第46話 初恋

「嫌だ…!私は行かぬ」


 文字に視線を落としたまま、祐之進の書状を持つ手が小刻みに震えていた。ここへ来たばかりの頃、この父の文をずっと待っていたのではなかったか、元服したくてたまらなかったのではなかったか。喜ばしいはずの便りは今の祐之進にはいつの間にか厭わしいものに変わっていた。


「若様?何の冗談ですか!こんな喜ばしい事は無いではありませんか!はようやくお屋敷に戻れる日が来たんですね。そして若様もようやく大人になるんですねぇ、おめでとうございます!本当に良かったこと!さあっ、今夜はお赤飯を炊きますよ〜!」


 そう言うと、浜路はいそいそと台所へと引っ込んでいった。浜路とて慣れぬ田舎暮らしは苦労であったのだろう。漸く肩の荷が降りた。そんな安堵の笑顔だった。

 それに引き換え祐之進とアオはしばらく言葉が出ずに項垂れて佇んでいた。本来誰よりも嬉しいはずの祐之進は全く喜びなど湧いてこなかった。きっとアオも自分と同じ気持ちでいる。祐之進はそう訳もなく思っていた。だが足元から視線を上げたアオは祐之進に微笑みながらこう言ったのだ。


「おめでとう、祐之進。良かったじゃないか。これで前髪ともおさらばできるのだ」


 祐之進は信じられない気持ちだった。己が元服すると言う事は、ここでの暮らしが終わる事を意味する。

それなのに、どうしてそんな事をそんな明るい顔で言えるのだろう。


「アオ…其方は本気でそんなこと言っているのか?」

「勿論だ。武士ならばいつかは大人にならねばな。めでたい事ではないか」

「私がここを去っても其方は平気なのか?」

「…ならば、お主は一生ここで暮らしていくつもりだったのか?お主は田村家の跡取りなのだぞ」


 そうだ、自分は跡取りなのだ。父の後を継ぎいずれは妻を娶って田村の家を守る責任がある。そんな事は分かっていた。武家の長男に勝手気ままは許されない。なのに何故許されるなどと思っていたのだろう。考えたくなくて棚上げにしていた事を祐之進は今アオに鋭く突きつけられていた。だからと言って、芽生えたばかりのこの恋を今ここで諦められるはずもない。


「ならば共に行かぬか、私が父に取りなす。だから、だからアオ…!」

「祐之進、もしお主と行ったら俺はどんな立場でお主の側にいろというのだ」

「それは、、それは…」


 そう問われて祐之進は咄嗟に言葉に詰まった。アオはそんな祐之進の両肩にやんわりと諭すように手を置いた。


「良いか、祐之進。俺はもう武家の子でもなんでも無いただの乞食だ。そんな人間が、田村の若様の何になれると言うのだ。俺は夏にわいた蚊なのだ。お主の長い人生のほんの一夏、肌をチクリと刺した蚊なのだ祐之進。痒みも腫れもいつかは跡形もなく消えていく。俺とはそんな存在なのだ。これが良い潮時ではないか祐之進」


 そのアオの言い草に祐之進の見開いた目が信じられない物を見るようにアオを見た。自分の中のアオという存在は決してそのような存在ではなかった。一夏で腫れや痒みが消えるほど己の中のアオは断じてそんな取るに足らない存在ではなかった。


「何が良い潮時だ!馬鹿にするな!!」


 もっと何か言ってやりたいのに言葉にならない。祐之進の言葉にならない心の発露が拳となってアオの顔を殴りつけていた。


 初恋は実らぬものだと誰かが言った。けれど幸運にも実をつけた。赤くて綺麗な果実だった。嬉しかった。有頂天だった。なのにせっかく付けた赤い実は、口に含む事なくぐしゃりと地面に落ちたのだ。その甘さもその芳しさも知らず祐之進の心に苦味だけを残して。


 祐之進は殴ったアオをその場に残し走り出していた。いや、逃げたのだ。殴った拳が痛かった。だがその心は拳などよりも何倍も何十倍も痛かった。



「祐之進の奴、思い切り殴ってくれたな…」


 殴られた頬を摩りながら、強か唇から血を滲ませたアオが鉄の味のする唾を吐いた。己の頬は痛かったが、おそらく祐之進の心の痛みはこんなものでは無いだろう。自分がどれだけ酷い事を言ったのか分っている。走り去る祐之進の後ろ姿を見つめながら、アオはこれで良かったのだと己に言い聞かせていた。



 あのまま走って行ったきり、夕飯時になっても祐之進は帰ってこなかった。まったく誰のために赤飯を炊いたやらと浜路が怒っていたが、どのみちこの日の赤飯など祐之進の喉には通らない。それはアオも同じ事、食が進まぬまま部屋を出ると、庭でパチパチと火の爆ぜる音が聞こえてきた。恐らく文吾が昼間掻き集めた落ち葉や小枝で焚き火をしているのだろう。夜を炙るような炎の揺らめきに誘われるまま、アオは庭へと降り、赤々と燃える炎に近づいて行った。火の番は誰もいなかった。

 一人、炎の揺らめきを見つめていると、祐之進と過ごした日々が走馬灯のように思い出されて来る。己はいったいどこで引き返せなくなったのだ。取り止めもなく考えに耽る頭の中に、ふいにあの日尋ねてきた島津の顔が浮かんだ。



「三月十日か…」


 島津が持参した書状に視線を落としながらそう呟いたアオを島津は涙を浮かべて見つめていた。


「蒼十郎様、その日はお父上の代わりに私が参ります」

「来なくて良い。俺はもう伊勢家の人間ではないのだからな。もう当に覚悟はできている」

「しかしそれではあまりに…っ」

「大丈夫だ。心配には及ば無い。それより島津殿、最後に一つだけ頼みたいことがある。この事を狭山藩家老田村孫左衛門殿に必ず伝えてほしいのだ。約束したのだ、必ずお知らせ申しますと」




 カサッ…


 くべた小枝が転がり、暗がりに火の粉が舞い散った。アオははっと我に帰った。懐にはまだあの時の書状がある。アオは書状をそっと取り出すとばらくじっと見つめ、やがて徐にそれを炎の中へと焚べた。白い書状はみるみる黒く焼け焦げていき、やがてメラメラと燃え上がり跡形もなく崩れて灰となって消えた。

そこにアオは其々の初恋の姿を見た気がした。鴇忠殿と自分。そして自分と祐之進。









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