第16話 シンイチ

 意気消沈したシンイチはテーブルに戻り、冷めてしまったブラックコーヒーを啜った。今時珍しいブラウン管テレビが、午後のニュースを伝えている。


「本日午後七時過ぎ、乗用車が歩道に乗り上げ、不登校中の児童の列に突っ込みました。病院に搬送された六人はいずれも」


 両手に挟んだカップの中で揺らぐ黒い液体をぼんやり見つめていたシンイチは、ハッと我に返った。昼食をとった(何を食べたのかはもう思い出せない)食堂で耳にしたニュースだと思ったが、シンイチがアナウンサーの声に集中しようと画面を凝視し始めたときには、既に別の話題に移っていた。

 コーヒーをゆっくりと口に含みながら薄暗い店内の様子を窺うが、違和感を覚えたのはシンイチ一人のようだった。眠そうな顔をしたマスターやスポーツ新聞を読みふける常連らしき客――誰一人としてテレビになど注意を払っていない。


 そういえば


 ついさっき起きた事故のことをシンイチは思い出した。

 危ういところでシンイチの曇り一つない経歴に消せない染みがつくのを防いでくれたのは、皮肉なことに、また違法薬物がらみの事故のお陰らしかった。

 そう、また、だ。

 ここ最近、車の暴走によって子供だけでなく大人も犠牲になる事故が頻繁に起きていて、先ほどの事故現場では、群衆が加害者のドライバーを集団リンチしかねない不穏な雰囲気が漂っていた。

 シンイチの職務質問を切り上げて現場に向かった警官は、無事に怒れる市民の暴徒化を抑制することができたのだろうか。

 だが、民衆が腹を立てるのも当然だ。ドラッグの影響下にありながら車を運転するという無責任な行為、その結果罪のない人々――ときには子供――が次々と被害に遭っているのだから。本当に、ドラッグなどというものは、百害あって一利なしだ。それでも、罰則の強化を求める大勢の声に対し、一定数の反対意見が存在する。曰く、煙草より害がないだの、依存性は低いだの。

 

 そんなうまい話があるものか。


 むしろ合法にすべきだなどと言う輩もいて、ヒロポン覚醒剤をエナジードリンク並の気安さで販売していた時代に逆戻りではないか、とシンイチは腹立たしく思う。

 あのニュースをもう一度やらないものかとテレビを睨みつけていたシンイチは、頭ががっくりと前に垂れた衝撃で目を覚ました。どうやらうとうとしていたらしい。何か赤いものが瞼の裏にへばりついていた。


 赤いスカートの、女の子。


 あの子は無事に保護されたのだろうか。五歳ぐらいだった。

 普段のシンイチであれば、無力な子供を放置してくることなどあり得なかった。彼は己の人畜無害そうな風貌を自覚していた。筋肉はない(まったくないわけではないが、マラソン選手のように無駄が極限まで削ぎ落されたそれであり、服を着ると外見上はわからない)が、オタクぽさはあまりなく、穏やかな性質が滲み出ている。つまり、なんとなくいい人そうに見える。そういう人間だから、老人や女性からもあまり警戒されず、親切を申し出て断られたことはほとんどない。

 だが今は、あんな小さな子を放り出して逃げ出す人間になってしまった。万一あの女児に何かあったとしても、それは赤の他人の自分の責任ではなく親が悪いのだ、などと自分に言い聞かせて罪の意識から逃れようとする情けない人間に。

 だが、上着の内ポケットに秘密を抱えたままでは、他人に親切にする余裕など持てないだろう。誰だって、そうだ。


 テレビの画面は、いつの間にか砂嵐になっていた。まだ放送を終了する時間でもないのに。店内の誰も気にしていないようなので、シンイチもそれに倣うことにした。脳の働きが恐ろしく鈍くなっている。もう一杯コーヒーを頼もうかと考えたが、カフェインで身体を駆り立てることにも限界を感じた。

 煙草の煙が漂ってきて、シンイチは思わず眉をひそめる。カウンターに座ってスポーツ新聞を眺めている男からだった。男の前にある灰皿は、吸い殻が溢れんばかりになっている。今時、喫煙可の店だとは。

 シンイチは残りのコーヒーを飲み干すと、支払いを済ませて街の雑踏に戻った。


 腕時計を見ると午後三時を過ぎたところだった。

 相変わらずの混雑ぶりに、シンイチは苛立ちを覚えた。

 いっそのこと、上着の内ポケットから問題のブツを引きずり出し、力の限り放り投げてしまおうか(なるべく人のいないほうを狙うこと、ライターは抜く)。そして、反対方向に向かって、走る。全力で。息の続く限り。

 たぶん、シンイチの悩みの一つはそれで解決する。この程度の小量な葉っぱの持主を警察が躍起になって捜すとは思えない。善良な市民は、これを見ても何かはわからないだろうから、拾われてゴミ箱行になるか、放置されてカラスの餌になるか。

 だが、そんな思いきった行動ができるわけがなかった。誰かに命中して怪我でもさせたら大変だ。

 それに、心身ともに疲労が激しく、今彼に必要なのは、休息だった。自宅マンションに戻るのは論外として、トーマの所にも戻れない。小学校からの腐れ縁だ。大喧嘩ならこれまで何度もした。トーマは惨めにうちひしがれた親友を見放したりしないだろう。

 だが、トーマが地下鉄で拾った彼女達は別だ。今頃はもうそれぞれの自宅へ帰っただろうか。それとも、昨晩羽目を外しすぎた(三人で?)酔っ払いどもがようやく起き出してきた頃かもしれない。彼女達と鉢合わせするのは、さすがにバツが悪かった。

 トーマは、盛大に失恋した自分のためにいろいろ骨を折ってくれたのに。あんな態度をとってしまったことを今ではすっかり反省していた。詫びのメッセージを送りたいが、今はスマホを使うことができない。スマホが使えなければ、他の友に連絡をとって押しかけることもできない。電話番号を記憶しているのは、トーマと、あとは……


 シンイチではない男に抱かれて大きくのけぞった、裸体


 忌まわしい記憶を振り払い、シンイチは固く目を瞑った。

 止めていた息を吐きながら瞼を開いた途端、犯罪者心理で敏感になっているシンイチの視覚が、人ごみの中を見え隠れしながらこちらに向かってくる警察官の姿を目ざとく捉えた。

 心臓の鼓動が速くなる。

 無意識に内ポケットの膨らみを上から撫でていた手を慌てて下した。これでは怪しい者ですと自らアピールしているも同然だ。

 唐突に踵を返して進路を変えるのは、むしろ相手の注意を引くだけのような気がした。といって、薄ら笑いを浮かべ警官を凝視しながら近づいていくというのも違う気がする。何一つやましい事のない平時に警官に遭遇した場合にどう振る舞っていたか、シンイチには思い出すことができない。

 なるべく小さい動作で周囲を見回すと、車道後方からタクシーが近づいて来るのが見えた。シンイチはぎこちない動作で片手をあげた。幸い車のほうは滑らかにスピードを落とし、シンイチの前に横付けした。ドアが自動で開くのももどかしく後部座席に転がり込んだシンイチは、とっさに思い浮かんだ住所を口にした。


「花の宮八番地まで」


 タクシーが警官の横を通過する際、シンイチは警官より少し横のカップルを眺めているふりをした。両脇にじっとり汗をかいていた。

 警官は、確実に自分の方を見ていた、という気がした。

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