第13話 倉庫A705の話 5

 刹那。

 ぐい、と下方にスラックスの裾を引かれた。


 抵抗もなくソフィアの体は床に向かって沈み込む。ソフィアの頭上で「がちり」と歯音がなった。


 目だけ向けると、女が、何もない空間を、ガチガチと噛んでいる。


「ひ……っ」

 小さく声が漏れると、女の顔が下を向いた。


 目などないのに。

 明らかに、目が合った。


 硬直したソフィアの体は、だが更に下降する。


 彼女の体が動きを止めたのは、力強く腰を抱き留められたからだ。


 ソフィアは視線を転じる。

 ライトが、向かい合うようにして、自分を抱えていた。


「大丈夫かい?」


 顔を寄せて尋ねられ、ソフィアは頷いた。

 彼の靴には電磁石が仕込まれているのだろう。

 無重力下でも、ゆるぎない。しっかりと床に足を突き、腕を伸ばしてソフィアのスラックスを捕まえてくれたらしい。


 ガチガチガチガチガチ。

 硬質な音にソフィアは反射的に顎を上げる。


 女が。

 歯を打ち鳴らしてソフィアめがけて急降下しているところだ。


 ふたたび、目が合う。


 ソフィアは、悲鳴を上げた。


 そのソフィアと女の間に体を滑り込ませたのは。

 あの、人形だった。


 ソフィアに背を向けた人形は、四肢を伸ばして女の顔に張り付く。

 女はもがくように、ふりほどくように首を振りながら、ソフィアとライトのすぐ側に落下した。


 どん、と音を立てて頭から女は床に転がる。顔から人形を引きはがそうと、張り付く人形のドレスを掴み、裂いた。

 だが、人形は微動だにしない。


「ちょっとごめんね」


 ライトは言うなり、ソフィアを左腕に抱いた。

 さっきまで人形をそうしていたように、ソフィアを自分の肘当たりに座らせると、右手を上げる。


 ぴゅい、と音を立てて舞い降りたのは、あの小鳥だ。

 だが、ライトの指に触れるやいなや、その姿は細身の刀身に姿を変えた。


持衰じさい、そのまま」


 ライトは言うなり、床にのたうつように転がる女の腹に、深々と刺した。


 びくり、と。

 女は一つだけ痙攣するかのように身を強ばらせ。


 そして、動きを止める。


 続いて聞こえてきたのは。

 じゅるり、という液体を啜る音だ。


 ソフィアは身をよじってライトの首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめたまま足下を見遣る。


 動かない女の姿。仰向けの女。

 その顔にはりついた人形。


 人形は。

 女を喰らっている。


 じゅるり、と咀嚼音をたてて。


「残り二分。無重力演習の終了まで、残り二分」


 アナウンスと共に、ソフィアはまた、悲鳴を上げた。


 きつくライトに抱きつく。いてて、とライトが小さく呻いたが、ソフィアは息が続く限り声を張り上げ続けた。


「大丈夫だから。もう消えたから」


 ライトがなだめすかしながら、背を撫でてくれるが、高音域の悲鳴をソフィアが耳元で聞き続けてなんだか鼓膜の調子がおかしいらしい。最終的に、ライトは顔をしかめ、「ねぇ!」と強めに声を発した。


「君のカラビナ、さわるよ!」


 大声で怒鳴られ、ようやく叫ぶのを止めた。ぜぇぜぇと荒い息をしながら、自分の腕に抱え込んだライトの顔をそっと見遣る。


 黒曜石に似た瞳が、迷惑そうにソフィアの顔を見返していた。


 ぎぃ、と鈍い音がしたと思ったら、自分の腰に装着しているカラビナだ。ライトはソフィアを抱えたまま、ガツガツと音を立てて手すりに近づく。


「車いすが落ちてきたら大変だし。取りあえず、ここにいて」


 ぎゅい、と回転音を立ててカラビナを引き、ライトはその先を手すりにつなぐ。ソフィアは肩で息をしながらも頷いた。彼女のその仕草を確認すると、ライトはソフィアから手を離す。


 ふわり、と。


 プールの中にいるような感覚がソフィアを包んだ。

 すぐに姿勢を制御しようと、手すりにつかまり、膝までしかない自分の足をばたつかせる。

 ぺったんこのスラックスの裾は、まるでフィンのようだ。


 そのソフィアの視線の先で、ライトが浮かび上がった。

 足下を見ると、靴を脱いでいる。


 手慣れた様子で天井まで浮いてしまった車いすに近づくと、そのハンドルを掴み、今度は天井を蹴って床まで戻ってくる。


「残り一分。総員、重力に備えよ」

 アナウンスが声に緊張感を孕ませる。


 ライトは車いすを掴んだまま電磁石入りの長靴を足に突っ込んだ。

 がつがつと再度音を立ててソフィアの側まで近寄ると、固定具を使って床に車いすを自立させる。その手際を見ながら、どうして自分はあんな簡単なことができなかったのか、と顔が熱くなった。


「ほら」

 ライトは言うと、ソフィアの腰を取って座らせる。前に回って固定ベルトをしようとするから、ソフィアは首を横に振った。


「自分で出来ます」

 そう言ってから、小声で「ありがとう」とつけ加える。


 返事は、小さく鼻を鳴らされただけだ。ソフィアは手早く腰ベルトを回し、同時にカラビナを外す。


「三、二、一。重力、回復します」


 ばちん、と鈍い音がして照明が通常モードに回復する。同時に、上から何かを乗せられたような重さを感じた。


 重力が、回復したのだ。


 ほう、と息を吐いたソフィアの耳に、足音が滑り込んだ。ライトが自分の側から離れ、何かを拾い上げたようだ。


「……女は?」


 呆然とソフィアは呟く。車いすに乗ったまま、首だけねじって背後を見遣る奇妙な姿勢のまま、ソフィアは動けない。


 廊下には。

 あの、血塗れの女性が横たわっていたのではないか。


 ライトに腹を貫かれ、人形に顔を喰われて。

 倒れ伏していたのではないのか。


「喰ったんだよ」


 くるり、と振り返り、ライトは朗らかに笑う。腕には、あの薄汚れた人形を抱いたまま。


「……喰った」

 ソフィアはオウム返しに尋ねる。ライトは笑みを深めた。


「ところで、このあと時間ある?」


 腕の中に抱えている人形を一瞥したあと、ライトは人好きのする顔でソフィアを誘った。


「持衰が、一緒にお茶でもどうか、って言っているけど」


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