16





 サイが手にした真紅の剣を正眼に構えた瞬間、闇夜を鮮やかに染めていた刀身へと何かがぶつかり、甲高い音が弾けた。サイは突然手元に発生した衝撃を受け、剣の切っ先を持って行かれそうになるが、小指を柄に掛けたまま柳のような柔らかさで手首を返すと、剣が掌から抜けてゆくのを阻止する。


──ザッッ


 微かに耳に入る踏み込みの音。ゲトの腕が虚空で振られると、空気を振動させながら見えない何かがサイへと迫ってくる。自身へと向かってくる目に見えない何かを一つ一つ捌いてゆくサイ。衝撃は重いが受けきれぬ程でもない。得体の知れない攻撃を前にしてしばらく防戦を続けていたサイであったが、埒が明かぬと嵐のような激しさを見せるゲトの間合いへと足を踏み入れてゆく。


 ギリギリギリと歪な音を立てながら、疾風がサイを刻もうとする。暗闇の中に生まれた微かな揺らぎを見て、サイは見えないそれの正体を知った。


「くっ」

 目の前に迫っているそれを、辛うじて頭を下げて避けるサイ。宙に浮いたサイの黒髪が数本切断されるが、下から牽制の為に振り上げられたサイの剣を嫌がって、ゲトは後方へと身を振って逃れる。


「黒塗りの刃、か」

 距離をとったゲトを見るサイ。その手にあるのは、刀身が黒く塗られ、視認性を失わせた漆黒の剣。闇夜に紛れてしまえばそれが放つ殺気に気付くことは不可能であろう、まさに暗殺の為に作られたような剣。


 それは、ニーナ・ハミルトンが扱っていたものと同質の剣。それが意味するところは、ニーナに剣術を教えた師が、目の前のゲト・サイラスであるという事を示していた。


 音もなくゲトの身体が跳躍する。細く長いゲトの四肢は、黒塗りの装束も相まってまるで最初からなかったかのように暗闇に溶けてゆく。


 息を呑んだ次の瞬間、サイの目の前に表情のない男がぬるりと顔を出す。


「ゲト!!」

 サイの気合の一声が響き渡る。いつのまにか首元へと伸びていたゲトの剣をすんでの所で受け止めると、サイは力を加えて刃を立てる。刀身に沿って落ちてゆくゲトの剣。そのまま刃だけを残してゲトがまた姿を消す。ゲトが手放した剣は地に落ちることはなく、空気を切り裂くように半円を描きながら暗闇へと還ってゆく。


「はは、導師殿。止めるのではないのか、この狂気を」

 暗闇にゲトの声が響く。サイは声のする方とは全くの逆側、自身の後方から迫る何かを察知すると、身を低くして避けようとする。頭上を通り過ぎてゆく何かは唐突に軌道を変えると、地面近くに身を置くサイへと目掛けて直下に落ちる。サイは咄嗟に剣を掲げるが、ギュルギュルと擦れる音を鳴らしながら刀身に何かが絡まる。


「鎖だと!?」

 刃の繋がれた黒塗りの鎖は、サイの剣へと何重にも巻き付いてその動きを封じる。細身であるはずのゲトから生み出される剛力を前に、サイの身体が剣ごと前へと引っ張られる。そこで待つのは、左手で鎖を引きながら右手を頭上高くに構えたゲトの姿。振り下ろされる見えない刃は、サイの頭蓋を貫くために落ちようとしていた。


「残念だよ」

 何もかもがゆっくりと動く時間の中で、サイはゲトの言葉を聞いた。





 * * *





──お願い


 真っ白に染まる世界。

 その時、ゲトは眼の前で何が起きたのか理解できなかった。


 吐き出す息は生命いのちを疑わせるほどにか細く、ゲトは自らが生きているのか死んでいるのか分からない状況にあった。本能は思うがままに止めようのない殺戮衝動を楽しもうとしている。もとより、ゲトにとっては何もかもを失ってしまった世界に用なぞない。


 人生の引き際を考えていたゲトは、己を殺してくれるかもしれないサイという導師と出会い、かつて会った強き導師を思い出していた。その時には叶わなかった夢が、やっと叶うのではないかという期待をして。


 だが、今回もまたゲトの夢は叶いそうにない。骸がひとつ増え、救いもなく結ばれようとしているくだらない物語。無感情なままにそんな事を考えていたゲトは己へと向けられている視線に気が付いて、息を呑む。


「言っただろうゲト・サイラス。呪縛を払ってやると」

 サイの持っている剣が朱から白に染まり、暗闇を吸い込んでゆく。

 気が付けばサイの剣に巻き付いていた鎖も、ゲトが振り下ろした漆黒の剣も、何もかもが崩れ地に落ちていた。


「何だ……」

 ひりつく喉奥から零れる音は、ゲトの心の内側に僅かばかりの戸惑いを呼び込む。サイの持つ白剣を見たゲトの瞳は、そこに僅かな希望を見て潤みを持つ。


「苦しみ、嘆き、絶望すらも内に秘めたまま歩いて、あんたは生きている」

「……頼むサイ導師。俺はもう、疲れた」

 白い剣のあまりの眩さに目を瞑るゲト。


「骸を残して何とする。あんたが目指した終わりはこんな場所じゃあないだろう、ゲト・サイラス」

「まだ俺に生きろと言うのか。この地獄を」


──ゲト


「俺にはどうしてもあんたが死にたいと思っているようには見えない」

 サイの言葉を聞いて、ゲトは不意を突かれたように瞳を開く。


「俺が、死にたいように見えない、だと?」

 サイの言葉にゲトは瞳の奥底に怒りの色が灯る。


「あんたは死にたいんじゃあない。あんたが描いた理想の未来を生きたいんだ」

「理想の未来?」

「愛しい人と生きられたはずの未来を。笑顔に包まれていたはずの未来を。何もかもが失われずに済んだ未来をあんたは求めた。そしてそれが叶わずに死にたいと錯覚した」

「錯覚だと……。この痛みが、この苦しみが、全て錯覚だと言うのか!」


「そうだゲト、……あんたは今を生きている。痛みも、喜びですらも既に過去にあるものだ。それらは何ものにも変えがたい忘れえぬものなのだろう。だが、数多の想いを積み重ね歩いてきたあんたにしかできない事はなんだ? 人は過去を歩くことはできない。未来を描くことすらも幻のようなものだ。だからこそ、あんたは今を生きている。今を生きなきゃいけないんだ」


──お願い、ゲト


「君は……、こんな時にも君は。俺は君に会いたいんだ」


──あなたは、生きて。


「あぁ、……なんで、君はもういないというのに、そんな事を言うんだ。いつも君は俺に厳しい事を言う」

 愛した人との約束。ゲトを縛り、ゲトを守り続けた、たったひとつの願い。


 ゲトは考える。いつから、思い違いをしていたのだろう。

 掛け違ったボタンのように、何かがずっとずれていただけのようにも思う。


 ゲトは、真っ黒に染まった空を見上げながら、息を吐く。

 いつかミュウと一緒に見た時には、奇麗な月が見えていた。

 雲に隠れて見えるものが少ない世界は、あまりにも心細い。

 それでも、世界は続いてゆく。この身が朽ち果てるその日まで。


「だけど、そんな君だからこそ、素敵だったんだ……」


 天を仰いで倒れ掛けたゲトを、サイが駆け寄って支える。


「サイ導師。迷惑を、掛けた……」

 憑き物が落ちた表情のまま意識を失ったゲトを見て、サイは己の力不足を痛感する。


「結局人を救うのは、それまで生きた道にあるもの、か……」

 どこまで行っても他人である存在に生きるということを強制は出来ない。故に、本人が持つ力を信じるしかない。


──ありがとう


 人生において数え切れぬ溜息のうちの一つをついたあと、サイは誰かの声を聞いた気がした。


 雲が流れ、少しだけ顔を覗かせた月は、淡く、世界を包み込むように輝いていた。





 * * *





 暗闇に音がする。静かだけれど、いつもと違うように思える足音。

 アルマはその音にびくりと身を震わせて、真っ暗な中耳をそばだてる。


「……おじちゃん?」

「ふむ、おじちゃんではないが、大丈夫か?」

「誰? ゲトおじちゃんの声、じゃない」

 聞いた事の無い声に、アルマの中で不安が募る。

 ふいに耳元に感じた手の感触に、アルマは驚きと共に声を上げる。


「だめだよ、これを取ったら、みんな変になっちゃうんだ」

 必死で自分の目を覆う布を、小さな手で守るアルマ。


「大丈夫だ。俺を信じろ、アルマ」

 優しげな声に、アルマの頑なな指が少し緩む。

 するりと滑り落ちるように抜き取られる布。

 アルマは目を瞑ったまま、瞳の裏に光を感じる。


「ゆっくりと開くんだ。明かりに慣れるまで少し目が痛むかもしれないからな」

 いつの間にか心にまで入り込んでくるような声に誘導されて、アルマは恐る恐る瞼を開く。少しずつ光と共に映されていく世界。

 

「な、大丈夫だろ」

 少し困り顔ではあるが、笑顔を作ろうと必死に頑張っているであろう男の顔。

 そんな中でも吸い込まれそうになるほどに美しい黒眼は、アルマの視線をくぎ付けにする。


「きれい……」

「ん、そうか? お前の眼もなかなかもんだぞ」

 そう言ってにやりと笑う男。

 そのまま強く手を引かれて、アルマは長い間囚われていた部屋から連れ出される。

 久しぶりに見る色鮮やかな世界は、アルマの世界が生まれ変わったようでもあった。




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