第三幕:virtual


 第三幕:virtual



 悠久の歴史と文化に育まれた中東の小国としてその名を知られる、シリア・アラブ共和国。そんなシリア・アラブ共和国の首都ダマスカスの郊外の閑静な住宅街の一角に、都市型迷彩服に身を包んだレオニードら三人の姿は在った。

「こちらレオニード、これより大使公邸への侵入を開始する」

 バッシャール・アル=アサド大統領と反政権派勢力との対立が表面化した2011年より続く内戦によって国土は荒廃し、テロリストやゲリラが跋扈するダマスカスであったが、無線機越しにそう言ったレオニードらが居る深夜の高級住宅街はそれらの紛争とは無縁とでも言いたげにひっそりと静まり返っている。

「正門前に、歩哨が二人か……」

 今回の作戦の標的ターゲット、つまり『共和国』の駐シリア・アラブ共和国大使の公邸の様子を路傍に停められたライトバンの中からうかがいながら、レオニードはそう言って独り言ちた。そしてそんな彼の言葉通り、宵闇に包まれた深夜の大使公邸の正門前には軍服を着た二人の屈強な男達が立ち塞がり、何人たりとも公邸の敷地内には侵入させまいとその眼を光らせている。

「ど、どうするの、レレレレオニード? あ、ああああたしが狙撃でもって、二人を始末する?」

「いや、わざわざ無駄な血を流して必要以上に人を殺す事もあるまい。俺とイエヴァは道路を迂回し、裏口から公邸内へと侵入する」

 狭く薄暗く蒸し暑い、ドイツ連邦共和国に本社を置く国際的物流企業の配送車に偽装したライトバンの車内で、精悍な顔立ちのレオニードはそう言って隣に座るヴァレンチナの疑問に答えた。

「よし、行くぞ、イエヴァ。ヴァレンチナは指定された狙撃ポイントまで移動し、別命あるまで待機していてくれ」

「りょ、了解!」

「……了解」

 そう言って命令を了承するヴァレンチナとイエヴァの声を耳にしたレオニードはライトバンのバックドアを開け、アスファルトで舗装された路面に静かに降り立つと、そのまま物音一つ立てずに大使公邸の裏口の方角へと足を向ける。

「イエヴァ、ついて来ているか?」

「……はい」

 無線機越しにそう言って互いの位置を確認し合いながら、高く頑丈な塀に囲まれた大使公邸の敷地をぐるりと迂回し、やがて都市型迷彩服に身を包んだレオニードとイエヴァの二人は闇夜に紛れつつ公邸の裏口が見て取れる位置にまで移動した。

「やはり裏口にも、歩哨が立っているか」

 そう言って足を止めたレオニードの予想は的中し、広壮かつ荘厳な造りの『共和国』の大使公邸の裏口の前にも一人の屈強そうな男が歩哨として立っているため、このままでは公邸の敷地内に侵入する事が出来ない。そこでレオニードは奸計を巡らせつつも一計を案じると、彼らとは別行動を取っている筈のヴァレンチナに無線機越しに要請する。

「こちらレオニード、ヴァレンチナ、配置に就いたか?」

「こ、こちらヴァレンチナ、た、たたたたった今、モモモモスクの狙撃ポイントに到着しました」

「よし、そこから大使公邸の裏口前の街灯を順次狙撃し、歩哨の気を引いてくれ。出来るな?」

「りょ、了解! ややややってみます!」

 高級住宅街の中心部に位置するモスクの尖塔ミナレットの狙撃ポイントに陣取ったヴァレンチナは、レオニードの要請に対してそう言って返答すると、彼女の愛銃である高倍率スコープとチークパッドを装着したヴォルク08Sを構え直した。そして大使公邸の裏口から程近い街路沿いに立つ街灯の一つに狙いを定めると、狙撃用に銃身とストックを伸長した自動小銃アサルトライフルの引き金を引き絞る。

「?」

 するとヴァレンチナが狙い撃った街灯がぱりんと音を立てながら砕け散ったので、大使公邸の裏門前に立っていた歩哨の男の注意はそちらに向けられた。そしてその歩哨の男が一体何が起こったのかを確認するために街灯に歩み寄ると、今度はもう少し離れた箇所に立つ街灯もまたぱりんと音を立てながら砕け散り、不審に思った男はそちらの方角へと足を向ける。

「よし、今だ!」

 歩哨の男が次々に砕け散る街灯に気を逸らされ、持ち場を離れている隙に、そう言ったレオニードとイエヴァの二人は物陰から飛び出すと大使公邸の裏口に駈け寄った。そして裏口の扉に手を掛けてみれば幸いにも施錠されてはいなかったので、二人はその扉を押し開けて公邸の敷地内に侵入する事に成功する。

「こちらレオニード、大使公邸の裏庭に侵入した。これより公邸の建屋内へと侵入し、大使を拘束する」

「了解した。大使は妻に先立たれているため一人で就寝しているものと思われるが、決して拘束前にこちらの存在を気取られぬよう、慎重に事を運べ」

「了解」

 無線機越しにそう言って、闇夜に紛れたレオニードは遠く『連邦』の司令部に居る筈のミロスラーヴァ少佐の指示を了承した。そしてイエヴァと共に大使公邸の敷地内の各所に設置された監視カメラの死角から死角へと移動しつつ、大使が就寝している筈の公邸の母屋へと接近し、その内部の様子をうかがう。

「どうやら思っていたよりも、警備は手薄なようだ」

 独り言つようにそう言ったレオニードは大使公邸の母屋へと繋がる温室の扉に簡単な鍵しか掛けられていない事を察知すると、タクティカルベストの胸ポケットからプロの鍵屋が使うようなピッキングツールを取り出し、そのピッキングツールでもって温室の扉の鍵をいとも容易たやすく開け放った。

「こちらレオニード、大使公邸の建屋内へと侵入した」

 彼の愛銃であるカシン12自動拳銃を構え直したレオニードはそう言いながら、背後にイエヴァを従えたまま公邸の温室に足を踏み入れると、しっかりと手入れが行き届いた色とりどりの観賞用の植物の一群には眼も暮れずに『共和国』の大使公邸の母屋へと足を踏み入れる。

「暗いな。イエヴァ、足元に注意しろ」

 そう言って警告したレオニードの言葉通り、窓から差し込む月明かりと星明かり以外に足元を照らす光源が存在しない大使公邸内は薄暗く、まるで万物が死に絶えたかのようにしんと静まり返っていた。

「確か協力者から得た情報によれば、大使の寝室は母屋の二階の最奥に位置する部屋の筈だ」

 カシン12自動拳銃を構えながらそう言ったレオニードは暗く人気の無い一階の廊下を渡り切り、大使公邸の二階へと続く階段に足を踏み入れると、足音を立てないように細心の注意を払いつつその階段をゆっくりと上り始める。

「あれか」

 やがて階段を上ったレオニードとイエヴァの二人が大使公邸の母屋の二階の廊下をも渡り切ると、そこには一枚の重く頑丈な木製の扉がその姿を現した。彼ら『連邦』の軍部に情報を横流しする協力者の言葉を信じるとするならば、この扉の向こうで『共和国』の大使が眠りに就いている筈である。

「……」

 月明かりを頼りに廊下を渡り切ったレオニードが気配と息を殺しつつ、無言のまま手を掛けたドアノブをそっと静かに回すと、大使が寝ている筈の寝室の扉はきいと言う小さな音を立てながら押し開けられた。国家の重責を担う一国の大使が鍵も掛けずに就寝するとは、レオニードらの様な侵入者にとっては千載一遇の好機ながらも、要人の身の安全を確保すべき大使公邸の保安上の観点から鑑みれば不用心な事この上無い。

「居たぞ」

 そして音も無く寝室内へと侵入するなりそう言ったレオニードの言葉通り、公邸の外観と同じく広壮かつ荘厳な造りの寝室の中央に設置されたベッドの上では一人の小太りの中年男性、つまり『共和国』の駐シリア・アラブ共和国大使がぐうぐうと高いびきを掻きながら熟睡しているのが見て取れる。

「こちらレオニード、公邸の寝室にて、大使を発見した。これより拘束し、尋問を開始する」

「了解した。大使は貴重な情報源であり、彼を拘束出来れば、我らが『連邦』は国防上の主導権を握れるに違いない。必要な情報を漏らさず聞き出すよう、慎重に事を運べ」

「了解」

 無線機の向こうのミロスラーヴァ少佐に向けてそう言ったレオニードは、侵入者にも気付かぬままベッドの上でぐうぐうと高いびきを掻いている大使の元へと歩み寄り、その頬を数回ぺちぺちと軽く引っ叩いた。そして大使が眼を覚ますと同時に、大声を上げられないよう彼の口を手で塞いでから、手にしたカシン12自動拳銃の銃口を眉間に突き付けつつ警告する。

「静かにしろ。大声を出せば、その時は躊躇無くお前を射殺する」

 レオニードがそう言って警告すれば、彼に口を塞がれた小太りの大使は恐怖のあまり涙目になりつつも激しく首を縦に振り、抵抗する意思が無い事をその身体でもって表現して止まない。

「よし、それでは今からこの手を放すが、決して大声を出して助けを呼ぼうなどとは考えるな。そして俺の質問に、お前が知っている限りの全ての事実を、正直に余すところ無く答えろ。もし仮に虚偽の情報でもって俺を混乱させるつもりなら、その時も躊躇無くお前を射殺する」

 そう言って重ねて警告したレオニードは、大声でもって助けを呼べないように大使の口を塞いでいた手をそっと放した。そしてようやく満足に呼吸が出来るようになった大使はげほげほと数回ばかりせてから、ベッドの上で半身を起こし、こちらにカシン12自動拳銃の銃口を向けるレオニードに尋ねる。

「貴様ら、一体何者だ? 見たところ、只の空き巣や強盗の類ではないな? さては『連邦』の刺客か? ここが『共和国』の大使公邸だと知っての狼藉か?」

 大使が矢継ぎ早にそう言って問い掛ければ、レオニードは手にしたカシン12自動拳銃の引き金を引き絞った。サプレッサーによって減退された微かな銃声と共に直径0.45インチの鉛弾が射出され、つい先程まで大使が頭を乗せていた彼の枕に命中すると、その枕の中身であった羽毛が周囲に飛び散る。

「こちらの素性を詮索するな。質問するのは俺達の方だ。お前は俺の質問に答えるだけでいい」

 そう言ったレオニードの言葉に、寝間着姿の大使はようやく観念した様子であった。

「分かった。それで貴様ら、この私に何を聞きたい?」

「我々が知りたいのは、お前ら『共和国』が極秘裏に開発している最新兵器に関する情報だ。これまでスイス、ウクライナ、そしてここシリアとその部品に関する情報を収集して来たが、未だにその全貌が掴めてはいない。果たして『共和国』の最新兵器とは如何なる物なのか、大使、お前の知っている事実を洗いざらい白状しろ」

 レオニードがそう言って問い質せば、ベッドの上の大使は一旦小首を傾げてから口を開く。

「最新兵器? ああ、あれの事か」

「知っているのか?」

「ああ、勿論知ってるさ。なにせ私はこの国に大使として赴任させられる以前は、偉大なる党と総書記閣下の命令に従い、あれが設計された工廠の運営責任者の任に就いていたのだからな」

「成程。だからこそ司令部は、わざわざこんな本国から遠く離れた国の大使であるお前から情報を得るように、俺に命じたと言う訳か。それでは大使、最新兵器とは、一体如何なる物だ?」

 カシン12自動拳銃を構えながらレオニードはそう言うが、彼に銃口を向けられた大使もそうそう簡単に口を割るほど愚かではない。

「ふん、知った事か。貴様らの様な『連邦』の走狗ごときに、貴重な情報を漏らす訳も無かろう」

 大使がそう言って情報の漏洩を拒否すれば、レオニードは「イエヴァ、やれ」と言いながら顎をしゃくる事によって、彼の背後で事の成り行きを見守っていたイエヴァに指示を下した。イエヴァはレオニードやヴァレンチナの後輩、つまり『連邦』の軍部の特級秘匿部隊である『クラースヌイ・ピスタリェート』に配属されてから未だ未だ日が浅い、新人の特殊工作員である。すると指示されたイエヴァはベッドの元へと歩み寄り、そこに半身を起こしたまま横たわる大使の左手をやにわに掴み上げたかと思えば、その左手の小指を呆気無くへし折った。

「ぎゃあっ!」

 指をへし折られてしまった大使は苦悶の声を上げるが、そんな彼にレオニードは重ねて警告する。

「大声を出すな! さあ、残りの指もへし折られたくなければ、観念して最新兵器に関する情報を吐くんだ!」

 レオニードがそう言って警告すると同時に、イエヴァが小指に続いて薬指をもへし折ろうとするものの、大使もまた我慢強い。

「ふん、この私を馬鹿にするなよ? この程度の事で、私が偉大なる党と総書記閣下を裏切るとでも思っているのか」

 大使がそう言って啖呵を切れば、イエヴァは彼の左手の薬指に中指に人差し指、更には親指までをも呆気無くへし折ってしまった。そして遂には指だけにとどまらず、大使の左腕の肘関節を、まるで揚げ立てのフライドチキンの手羽元から手羽先を分離するかのようにへし折ろうと試みる。

「どうだ、大使? 麻酔無しで肘関節を破壊されるのは、お前が想像している以上に痛いぞ?」

「わ、分かった! 話す! お前らが聞きたい事は何でも話すから、お願いだからもう止めてくれ! 頼む!」

 肘関節を生きたまま破壊される際の苦痛と恐怖に耐えかねた大使はそう言って、遂に観念した様子であった。そしてそんな大使を、カシン12自動拳銃を構えたレオニードは再び問い質す。

「それでは大使、改めて聞こう。お前ら『共和国』が開発している最新兵器とは、如何なる物だ?」

「……歩行戦車ウォーカータンクだ」

歩行戦車ウォーカータンク?」

「ああ、そうだ、そうだとも。我らが祖国の偉大なる党と総書記閣下は、如何なる悪路であっても踏破可能な高機動の多脚戦車を世界に先駆けて開発し、既に実用化へと漕ぎ着けつつある」

「成程。それでは、その歩行戦車ウォーカータンクとやらの性能はどの程度のものなのか、白状しろ。火力は? 装甲の素材は? 車輛質量当たりの起動輪スプロケット出力は?」

「ま、待ってくれ! そんな事まで白状したら、私と私の家族までもが偉大なる党と総書記閣下によって処刑されてしまう!」

「知った事か。イエヴァ、やれ」

 無情にもそう言って、大使の命乞いの言葉をばっさりと切り捨てたレオニードは、再び顎をしゃくってイエヴァに指示を下した。しかしながら彼女は指示に従って大使の肘関節を破壊する代わりに、両の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零れ落としながらその場に泣き崩れてしまう。

「イエヴァ、どうした?」

 何の前触れも無く突然泣き崩れるイエヴァの姿を眼にしたレオニードはそう言って、一体全体何が起きたのかも理解出来ぬまま、今の今まで大使の左肘をへし折らんとしていた彼女の安否を気遣った。するとイエヴァは素朴ながらも整った顔立ちを大粒の涙でもってぐしゃぐしゃに濡らしつつ、その場に居合わせた全ての人間にとって予想外な言葉を口にし始める。

「……ミロスラーヴァ少佐、あたし、もうこんな事したくありません」

「何だと?」

 今度はそう言って、無線機の向こうのミロスラーヴァ少佐が驚く番であった。

「……あたし、本当はもっと家族や友人に褒められて、祖国の英雄として万人から称賛されるような仕事がしたくて軍務に就く事を希望したんです。それなのに気付いたらこんな非合法な部隊に配属させられて、来る日も来る日も人様に顔向け出来ないような要人暗殺や諜報活動を命じられるばかりで、いつまで経ってもあたしの活躍が日の目を見るべき機会は巡って来ないじゃないですか」

 涙ながらにそう言って、訥々と訴え掛け続けるイエヴァの眼は疲労と心労でもって完全に濁り切り、まるで陸に打ち上げられて腐った魚のそれの様にすっかり光を失ってしまっている。

「……だからあたし、特級秘匿部隊だか何だか知りませんが、もうこれ以上こんな日陰者の部隊には一分一秒だって所属していたくはありません。もっと華々しい表舞台でもって堂々と胸を張って活躍出来るような他の部隊に転属させてもらうか、そうでなければ、速やかに除隊させてください。お願いします」

 イエヴァはそう言って頭を下げ、転属、もしくは除隊を申し出るが、無線機の向こうのミロスラーヴァ少佐もまたはいそうですかと言って彼女の言葉を鵜吞みにするほど馬鹿ではない。

「イエヴァ、キミが言わんと欲するところは重々承知した。正直な胸の内を吐露してくれた事には感謝しているし、転属も除隊も、キミの希望を念頭に置きつつ前向きに検討しよう。しかしながら、今現在の我々は敵地での作戦行動の真っ最中である事を忘れてはならない。だからこそ恙無つつがなく任務を完遂して司令部に戻るまでは、指揮官である私とレオニードの命令に従いたまえ」

「……了解しました、ミロスラーヴァ少佐、感謝します」

 ミロスラーヴァ少佐の説得に対してそう言って返答したイエヴァは、次の瞬間、躊躇う事無くベッドの上で半身を起こした大使の左の肘関節をへし折った。

「ぎゃあっ!」

 すると肘関節をへし折られてしまった大使がそう言って再びの苦悶の声を上げるのとほぼ同時に、彼らが居る寝室と廊下とを繋ぐ扉が音も無く開いたかと思えば、不意に小さな人影が月明かりを背にしながら姿を現す。

「……パパ?」

 果たしてそう言いながら寝室の扉を開けて姿を現した小さな人影は、爽やかなパステルカラーのパジャマに身を包み、小熊をかたどったぬいぐるみを抱えた一人の可愛らしい幼女であった。そしてその幼女はカシン12自動拳銃を構えたレオニードとベッドの上の大使に交互に眼を向けつつ、まるで邪気の無いつぶらな瞳を見開いたまま呆気に取られている。

「ソユン、来るな! 下がっていなさい!」

「パパ!」

 妻に先立たれた大使をパパと呼び、また同時に大使からソユンと呼ばれたパジャマ姿の幼女は、どうやらこの公邸で大使と寝食を共にする彼の実の娘である事が推測された。

「糞!」

 そして大使の娘のソユンに姿を見られてしまったレオニードはそう言って悪態を吐きつつも、無線機の向こうのミロスラーヴァ少佐に指示を仰ぐ。

「こちらレオニード、大使の娘に我々の姿を見られてしまった。至急、指示を請う」

「了解した。大使とその娘を今すぐ始末し、撤退せよ。作戦は失敗だ」

「了解」

 そう言ったレオニードはサプレッサーが装着されたカシン12自動拳銃の引き金を引き絞り、ベッドの上で半身を起こした大使をあっさりと射殺してしまった。そして頭部に直径0.45インチの穴が穿たれた大使の身体が真っ白なシーツを鮮血で赤く染めながら、豪奢な造りのベッドの上に力無く転がり落ちるのを確認すると、彼の後輩隊員であるイエヴァに命じる。

「イエヴァ、今すぐ大使の娘を射殺しろ! 急げ!」

 レオニードがそう言って命じれば、命じられたイエヴァはフォアグリップとドットサイトが装着されたヴォルク08Kを構え直し、その照準を大使の娘であるソユンの眉間に合わせた。しかしながら彼女はヴォルク08Kを構えたまま逡巡し、その引き金を引く事が出来ない。

「どうした、イエヴァ! 早く射殺しろ!」

「……出来ません! こんな小さな女の子を射殺するだなんて事は、あたしには出来ません!」

 イエヴァがそう言って手にしたヴォルク08Kの構えを解けば、眼の前で実の父である大使が射殺されて呆気に取られていたソユンが彼女を取り巻く状況をようやく理解し、小熊をかたどったぬいぐるみを抱えたまま公邸中に響き渡るような大声でもって悲鳴を上げる。

「!」

 幼女とは思えないほどの声量のソユンの悲鳴が大使公邸中に響き渡れば、公邸を警護する『共和国』の軍人達やSP達が寝室まで駆け付けるのも時間の問題であった。

「糞! イエヴァ、撤退するぞ!」

 改めて作戦が失敗したと言う事実を噛み締めたレオニードはそう言って、ヴォルク08Kを構えたまま立ち尽くしているイエヴァに撤退を命じると、彼自身もまた寝室の扉の向こうの廊下の方角へと足を向ける。

「どうしたイエヴァ! 早くついて来い!」

 レオニードが廊下に足を向けながらそう言って発破を掛ければ、立ち尽くしていたイエヴァははっと我に返り、先輩隊員であるレオニードの背中を追うような格好でもって彼女もまた廊下に足を向けた。そして繰り返し悲鳴を上げ続けるソユンをその場に残したまま寝室を後にすると、足早に階段を駆け下り、大使公邸の正面玄関目指して廊下を駆け抜ける。

「こちらレオニード、大使の娘を始末し損ねた。これより大使公邸から撤退する」

「了解した。大使を射殺したのが我々である事を示す証拠を決して残さぬよう、慎重に事を運べ」

「了解」

 無線機越しにそう言ったレオニードとイエヴァの二人が大使公邸の正面玄関に辿り着く寸前で、その正面玄関の扉が外側から開いたかと思えば、軍服姿の二人の屈強な男達が公邸内へと足を踏み入れた。どうやら大使の娘であるソユンの悲鳴を聞き付けた歩哨が持ち場を離れ、正門前からここまで移動して来たものと思われる。

「■■■■■■、■■■!」

 早口の『共和国』語でもって警告の言葉を叫びながら、軍服姿の男達は手にした短機関銃サブマシンガンの銃口をレオニードとイエヴァに向けた。しかしながら彼ら二人の短機関銃サブマシンガンの銃口が火を噴くより早く、レオニードはカシン12自動拳銃の引き金を引き絞り、正確に眉間と胸の二か所を撃ち抜かれた軍服姿の男達はその場に崩れ落ちる。

「出来れば、殺したくなかったんだがな」

 そう言って少しばかり後悔しながら軍服姿の男達の死体を踏み越えたレオニードとイエヴァの二人は、重く頑丈な正面玄関の扉を潜って大使公邸の母屋を後にした。そしてしっかりと手入れが行き届いたアプローチを足早に駆け抜けると、開け放たれていた正門をも通過し、やがて公邸の敷地内から闇夜の街道へと足を踏み入れる。

「イエヴァ、撤退だ。急げ」

 足を踏み入れた街道に目撃者となるような人影が無い事を確認したレオニードはそう言うと、大使公邸から少し離れた路傍に停められた、ドイツ連邦共和国に本社を置く国際的物流企業の配送車に偽装したライトバンの方角へと足を向けた。

「ヴァレンチナ、キミも今すぐ撤退しろ。ライトバンの車内で合流だ」

「りょ、了解。す、すすす、すで、既にそちらに向かってます」

「よし、急げ」

 無線機越しにそう言ってヴァレンチナとの通信を終えたレオニードは、ライトバンの元へと辿り着くと素早く運転席に乗り込み、イエヴァは助手席に乗り込んでヴァレンチナの到着を待つ。

「お、おま、お待たせしました」

 やがてレオニードらに遅れること数分後、そう言って恐縮しながら姿を現したヴァレンチナがバックドアを開けてライトバンの車内へと転がり込むと、レオニードはアクセルペダルを踏み込んでライトバンを発進させた。そしてシリア・アラブ共和国の首都ダマスカスの郊外の、深夜の高級住宅街から彼ら三人が走り去れば、遥か後方の大使公邸の方角からパトカーのサイレンの音が聞こえて来る。

「こちらレオニード、大使公邸からの撤退を完了した。これよりダマスカス国際空港へと進路を変更し、残念ながら作戦は失敗してしまったが、当初の予定通り司令部への帰途に就く」

「了解した。返す返すも残念極まりないが、覆水盆に返らずとも言うし、今は作戦の失敗を悔やんでいても仕方が無い。過ぎた事は一旦忘れて、司令部への帰還を最優先事項としろ」

「了解」

 ライトバンのハンドルを握るレオニードは無線機越しにそう言って、司令部に居る筈のミロスラーヴァ少佐の指示を了承するものの、そんな二人の通信内容に耳を傾けていたガリーナは横から口を挟まざるを得ない。

「それにしてもイエヴァったら、よりにもよって大使の娘を射殺する事が出来ないだなんて、祖国の治安維持と安全保障の一端を担う特殊工作員としての自覚が足りないんじゃないかしら?」

「……」

 まるで自分を嘲笑するかのようなガリーナの言い分に、空港を目指すライトバンの助手席に腰を下ろしたイエヴァは固く上下の歯を噛み締めながら口を噤み、自責と恥辱の念に堪え偲ぶばかりだ。

「おいおいガリーナ、ちょっとそれは言い過ぎなんじゃないか?」

 するとガリーナと同じくレオニードらの通信内容に耳を傾けていたアガフォンもまたそう言って横槍を入れると、やにわにイエヴァを擁護し始める。

「大使の娘は未だほんの九歳の女の子だったんだし、大使本人とは違って彼女は何の罪も無い無辜むこの民なんだから、イエヴァが射殺出来なかったとしても何の不思議も無いだろう?」

「そうは言うけどね、アガフォン? 女の子だからと言って誰彼構わず情けを掛けていたら、特殊工作員は務まらなくってよ?」

「だからイエヴァは、それだけ優しい女性なんだよ」

「あら? アガフォンったら、さっきから随分とイエヴァを庇い立てするじゃない? もしかしてあなたったら、あんな小便臭い小娘に対して、何か良からぬ感情でも抱いているのかしら?」

「は? おい、待てよガリーナ、今の発言はちょっとばかり聞き捨てならないな。よりにもよってイエヴァの事を小便臭い小娘だなんて、心優しい彼女を侮辱するにも程があるだろう」

「ふふふ、どうやら図星だったみたいね?」

 無線機越しにそう言って無意味で無益な口論を繰り広げるガリーナとアガフォンであったが、二人の遣り取りは各自の耳に装着された無線機を通じて全ての隊員達に筒抜けであり、当然の事ながら口論で槍玉に挙げられたイエヴァもまた例外ではない。

「ガリーナもアガフォンも、二人ともそこまでにしておけ。畏れ多くも我らが特級秘匿部隊である『クラースヌイ・ピスタリェート』にとって、志を同じくする隊員同士のいざこざは御法度だ。その事実を思い出したのならば、作戦行動に必要無い発言は厳に慎むように」

 やがて痺れを切らしたミロスラーヴァ少佐がそう言ってガリーナとアガフォンを諫めたかと思えば、彼女に諫められた二人はようやく口論に終止符を打ち、遠く『連邦』の地の司令部にもダマスカスの街を空港目指して疾走するライトバンの車内にも一瞬の静寂が訪れる。

「……」

 口論の無意味さに呆れ果てたレオニードは言葉を失い、無言のまま、重苦しい空気に支配されたライトバンの車内でハンドルを握りながら途方に暮れるばかりである。

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