第36話

 焦らず自分の道を考えてみよう。

 夏輝さんの言葉でそう決めたあたしは、10月に入ってだいぶ過ごしやすくなった日の晩ご飯のあと、あたしの部屋で翔子と静音さんと一緒に勉強会をしていた。

 何のことはない。

 10月も中旬になると2学期の中間試験があるからだ。

 もちろん、友喜音さんに教えてもらおうと思えば友喜音さんのことだから快く教えてくれるだろうけど、曲がりなりにも受験生だ。

 極力邪魔をしないようにしようと翔子とは話がついていて、そのこともあって翔子とは前々から一緒に試験勉強をしようと話をしていた。

 そこへどうせやるならと静音さんが加わって3人で勉強会、となっていた。

 麦茶に糖分補給のチョコレートを用意して始まった勉強会は、最初の30分くらいは何事もなく、ただカリカリとシャーペンの音だけが静かな室内に響く状態だった。

 その静かな空気を打ち破ったのは静音さんだった。

「千鶴、ここがわからない」

「え? どこ?」

「ここ」

 教科書を見せながら指差したところを見て、これなら解けると解説付きで静音さんに教える。

「理解できた?」

「たぶん」

「じゃぁ別の似たような問題解いてみて。それでもわかんなかったらまた言ってね」

「わかった」

 あたしの勉強机の横から畳の上のテーブルに戻って静音さんは再びシャーペンを走らせる。

 そうして5分ほどして再び静音さんがあたしのとこにやってきた。

「やっぱり解けない」

「んー、そうだなぁ……」

 どう教えたらいいだろうかと考えていると静音さんは身体を密着させてきて、上からあたしの勉強机に置かれた教科書とノートを見下ろした。

 するとたわわな胸が頭に当たってしまう。

「静音さん、胸、胸!」

「胸がどうかした?」

「頭に当たってる!」

「別に気にしなければいい」

「気にするよ!」

 前に教室で堂々と『好き』宣言をされたこともあって、こうも密着されると静音さんの美少女っぷりと相俟ってどぎまぎしてしまう。

「そんなに近くなくても教えられるから!」

「わたしが近くにいたい」

「はいぃ!?」

「ダメ?」

 ダメと聞かれてはっきりダメだと答えるのは躊躇われた。

 静音さんは色んな過去があって、それでもあたしのことを『好き』だと言ってくれて慕ってくれているわけで。

 そんな相手にダメ出しをする勇気も気概も持てないでいた。

 すると静音さんは何を思ったのか、あたしの頭を抱き締めてその豊かな胸に掻き抱いた。

「ちょっ! いきなり何!?」

「勉強教えてくれるお礼」

「いちいちお礼はいいよ!」

「じゃぁ最後にわたしを抱く?」

「抱かないから! ってなんでそういう発想になるかな!?」

「千鶴なら何されてもかまわない。お礼と言っても他に思い付かないからこうしてるだけ」

「そういう方向のお礼はいいから!」

「そう?」

「うん、そう!」

「じゃぁ別のお礼を考える」

「お礼はいいから! 勉強教えたり教えてもらったりはお互いさまでしょ!?」

「そう?」

 それで静音さんが納得したかはわかんないけど、とりあえず身体を離してくれた。

 でも問題は取り残されたままなので、静音さんは膝立ちになってあたしと目線を合わせた。

「と、とにかく、ここはね……」

「うん」

 そう言ってようやく勉強を再開したものの、わからない問題があると静音さんはあたしに尋ねてきて、お礼と称して頬にキスしてこようとしたり、手を取って胸を揉ませようとしたりして大いにあたしを焦らせた。

 もう何度目かわからないくらいの回数になってようやくあたしは肝心なことを口にした。

「ねぇ、静音さん、なんで毎回あたしに聞きに来るわけ?」

「え? だって千鶴は一応わたしより成績いいじゃない」

「それなら翔子に聞いたら? あたしより翔子のほうがずっと成績がいいよ?」

「そうなの?」

「うん。1学期の期末の平均、90点超えてるんだよ、翔子は」

「そうだったんだ」

「知らなかったの?」

「気にしたことなかった」

 これにはこけそうになる。

 曲がりなりにも1年以上同じ屋根の下で暮らしていた寮生だと言うのに、翔子の成績を知らないとは思わないじゃない?

「じゃぁ次からは翔子に聞いてよ。きっとあたしより上手に教えてくれるよ?」

 そう言うと静音さんは振り向いて翔子をじっと見下ろした。

「な、何よ」

「やっぱり千鶴がいい」

「はぁっ!?」

 翔子が驚きとも怒りともつかない声を上げた。

 そりゃそうだろう。

 ここにいる3人で一番成績がいいのは翔子だし、わからなければあたしだって翔子に聞く。

 それを一蹴してしまったのだから翔子が声を上げるのもわかる。

「で、でもほら、あたしがわかんない問題でも翔子なら解けるかもしれないじゃない?」

「そうしたら千鶴と一緒に考える」

「それじゃ時間かかっちゃうよ。きっと翔子ならわかりやすく丁寧に教えてくれると思うよ?」

 すると静音さんはあたしと翔子を交互に見やってテーブルのほうに向かって座った。

「気が進まないけど、千鶴がああ言ってるから翔子に聞くことにする」

「何、その言いぐさ!」

「まぁまぁ、翔子」

「まぁまぁじゃないわよ! だいたいこんな上から目線で来られて『はいそうですか』って教えると思う!?」

「じゃぁやっぱり千鶴に教えてもらうことにする」

「ちょっと待ちなさい、静音。あんた、もしかして勉強教えてもらうフリして千鶴を誘惑してない?」

「してない」

「ホントに?」

「誘惑するならこんなまどろっこしいことはしない。最初から押し倒す」

「それもどうかしてるよね!?」

「押し倒すってね、静音……。まさか本気で押し倒そうなんて思ったこと、ないわよね?」

「あるよ。千鶴ならきっとわたしのすべてを受け入れてくれると思うし、たぶん千鶴となら気持ちいいことができると思う」

「静音……」

 翔子がわなわな震えてる。

 あ、これはやばいヤツだ。

 そう思ったときにはもう遅かった。

「ふたりして勝手に乳繰り合ってなさいよね! あたしは自分の部屋で勉強するから!」

 がさっと勉強道具を乱暴にまとめると、翔子はどすどすと足音荒くあたしの部屋から出ていってしまった。

「あーあ……、もう静音さん、なんであんなこと言うかなぁ」

「ホントのこと言っただけ」

「ホントでも言っていいことと悪いことがあるよ。あたしだってわかんないとこがあったら翔子に聞こうと思って、前々から翔子と勉強会する約束してたのに」

「そうなの? それは千鶴に悪いことをした」

「あたしだけじゃなくて、翔子にも、だよ」

「なんで?」

「なんでって翔子を怒らせたのは静音さんじゃない」

「何が原因で?」

「勉強のことでしょ?」

「そうかな?」

「……?」

 静音さんの疑問にあたしは疑問を浮かべる。

 だって今の話の流れからしたら勉強のこと以外で翔子が怒る要素なんてどこにもないじゃない?

 他にいったい何があるんだろう? って考えてみても思い当る節はまったくない。

「千鶴は優しいけど、ちょっと鈍感」

「なんでそこでディスられるかな!?」

「わからないの?」

「わかんないよ……」

「じゃぁ宿題。中間が終わってからでいいから答えを見つけておくこと」

「何それ、意味わかんないよ」

「だから千鶴はちょっと鈍感なの」

「……?」

 鈍感なのは確かかもしれないけど、今の状況で勉強以外に翔子が怒ってしまう理由なんて本当に思い付かない。

 それ以外で何かあったかと言えば、静音さんがスキンシップのしすぎだった、ってくらいだけど、それはいつものドジや行動、言動から翔子だって十分すぎるくらいわかってることだろうし。

 あー、もうっ、わかんない!

 答えを求めて静音さんに声をかけようとしたら、静音さんはあたしに背を向けてテーブルの上で勉強をし始めた。

 その背中には『聞いても教えてあげない』って書いてあるような気がして、喉まで出かかった疑問を飲み込まざるを得なかった。

 静音さんには見えていて、あたしには見えていないこと。

 それがいったい何なのか、皆目見当がつかなくてしばらくの間、あたしは勉強が手に付かなかった。

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