がした。立ち止まって顔を上げると、制服姿の警官が立っていた。


「何をしているんですか?」

「何って……ただ歩いているだけですけど」

「どこかにお出かけで?」

「予定があるわけじゃないです」

「お仕事の帰りですか?」

「ええ、まあ」


 昨日の晩に仕事を終えてから今まで彷徨い歩いている状態を果たして「仕事帰り」と呼んでよいものかどうか一瞬迷ったが、シンイチはこの煩わしい状況から一刻も早く逃れたかった。

「どちらにお勤めですか?」

 警官の言葉遣いは丁寧だが、有無を言わさぬ威圧感があった。シンイチは溜息をついた。

「社員証をお見せしましょうか? ぼくは、何かの嫌疑をかけられているんですか?」

「そういうわけではありませんが、この近くに交番があるので、ちょっとご同行願えますか」

 ああ、これがいわゆる職務質問というやつか、とシンイチは思う。人生初の体験が多すぎる。何故よりによって今日なんだ。

 しかしここで逆らってもどうにもならない。財布を取り出そうと上着の内ポケットに伸ばしかけた手を元に戻したところで、シンイチは凍りついた。


「わかりました」


 自分の声がどこか遠くから聞こえた。一瞬目の前が真っ暗になった。突然夕べの記憶が甦ってくる。


 ヤミツキニナルンダッテ


 何故よりによって


 警官に促されてシンイチが歩き出したとき、少し離れた場所でけたたましい悲鳴があがった。派手にクラクションが鳴り響き、次いで衝突音、そして


「救急車を呼べ!」

「この人殺し!」

「見ろよ、あいつ、泡吹いていやがる」

「またクスリか。そんなやつ、ほっとけ! こっちの方が大変だ」

「どうしよう、息をしてないみたい」

「ママ、ママ」

「誰か、お医者さんはいませんか?」

「お願い、目を開けて!」

「この野郎、笑っていやがる。引きずり出せ」


 何が起きたのかシンイチの位置からは確認できなかったが、悲鳴と怒声が飛び交い、無関係な人々も巻き込んで繁華街一帯が騒然となった。

 しばし呆気にとられていた警官がはっと我に返って、素早い動きで人混みの中に消えた。同じ方向に走っていく野次馬に突き飛ばされてよろめいたシンイチも、ようやく我に返った。


 逃げなければ


 足が震えていたが、自分を叱咤し、平静を装いながら、人の流れに逆らって歩いた。別の警官がこちらに走って来るのが見えて口から心臓が飛び出しそうになったが、警官は無線に向かって何やら話しながら、シンイチには目もくれず、事故現場に向かって走って行った。

 間一髪だった。上着の内ポケットの辺りを上からさすると、膨らみが感じ取れた。明らかに、シンイチが愛用している(アヤからの誕生日プレゼントの)薄手で使い勝手が良い財布とは別のモノがもたらす厚み。


 なぜ今まで忘れていたのか。


 昨晩、自宅マンションを飛び出したあと、シンイチは寒さのせいではなく震えながら、街を彷徨い歩いていた。何も考えることができなかったが、足だけは休まず動かしていた。自然と、賑やかな灯りの方に吸い寄せられていった。

 午後十時を過ぎても繁華街はまだ活気づいていた。金曜の夜だ。皆浮ついていた。居酒屋にファストフード店、書店やレストランもまだ営業していた。しかしこうして街を彷徨っていれば、一つ一つ灯りが消えて、やがて人影もまばらになるだろう。

 今晩どこでどうやって過ごすか。それよりも問題なのは、夜が明けたらどうするのか。いつまでも逃げ続けていられないことはシンイチにもわかっていた。それでも今は、こうして問題との対峙をできるだけ先延ばしにしておきたかった。


「シンイチローじゃないか」


 声をかけられて振り向く前に、それが誰だかシンイチにはわかっていた。シンイチをシンイチローと呼ぶのは一人しかいない。悪事を見つかったようなバツの悪い思いとともに幾許かの安堵も感じながら、シンイチはゆっくりと振り返った。

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