第32話 兆し

 千之助が帰る事を口にした明くる朝、折良く腹痛で足止めを食っていた供の者が追いついた。一息つく間も無く、共の者は今度こそ千之助に付き添って行くことになった。すっかり旅支度を済ませた千之助と祐之進は縁側に座って別れの挨拶を交わしていた。


「すまぬな、せっかく来てくれたのに兄らしいこともしてやれなんだが、道中気をつけて行くのだぞ」

「そんな事はありません、久しぶりに一緒に相撲も取ったし、無花果も採りました。線香花火だってとても楽しかったです。何より兄上の元気なお顔が見られました」


 兄と離れる寂しさを堪える健気な笑顔を見ると、精一杯歓迎してやれなかった後悔が祐之進の胸をチクチク疼かせた。そんな千之助が自分よりも遥かに大人に見えた。


「もう少し居れば良かったのに。これでは蜻蛉返りだな」


 ようやく肩の力が抜けて弟と対峙できると思ったのに、今更ながらに名残惜しさが湧いてくる。

  

「このまま江戸屋敷には戻らずに、やっぱり母上に会って行こうと思って。このまま帰ってはせっかくお暇を頂いたのに父上に面目ありませんから」

「うん、そうしろ。母上も其方の元気な顔を見れば安心するだろうから」


 その時屋敷の奥から浜路の呼ぶ声がする。祐之進は待っていろよと言うと、屋敷の奥へと引っ込んだ。縁側にはポツンと座る千之助と、その足元にしゃがんでいるアオが残された。


「ほら、これを履いて行け。俺の編んだ草鞋は丈夫だぞ」


 さっきまで千之助の為に草鞋を編んでいたアオが座って足をぷらぷらさせている千之助に草鞋を履かせた。大人しくされるがままになっている千之助は眼下に揺れるアオの頭にじっと視線を落としていた。ややあって千之助は口を開いた。


「…其方に…生意気な口を叩いて悪かった。…兄をお頼み申します」


 その言葉にハッと見上げた千之助は真剣そのものの目をしてアオを見つめていた。これはただの詫びの言葉ではない。情人への情が時に兄弟のそれよりも優ると言う事を千之助は幼心に感じ取っていたのだ。その上でアオに兄を託そうとする健気な覚悟がその瞳には宿っていた。


 果たしてこの眼差しに己は報いることは出来るだろうか。


 千之助に優しく微笑む心の奥には誰知らぬアオの苦悩が潜んでいた。


「千之助殿、大丈夫だ。兄上はもうすぐお主の元へ帰る」


「え…?それはどういう…」


 思いがけない返答に、千之助がその意味を問おうとした時、祐之進が縁側へと戻って来た。


「千之助!浜路が握り飯を持って行けとこれを」


 そう言うと、風呂敷に包まれた狐狸を祐之進は千之助の背中に斜め掛けに背負わせた。


「あれ浜路殿は?見送りに出て来ないのか?」

「うん…別れが辛いと泣き顔でな。そんな顔を見せたくないのであろう」


 そんな事を聞くと千之助も絆されて別れが辛くなる。少し潤んだ瞳が寂しげに屋敷の奥を見つめた。


「千之助様、そろそろ出発なさいましょうか」


 その声に千之助は腰を上げた。立つ弟も見送る兄も別れ難い気持ちが込み上げた。


「お達者で兄上」

「其方も達者でな」


 短い言葉の中に名残を惜しむ気持ちが滲む。


「千之助を頼みます」


 祐之進がそう言うと、共の者は深々と腰を折り「はい」と言って二人連れ立って歩き出した。後ろ髪を引かれるように何度も後ろを振り返りながら行く千之助。その姿を残された二人は見えなくなるまで見送った。その頭上を千之助達を追いかけるようにカラスの群れが東の林へと飛んでいく。


「まったく!見送りがカラスとは。爽やかな朝だと言うのに旅立ちの風景には似合わぬ」

「まあ今度はお供がいるんだ、無事に母君の所につけるさ。それにしても最近はカラスが多い」


 思えばその時から異変の兆しはあったのだ。







「はぁ、はぁ!はぁっ!た、助けてっ!助けてくれっ…!」


 林の中の細い一本道を背負子を背負った男が必死の形相で走っていた。忙しく旗めく着物の袖は鋭く斬られ、そこから覗く腕には血の赤が見え隠れしていた。男は何かから必死で逃げていた。後ろを振り返り振り返り、繰り出す足は絡まって何度も転びそうになり、その度に背中に背負った荷物を右へ左へと道端に撒き散らした。だが男はそれを拾う余裕すらなく、追い詰められてとうとう力尽きて地べたに倒れ込むように転がった。


「た、た、助けてくれっ!助けてくれっ!」


 男に迫るは黒い陰。そいつが手にした刀だけが月明かりに禍々しい残光を放っている。尻餅をついたまま追い詰められた男は恐怖の表情を引き攣らせジリジリと後退る。


「か、金なら差し上げますっ!差し上げますから命だけはお助けを!」


 そう命乞いをするも虚しくヒュン!と言う鋭い唸りが林に響く。「ギァーー!!」と断末魔の叫びを上げた男は血飛沫を噴き上げ絶命した。


「これぞ正しく妖刀の斬れ味」


 男は低く呟きながら返り血を受けた頬をニヤリと歪ませ満悦し、刀の血を振り払い何事もなかったように林の中へと消えていった。頭上では早くも斬りたてのご馳走を狙うカラスが木々の梢からじっとその様子を見つめていた。

















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