第24話 生きよ

 嵐のように一人で喋り、旋風のようにアオの唇を奪って去って行った祐之進。誰も居なくなった部屋にアオは一人取り残され天井をポカンと見上げていた。祐之進に口付けられた唇がまるで命が宿ったもののように熱く脈打ちアオは指先で己の唇をなぞった。不思議だった。あの瞬間、枯れて朽ち果てていた己の心にほんの僅かに春の息吹が吹き込まれた気がした。


「…祐之進……」


 祐之進の名を口にすると、空っぽだったアオの心の器に一気に魂が注がれ込み、アオは弾かれたように寝床から起き上がった。


「い、、っ!」


 その途端、強張っていた身体の筋肉や関節が軋み、火傷を負った箇所が引き攣れアオは痛みに顔を歪めた。まだ火事から一日経っただけなのに何十年も寝ていたような気分だった。

 ふと敷かれた布団の傍を見ると祐之進の座っていた所に見覚えがある箱が置き去りになっているのに気づいた。あれは己が大切にしていた木箱。鴇忠の遺髪の入ったあの木箱が火に炙られた姿でそこにあった。己と共に焼けた残ったそれを、アオは震える手で引き寄せ恐る恐る蓋を開けた。遺髪は焼けもせず綺麗なままそこにあった。


「ーー鴇忠殿…っ」


 それを見たアオの目に涙が膨れ上かった。心中のつもりだった。


 母の死を知った時、絶望の淵に立たされたアオはこの遺髪と共に心中するつもりで昨夜自ら火を放ったのだ。だが遺髪共々奇しくもアオはあの炎の中を生き残ってしまった。アオは思わず鴇忠に詫びる思いで遺髪を胸に抱き締めていた。


『生きよ、蒼十郎。生きよ』


 胸に抱いた遺髪がそうアオに告げていた。そう、自分は死んではいけなかった。生きなければならない理由をアオは思い出したのだった。



 一方で部屋を飛び出した祐之進は裏庭の井戸に駆け込んで来た。猛然と手桶に汲み上げた冷たい井戸の水を何度も頭からかぶった。だがそんな事をしてみても全身の火照りが冷めないのは重い残暑の日差しのせいか。


 いやそうでは無い。


 今頃アオは己のした事をどう思っているだろうか。それともなにも感じなかったろうか。この後どんな顔してアオに会えばいいのだ。祐之進の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


「うをぉぉぉーーー!!」


 口付けが甘いなどと誰が言ったのだろう。アオの唇の感触を味わうなどと言う余裕は無く、混乱する心の発露を叫ぶ事に求めた祐之進だった。




「若様〜?若様〜!」


 丁度その頃、屋敷の方で浜路が祐之進を呼んでいた。祐之進はその声が聞こえていたが、すぐに行く気にはなれず暫く井戸端にみっともなく蹲っていたのだった。だが、浜路が祐之進を呼んでいたのはとんでもない事態に見舞われていたからだった。



「困ります!こんなに大勢で押しかけられても…!今若様はご不在で…っ」


 屋敷の玄関先にはいきり立った何人もの村人と浜路が対峙して押し問答を繰り広げていた。


「中洲の鬼を若様は庇うのか!火が出たのは鬼の仕業じゃ無いかって村のもんは皆んな気が気じゃねえんだよ!」

「そうだそうだ!今度は村を焼かれちまうんじゃねえかって恐ろしくて落ち落ち眠れねえよ!」

「ここに鬼がいるんだろう?若様がそう言いなさっていたぞ!」

「鬼を出せ!」

「そうだ!鬼を庇うな!」


 口々にそう言う村人達の手にはすききやくわが握られ、とても穏便に話し合う雰囲気にはない。正に一触即発の事態だった。村人の一人が焦れて屋敷の玄関に足を踏み入れようとした時そこへ慌ててやって来た文吾が声を張り上げた。


「皆の衆待て!御家老様の許しなくこの家の敷居を跨ぐことはならん!狼藉を働けば俺が許さねえ!」


 文吾は長い棒を薙刀のように振り回し、村人と浜路の間へ割って入り立ちはだかった。


「文吾殿!」


 泣きそうな顔の浜路が文吾の背後へと逃げ込んだ。


「とにかく、今日のところは皆んな大人しく帰ってくれ!」


 文吾は祐之進を守るための下男。腕に覚えがないはずはなく、ジリジリと近づいてくる村人を眼光鋭く睨みつけると棒を構えた。


「そこを退け、多勢に無勢いくらアンタが棒切れ振り回したってオラ達に勝てると思うのか!」


 そう一人が言うと、勢いづいた村人達が土足で屋敷の中へと押し入ろうとした。


「ーー待ってくれ!」


 その時、そう言って屋敷の中から足を引き摺りながら現れたのはアオだった。村人達は突然の鬼の登場にたじろいだ。アオは玄関先から裸足で降りてくると地べたへと座り、驚いた事に皆の前で土下座をしたのだ。


「待ってくれ。俺のせいで村の皆に迷惑をかけた。すまなかった。この通りだ。許してほしい」


 そう言って殊勝に頭を下げるアオの身体はあちこち傷つき、荒ぶる眼光の鋭さも今は消え、その姿は村人には弱々しく傷ついたただの少年にしか見えなかったのだ。こうしてこの日、村人達の振り上げられた拳は一旦下はげられたが、これでアオへの警戒感が完全に拭えたとは言い難かった。

 祐之進はと言うと、村人が引き上げた頃になってようやくずぶ濡れのまま屋敷の玄関口へと現れた。その目に飛び込んだ光景に目を見張る。地べたに座り込んだままのアオと、その傍に青ざめた浜路が肩を怒らせた文吾にしがみついていた。


「皆どうしたんだ?何してる!」

「若様!」


 浜路が祐之進の元へと走ってきたが、その泣き顔は怒っていた。


「もう!肝心な時にどこに行ってたんですかっ!役に立たない若様だこと!」


 まさか初めての口付けに動揺して逃げ出したなどとは言えるはずも無く、口籠ってアオをちらと見た。その時アオは祐之進達に向き直り、再び額を地面に擦り付けた。


「祐之進殿、浜路殿、文吾殿。迷惑をお掛け申した。世話になってしまい辱く存じます」


 驚いた祐之進は慌ててアオの元へと駆け寄った。


「何をするのだアオ!頭を上げてくれ!」

「すまなかった。俺一人、ひっそりと暮らすつもりが皆を巻き添えに」


 訳あってこのような暮らしを選んだ筈だった。だが己は良くてもまさかこのような事になろうとは…。アオは思った。こうも人はたった一人で生きていけないものなのか。俗世とはかくも切り捨てられぬものなのかと。






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