軌道上 その四

 虫が鳴いている。夜露に湿り始めた草葉の隙間を縫うように、細く、冷たく、それでいてたくましい虫の音が、足下からいくつも立ちのぼってくる。

 暗い夜だった。都会で生まれ育った少年にとって、初めて経験する漆黒の闇だった。先をゆく従兄の白いシャツだけがかろうじて、視界の中で絵本のお化けのようにふわりふわりと浮かんで見えているが、少しでも遅れれば、そのお化けさえも闇の奥に溶け込んでしまいそうだった。

 少年は、従兄の背中を見失う恐怖に怯え、ともすれば漏れ出そうになる嗚咽を押し殺し、黙々と歩き続けた。


 少年の心の中ではひりつくような後悔と従兄への恨みが渦巻いていた。ちょっと遠いけど、なんて嘘ばっかりじゃないか。ユナ叔母さんが暗いから気をつけなさいって言ったのにコウちゃんは早足だし。八月なのになんだか寒いし。ねえ、待ってよ。もしはぐれたら家にも戻れないよ。ねえ――


「シンちゃん着いたぞ。ほら、あそこ見てみ」

 声と同時に従兄の汗の匂いがして、永遠に続くかと思われた暗闇の行軍は唐突に終わった。

 少年は大きな安堵にほっと息をつき、従兄の、見えない指先の指す方向に見当をつけ前方の闇をすかし見た。

 滲んだ星のようだった。淡く緑がかった黄色い小さな光が二つ、いや三つ、少年の高鳴る動悸とシンクロするように点滅している。

「あれが?」

「うん、あれがホタルさ。この辺にいるのはヘイケボタルっていうやつなんだって」

 いつか記録映像で見た、何十、何百という光の乱舞とはほど遠く、地味で、そのくせせっかちな光り方ではあったが、本物のホタルなのだ。

 少年は、ついさっきまで泣き出す寸前だったことなどすっかり忘れ去り、あっという間に三つの小さな光の明滅に心を奪われた。


 光る。消える。光る。消える。光る……


 ホタルが光る明確な理由は今でもわからないという。

 捕食者への威嚇、異性への求愛、いずれにせよ何らかのメッセージがその儚げな光のリズムに乗せられていることだけは間違いないらしいが――

 いつしかホタルはその数を増やし、暗闇のあちこちに群れ集い、同じリズムで点滅し始めていた。


 光る。消える。光る光る光る。消える。光る……


 カンと乾いた音がしてエアコンが作動し、原田は幼い日の回想から現実へと呼び戻された。ずっと窓に押し付けていた額に鈍い痛みが生まれている。冷えた体が固まり、手足が思うように動かせない。回想の名残なのか、視界のあちこちで、未だに光の点滅が続いている。

 そうだ、ずっと地球を眺めていたんだ。

 長谷川に命じられ、居住モジュールにある個人用コンパートメントに潜り込んでからすでに三時間。その間に〈もちづき〉は地球を二周し、今、三度目の夜の地帯に差し掛かろうとしていた。

 いつか時間を気にすることなく、心ゆくまで地球鑑賞をしてみたいという願いが思わぬ形で叶ったが、この三時間、雄大な光景は少しも心に入ってこなかった。忙しい任務の合間を縫って、食事の時間を削ってまで眺めた地球には心が震えたというのに。


 光る。消える。光る光る光る光る。消える。光る……


 あれは?

 原田はようやく、その異変に気づいた。黒々とした巨大な球体の表面には、陸地の存在を示すマーカーのように、まき散らしたガラスビーズを思わせる微細な光の連なりがある。その光の連鎖が、まるで地球が息づいているかのように点滅を繰り返しているのだ。先ほどのホタルの幻影が脳裏に焼き付いているのかと、目を擦り、頭を振るが状況は変わらない。原田は再び直径三十センチのガラス窓に額を押し当てた。


 緩やかな弧が視界の右端を横切り、夜の地球が眼下に蕩々と広がっている。その表面に散りばめられた都市の光が、完全にシンクロしたリズムで点滅している。

 さらに〈もちづき〉の進行に伴って、視界の右端にある弧の向こうから、新たな光の連なりが次々に迫り上がってくるのだが、それらの光もみな同じリズムで点滅を繰り返していた。その広がりはどう見ても一つや二つの国だけではない。国境を越え、海を越え、光の脈動は地球の全表面に及んでいるかのようだった。


 いったい何が起きているのだ。


 理由はまるでわからない。だが、無数の光の点滅を見るうちに、なぜか初めてホタルを見たあの夜のような驚きと感動が湧き上がってきた。


「ホタルは何のためにあんな風に光るの?」

「そんなのわかんねえよ。俺、ホタルじゃないもん。ま、何かの合図だとは思うけどさ」


 暗闇の中で従兄と交わした短い会話がよみがえる。

 何かの合図、合図?

 光の点滅で伝える合図とは何だ。誰が一体何のために、誰に対して、こんな途方もないスケールの合図を送ろうとしているのだ。そもそも現在のように通信手段の発達した地球において、単純な光の点滅で伝えなければならない通信相手などいるのだろうか?

 そこまで考えたとき、原田の背筋を電流が走ったかのような痺れが貫いた。


〈もちづき〉なのか?


 通信手段を断たれたまま地球の周回軌道を飛び続ける〈もちづき〉に何かを伝えるとすれば、これほど確実で、しかし想像を絶する手間と労力が必要とされる方法はないだろう。

 そう気づいたとたん、原田は即座に点滅の意味を悟った。

 モールス信号だ。

 そして無意識のうちに、宇宙飛行士養成課程の一つ「緊急時の連絡手段」で覚え込んだ長短のリズムを、地球全表面で繰り返されている光の点滅にリンクさせていた。


 ・‐‐・ ・  ・・・・ ‐‐‐  ・‐‐・  ・   ・・・・

  P  E   H   O   P    E    H


 HOPE? 伝えたいメッセージは「HOPE」なのか?


 そんな四文字を伝えるためだけに、地球上のあらゆる都市の夜間照明を使っているというのか? いったい誰がそんな馬鹿げたことを考え、しかも実行に移したというのだろう。たったの四文字を〈もちづき〉に伝えるためだけに……


 一つだけ断言できることがある。日本宇宙機構は、これほどまでに効率の悪いメッセージの伝達など絶対に行わないということだ。宇宙開発に関わる人間の頭に絶えずあるのは、最小限のエネルギーによって、いかにして最大限の成果を得るかということである。ところが現在行われていることは、まったく逆の発想に基づいているではないか。

 ならば誰が、とあらためて考えたとき、原田は気がついた。今、この瞬間まで、自分たちの置かれている状況が地上ではどのように伝えられ、人々はそれをどう受け止めているのかなど、想像すらしてこなかったことを。だが、よく考えてみれば、間もなく大気圏に突入する〈もちづき〉は、全世界の関心を集めているはずであった。宇宙開発には関わりのない一般の人々も〈もちづき〉の置かれている状況を詳しく知っていることだろう。


 つまり、そういうことなのだろうか――


 ん? 今、光ったところは海だ。だとすれば船? あそこは砂漠のはずだが光源は何を使っているんだ。それにしても、いったいどれだけの人が今、空を、この〈もちづき〉を見上げているのだろうか。


 やがて一際明るい光の点滅が眼下に迫ってきた。密度の濃い、タイミングが完全にそろった、巨大な弓状の光の連なりだった。

 日本だ。

 あんなことをして、交通事故は起きないのだろうか。航空機運航の妨げにならないのだろうか。苦労してメッセージを送っても、〈もちづき〉の搭乗員は事故対応に忙しくて地上の様子など見ていない、という状況は考えなかったのだろうか。

 いや、きっと信じているのだ。メッセージは必ず届くと信じているのだ。そうして届いたメッセージが〈もちづき〉の搭乗員の励みになればいい。ただそれだけを思って――

 いつしか暖かい涙が目の表面を厚く覆い、光のメッセージが滲んで見えなくなっていた。一方で、心の中に刻まれた光のリズムは鼓動に乗り、体の隅々にまで伝わっていった。


 HOPE HOPE HOPE……


 原田は涙を拭い、その右手を額の斜め前にかざし、地球に向けて敬礼を送った。


 工場モジュールの入り口で一人荷造りを行っていた長谷川は、背後に気配を感じ振り向いた。そこには、すっきりとした表情の原田が、爪先を壁の突起に引っかけて直立の姿勢をとっていた。

 原田は長谷川と目が合うと、深々と頭を下げた。そして再び姿勢を正し、真っ直ぐな視線を長谷川に向けた。


「班長、ご迷惑をおかけしました。でも、もう大丈夫です。荷造りの手伝いをさせてください」

「おう、思ったより早い復帰だな。地球鑑賞でしっかり癒されてきたか?」

 長谷川は手を休め、にやりと笑った。

「班長」

「ん? どうした」

「お見せしたいものがあります」

「UFOでも見つけたか」

 原田は長谷川の軽口には応えず、「オペレーションルームまでご一緒願います」とだけ言って背を向けると、たん、と軽い音を立てて足元の壁を蹴った。

 原田にしては珍しく強引な言動である。

 長谷川は小さな違和感を胸に、連絡通路の奥へと吸い込まれていく原田の後に続いた。


「急いでください。間もなく朝の地帯に差しかかってしまいます」

 オペレーションルームに入るなり長谷川は原田に右腕を掴まれ、〈もちづき〉の下面(地球側)に取り付けられている窓の前に引き寄せられた。

「あれを――」

 長谷川は、原田の指さす先をたどって眼下に広がる夜明け間近の地球に目を向けた。

 長谷川の頭には二十四時間先までの〈もちづき〉の周回軌道がほぼ完璧に叩き込まれている。今はちょうどニュージーランドの直上を通過中のはずである。はたして窓の向こうには日本列島の形状によく似た光の連なりがあった。予想したイメージ通りの光景である。「あれがどうした?」と問い返そうとして、長谷川は異変に気づいた。


「どういうことだ」

「ご覧の通り、モールス信号です」

「馬鹿な、そんなこと、ありえん」

「確かに馬鹿げています。ですが、有意な情報が読みとれます」

「――HOPEか」

「ええ」


 黙り込んだ二人の目の前で、地球は夜明けを迎えつつあった。視界の端にある薄い大気の層が濃い紫からすみれ色に変わり、真珠色の輝きをみせた次の瞬間、円弧の一端が弾けて光の矢が迸った。夜の底にあって初めて存在感を示していた微細な光の点滅は、ひとたまりもなく消し飛ばされてしまう。代わって、朱に染まる小さな雲の頂が藍色の海の上に点々と散らばるという色鮮やかな光景が、二人の眼下に広がった。


「綺麗なものだな」

「ええ」

「いつだったか、地球を見ていると泣けてくる、という話をしてくれたことがあっただろう」

「酒の席で言ったかもしれません」

「今、やっとその気持ちがわかったような気がする」

「班長……」


 短い会話のうちにも朝の景色は流れ去り、いつの間にか白く輝く雲海が視界の大半を覆い尽くしていた。


「原田君、もう君は大丈夫だと判断したから言うが、先ほどまで行っていた荷造りは、私にとって、任務でもあり逃避でもあったのだ。正直なところ、何も考えずに没頭できる単純作業はありがたかった」


 隣の原田が過敏に反応したことを頬で感じながら、長谷川は言葉を続ける。


「だがな、今からは違う。この〈もちづき〉で製造された新素材や新薬を少しでも多く地上へ送り届けることが、モールス信号への返礼だと思って作業できる。やりがいのある仕事だ」


 長谷川は手の甲でそっと目尻を払った。

 それからしばらく、二人は肩を並べて地球を眺めた。


「さて、残り時間はあまりない。作業に戻るとするか」

「はい」


 こうして〈もちづき〉は復活した。

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