第6話 古代神殿

 夜明けになり、空が白み始めた。兵士たちは疲れ果て、地面の上で眠っていた。炊事兵たちはパンを焼き始め、悪臭の中でもめげずに料理の支度をはじめていた。

 ソーディアンは結局ほとんど眠ることができなかった。何か解決策はないだろうか? いろいろなことを考えてしまい、結局何もいい案は浮かばなかったのだが、ただ時間だけが過ぎてしまっていた。

 顔を横に向けるとゲノザウラーの死体が見える。大きな口の中に紫色に変色した舌が見える。その舌も腐敗して膨らんでいるらしく、口の中に風船をくわえているような姿になっていた。

 腹は生きている時の二倍はあるだろうか。元々胴は太かったが、それでも引き締まった体をしていた。それが今では丸く太く膨らんでいる。しかも均一ではない。死ぬと腹の中にガスがたまり膨らんでくる。それは人も獣も魔獣も同様だが、ゲノザウラーのような巨大な魔獣にそれが起きると、それだけでちょっとした災害だ。

 皮が厚く頑丈なせいかまだ腹が裂けるようなことはなさそうだが、昨日のように肛門やその他の孔から体液が漏れてくることは考えられる。口からも何か出てきそうだ。

 それにガスのせいで時折動いているように見える。微妙な動きなのでほとんどの人は気づかないが、ソーディアンの目にははっきりと見えていた。だから、他の人以上に過敏に反応してしまい、気が休まらなかった。

「少しは休めたかね、勇者殿」

「ハルビネスさん……まあ、少しは」

 ハルビネスも昨夜はここに野営した。一般の兵士とは違いテントの中でだが、本来リゴア神殿を離れることのない神殿騎士がこんな場所で夜を明かすとは、ひょっとすると歴史上初めてのことなのかもしれない。

 ハルビネスは香水の匂いを漂わせ、髪も油で整えているようだった。神殿騎士団きっての美丈夫と言われるが、確かにそのようだった。

「しかし、これ以上引くのは無理でしょう。無駄だと思います」

「うむ。そうだろうな。体力を消耗し、綱も十分ではない。その状態で昨日以上のことをやれというのだから、それは無理だろう。しかしーー」

 ハルビネスは髪の毛を撫で上げ、言った。

「是が非でもやらねばならぬ。神殿の外のことは我らのあずかり知らぬこととは言え、国全体に関わることだからな。民がいなければ神殿も意味がない。何か……知恵があればいいが」

「はい。それは私も考えていますが……」

「朝食の後で、ゴウラ元帥も交えて一度会議が必要だな。元帥には声をかけておく。お前もだれか当てになりそうなものがいれば同席させろ」

「はい。ありがとうございます」

 ハルビネスは軍団の指揮所へと向かった。朝食の後……ざっと二時間あるが、それまでにいい案が思いつくとは思えなかった。思いつきそうな者にも心当たりはなかった。


 マーガイト城の地下には先史時代の神殿が眠っている。その事を知るものは限られており、王や大臣にさえ秘密にされていた。知っているのは代々の教皇と、その側近などの限られた者だけ。出入口も巧みに偽装され、誰かが偶然発見するということもなかった。

 その内部に、キュスラはいた。杖に光を宿らせ道を照らし、数千年の間封じられていた扉の向こうへと進んでいく。

 この古代神殿の存在は、リゴア神殿の封印図書館の書物で知ったことである。

 魔王討伐の功績が認められ、キュスラは助祭ながら教皇付きの聖職者となった。それはあらゆる場所への移動、あらゆる資料の閲覧が認められる権限でもあった。そして魔王討伐以降、封印図書館にこもって書物を調べ、そして辿り着いたのがこの場所だった。

 外では夜が明け始めたが、ここは日中でも光が入ることはない。人の目も日の光も届かぬ場所だ。しんと静まり返った迷宮のような神殿を奥へと進み、その最深部へと近づいていく。求めていた答えの一つがここにある。もう一つの答えを選ぶ前に、どうしても確認しておかねばならなかった。

 広い通路に出た。何の音も聞こえない。杖の放つ光は闇に吸い込まれ、まるでどこまでも続く地獄への穴のように見えた。

「まさか君がここに来るとはね」

 キュスラは突然の声に驚き、同時に後方に向かって杖を構えた。そしていつでも魔術を放てるように魔力を練ったが、そこにいるのがセルジュだと分かり、力を抜いた。

「セルジュ……なの?」

「そうじゃなかったら、どうするんだ? 撃つなら撃てよ。知り合いの顔をした悪魔が君を襲いに来たのかもしれない」

「……その言い方は、セルジュ。あなたよ。それはそれとして、撃ってもいいかしら?」

「ふふ。神聖魔法は人間には効かないが、君の魔力だと気絶くらいはするだろうな。大事な話があるから、撃つのはやめてもらおう」

 キュスラは杖を引いて改めてセルジュを見た。

「何であなたがここにいるの? 国王でもここは知らないはず……」

「それを言うなら、君もだろう。一介の助祭が来ていい場所じゃない。たとえ教皇に許可をもらっていても、この場所は特別だ。知られれば問題になるぞ」

「……そんな事を言いに来たわけじゃないんでしょ? 尾けられているなんて全然気付かなかった」

「尾けたわけじゃない。私は最初からここにいた」

「どういうこと? あなた……私たちと別れてから余計に言ってることがややこしくなったわ。回りくどい。何がしたいの? 私を止めに来たの?」

「止めるかどうかは、君がここに何をしに来たかによる。ま、分かっているけどね」

「何?」

「聖兵の神杖だろう? かつて世界が開かれたとき、この世界の覇権をめぐっていくつもの存在が相争った。それらは全て神のごとき力を持っていたが、それ故に世界は砕けそうになった。それを憂いたある存在が、世界を守るために力を振るった。その力の結晶が聖兵の神杖だ。それを手にするものは力を手に入れ、無敵の神の軍団を操れるようになる」

「……本当に、あなたはセルジュなの?」

 キュスラは息を飲んだ。今セルジュが言ったことは、教会の秘事中の秘事だ。教会の教えとは異なるこの世界の成り立ちは、誰にも知られてはならない。しかし消し去ってしまうにはあまりにも危険な歴史であるため、封印図書館に封ぜられているのだ。しかし今では、その封印図書館の成り立ちを知る者はいない。もし知っていれば、キュスラが立ち入ることは許されなかっただろう。

「私がセルジュか、だって? セルジュだよ。かつて君たちと旅し、そして今では王国の宰相。君のよく知る男さ」

 その姿はセルジュだった。その言い方もそうだ。芝居がかったような、勿体つけたような喋り方。しかし何故……聖兵の神杖の事を知っているのか? 宰相とはいえ封印図書館には入れない。そして封印図書館以外には、この世界の本当の成り立ちを記した資料は存在しない。

「君は聖兵の神杖で神の軍勢を呼び出そうとしている。彼らなら、この国に溢れる無数の魔獣の死体を片づけられると考えているからだ。そしてそれは正しい。あのゲノザウラーの死体ですら、彼らはいともたやすく動かすだろう。山を割り、海を穿つ。そんなことができる力が、本当に実在するんだ」

「……そうよ。ゲノザウラーの死体は手に負えない。ソーディアンの力でも。魔王の言った通り……死が呪いとなりこの世界を冒す。お前たちは死という単純な結果を覆すことはできないだろう。貴様の死をおいては。何言ってるか分からなかったけど、魔獣の死体が残るって意味だって帰る途中でわかった。だから私は千年前の魔王との戦いで何が起きたのか、どうやって解決したのかを知ろうとした。だから封印図書館に行った……」

「そして知ったんだろう? 二つの答えを」

 キュスラは青ざめ、杖を構えた。キュスラの体内で魔術の為の力が練り上げられる。それは神聖魔法ではなく、通常の攻撃魔法だった。人を殺すための、力だった。

「セルジュ……一体あなたは何なの? 何でそんなことを知っているの……?」

 キュスラの目には、目の前にいるセルジュが、まるで本当の悪魔か何かに見えていた。知るはずのないことを知っている。そしているはずのない場所にいる。

 それだけではない。キュスラは気付いてしまった。自らの杖が放つ光はセルジュにも当たっているが、しかし、セルジュには影がなかった。

「私を殺す前に、一つ教えておこう。君は封印図書館以外にはこの世界の秘密を記した資料がないと考えているが、それは違う。君は重大なことを見落としている」

「何だって言うの……?」

「ここだよ。この古代神殿。ここにも本当のことを記した資料があるんだ。書物ではないがね。それに触れたせいで、私は……」

 セルジュは両腕を広げ、胸の高さに上げた。

「人間とは少し異なる存在になってしまったがね」

 セルジュの足元に影が広がった。いや……影ではない。それは闇。それは星々の光だった。そして無数の目。口。耳。そして得体のしれない肉の塊が、形を成し、崩れ混ざりあいながら、星々の暗黒の中で蠢いていた。

疾く砕けよアーマゲーズ!」

 爆雷の魔術がキュスラの杖から放たれた。それはセルジュに直撃しその体を砕き、床に広がった得体のしれない空間を吹き飛ばした。

 だが、吹き飛んだかに見えたセルジュの体は空中で動きを止め、まるで時間を巻き戻すかのように元の形に戻った。足元の闇は姿を消していた。

「お前は何者だ!」

 キュスラは震えながら問うた。目の前にいるのは、断じてセルジュなどではなかった。尋常の存在ではない。魔族とも違う。想像もできない、もっと異質な力だった。

「セルジュだよ。君に私は殺せない。私は止めに来たんだ。君がこの世界を壊す前にね」

「何が目的だ! ここは……この神殿は一体何なの! セルジュはどこにいるの!」

「セルジュだよ、私が。聖兵の神杖はとても危険なんだ。起動すれば最後、再び神々の争いが始まってしまう。魔獣の死体は、なるほど、確かに片付くが、世界が滅んでは元も子もないだろう。これはこの国だけの問題ではない。この世界、この宇宙の問題なんだ」

「お前は何を言っているんだ……!」

 キュスラはもう一度攻撃魔法のための魔力を練り上げ始めた。しかし、何をやってもこの化け物を殺すことはできないように思えた。この神殿の守り人なのか? 一人で来たのは間違いだったのか。だが、迷っている時間などなかった。この国を……ソーディアンを守るためにはここに来るしかなかった。

「そう、君はソーディアンを守りたいだけだ。君の苦しみはよく分かる。今も君の心の中には悲しみや迷いがあるね。君は優しい人間だ。ソーディアンもそんな君に惹かれたのだろう」

「黙れ化け物! それ以上セルジュの口で語るな!」

 心の中を覗かれているのか? キュスラは恐怖に総毛だった。そんな化け物は、今まで見た事も聞いたこともない。

「そう怖がるな。君に危害を加える気はない……ふむ。やはり見てもらわなければ、納得はしないな。来たまえ、奥だ」

 セルジュはキュスラの攻撃姿勢を意に介さないように、その隣を素通りしていった。キュスラはそのあまりにも自然な歩き方に、撃つことができなかった。そこにいるのは、まぎれもなくセルジュに見えた。

「何をしている。知りたいんだろう? 案内してやるからついてこい」

 棒立ちになったキュスラに、セルジュが手招きをしていた。キュスラは自分の見ているものが信じられなかった。これは……神殿の防衛機構が見せる幻覚なのだろうか? しかし加護を受けている自分が狂ったり惑わされるはずはなかった。

「……いいわ。行ってやろうじゃないの」

 キュスラは覚悟を決め、セルジュの後をついていった。

 どこまでも暗い空間が広がっていた。天井も壁も見えない。床の板は正方形のものが敷き詰められているため前後左右の方向は分かるが、一度目をつぶったら方向が分からなくなってしまいそうだった。背後に出口があるはずだが、ちゃんとたどり着くことができるか自信はなかった。

「私はこの城のことを調べている時に、この神殿に気づいたんだ」

 セルジュは歩きながら喋り始めた。キュスラは警戒しながらも、その言葉に耳を傾けた。

「この城の構造はどこか不自然だった。壁や濠が何かを避けているような、あるいは隠しているような。そんな違和感があった。それで色々調べたんだが、どうやらこの地下には何かがあると分かった。それでまあ時間はかかったが、とにかくここに入ることができた。無論、私一人でね」

 セルジュはキュスラの反応を見るかのように言葉を切った。しかしキュスラは何も言わないので、セルジュはそのまま続けた。

「そして私もここに来た。そして見てしまったんだ。かつての戦い、人ならざる者達の大いなる戦いの……名残、残照……陽炎のようなものをね。そして全てを知った。この肉体もその時に……変わってしまった。私は間違いなくセルジュなのだが、信じられないのも無理はあるまい。私も逆の立場だったら、剣で斬りかかっているだろう」

 セルジュは足を止めた。前方にうっすらと何かが見える。キュスラが杖の光を強めると、そこには石造りの台があった。その中央には杖のようなものが置かれていた。

「これが君の探し物、聖兵の神杖だ。触るなよ。君まで私のようになってしまう」

 そう言い、セルジュは台のすぐ近くまで歩いていく。キュスラも恐る恐るその台に近寄る。

 置かれているのは金色の錫杖だった。大きい。四メートルはある。普通の人間が扱うには大きすぎるサイズだった。祭具にしても大きすぎる。

「これを使えば、神の……軍団を呼び出せるの?」

「呼び出せる。しかし、駄目だ。この宇宙そのものが滅ぶから、解決にはならない。魔王ならあるいは望んだかもしれないが、君はそうではあるまい。ソーディアンも死ぬし、君も死ぬ。みんな消滅する」

「何が起きるの? 神々の戦いって……?」

 思わず触れてしまいそうになる手を、キュスラは反対の手で押さえた。見ていると不安になる。得体のしれない衝動が湧き上がってくる。破滅を望むような心が、奥底から湧き上がってくるようだ。キュスラは目を閉じて杖から視線をそらした。

「賢明だな。長く見ない方がいい。神々の戦いとはさっきも言ったとおりだ。人ならぬ存在が……いや、いくら言っても分かるまい。君にも見せてやろう。私を人間でいられなくした、超常の光景を」

 セルジュの手がキュスラに向けられた。キュスラはたじろいだが、身構える前に目の前が真っ白になった。しまった。殺される。そう思ったが、全ての思考が吹き飛ばされた。

 それは光だった。空の星が輝き、その合間に命がある。声が聞こえる。空間を裂いて、時間を飲み干し、彼らはその体を収束させていく。存在というものが意味を失い、彼らの手の中で新たな意味が作られていった。消失。崩壊。死。いくつもの世界が重なり、すべてが消えていった。そこにはソーディアンがいた。自分もいた。そしておびただしい死体が転がり、何かに飲み込まれていった。人も獣も、山も空さえも。見えない牙が食らいつき、飴のように溶けていく。光り輝く兵士が列になり歩いていく。燃える。滅びる。あらゆる物が奪われていく。残るものはなかった。いや、あった。しかし、それは意味を持たないものだった。無だ。全てが消え去った後に虚無が残り、その虚無を影が埋めていく。その影はセルジュの形になり、その顔が見えた。何かを言われた気がしたが、セルジュの姿はすぐに闇の中に消えた。

 気付くとキュスラは古代神殿の入り口に立っていた。セルジュはいない。聖兵の神杖もない。さっき入ってきた、入り口の通路に間違いなかった。

「幻覚……?」

 キュスラは荒く息をつき、自分の顔や手に触れた。自分はここにいる。魔術をかけられた形跡もない。しかし……今見たものは一体?

 動揺しながらも、左手の中に紙切れがあるのに気付いた。

 使いたければ使うがいい。この世界と、引き換えに。

 セルジュの字だった。妙に丸っこい、かつて一緒に旅をした時に、何度も見た覚えのある字だった。幻覚などではなかったのだ。

 キュスラが見せられたものは、言葉で説明できるようなものではなかった。しかし、この世界が滅ぶのは分かった。人や魔王の力を遥かに超えた存在が、私たちの世界の外にいる。今は隔てられているが、もし聖兵の神杖を使えば、それが呼び水となって雪崩れ込んでくる。この世界はひとたまりもない。滅ぶ。消え去ってしまう。

「この宇宙が滅びるなら聖兵の神杖は使えない……だったら……」

 キュスラは膝をつき、自分の杖を取り落とした。セルジュの字が書かれた紙片が手から落ち、闇の中に溶けていった。

「選ぶしかないの? そんな……ソーディアンが……どうしてなの!」

 キュスラは地に伏せて泣いた。通路の闇の中に嗚咽が吸い込まれていく。

 封印図書館で手に入れたのは、二つの答えだった。一つは受け入れがたく、残る一つの答え、聖兵の神杖に望みをかけた。しかしそれが叶わぬと分かった今、受け入れがたい一つの答えだけが残った。

 ソーディアンは死ぬ。この世界と、引き換えに。千年前にも勇者は死んだ。二千年前にも。三千年前にも。その時と同じ選択を繰り返すしかない。

 キュスラは闇の中で泣き叫んだ。そして生まれて初めて神を呪い、絶望した。

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