助けられた者

 ―――数か月前。


「い、いやぁ……」


 ミリス・アラミレアという少女は、人生で一番大きな分水嶺に立たされていた。

 それは人生を大きく左右する出来事であり、瞬間である。


『グルァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!』


 目の前には三メートルは優に超える巨体をした魔獣。

 口元の牙は涎と血肉が混ざった液を垂れ流し、鋭い眼光は飢えた獣のように食料として少女に向けられている。

 辺りを見れば、甲冑だった残骸が散らばっており、原型すら留めていない肉片や臓物が森に転がっていた。


 少女が着ている金の刺繡が入った修道服も、奇抜なデコレーションのように赤く色がついている。

 着色液は、転がっている臓物の色とよく似ていた。


「……ぁ」


 分水嶺とはつまり『生きる』か『死ぬ』か。

 人生でこれ以上の分水嶺は存在しないだろう。

 存在するとなれば、それは天国か地獄かといった天に召された時のお話になる。


 ―――死にたくない。

 ───助けられたはずなのに。

 ───私のせいで。


 それでも、少女はへたり込んで涎を垂らす魔獣を見上げることしかできなかった。


(わ、私に力があれば……ッ!)


 癒す才能こそあれど、傷つける才能など持ち合わせていない。

 神より与えられし恩恵に感謝する日々であったが、今日ばかりは別の恩恵を与えてくれればよかったのに、と。

 内心、嘆かずにはいられない。


 いくらと呼ばれようとも、所詮は一人の人間。

 死ぬのは怖い。目の前に広げられればなおさらだ。


『オ、オォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!』


 魔獣の咆哮が響き渡る。

 草木を揺らし、辺り一面に存在感を示してくる。

 それだけの恐怖に、腰を抜かす程度で終わっていることを褒めてあげたい。

 だが、褒めたところで……という後書きが付け加えられるが。


 故に、少女は願う。

 誰か助けて、と。


 そんな時だった―――


「……えっ?」


 一瞬にして、床一面が黒く覆われたのは。


「遠距離からの魔法を放ったところで当たらなければ意味もないし、色々なリスクを背負うだけなんだよ」


 唐突に、頭上から声が聞えてくる。

 ミリスは驚いて声の聞える方に首を上げる―――なんて真似はしなかった。

 何故なら、声の主よりも目の前の事態の方がそれ以上の驚きとして脳が捉えてしまったからだ。


『ァァァァァァァァァァァァァァッ!?』


 魔獣の足が沈んでいく。

 大きな沼地に嵌まってしまったかのように、足を動かしたとしても別の足が更に沈んでいった。

 もがけばもがくほど、地上に威圧感と恐怖を与えていた巨体が姿を消していき、先程まで放っていた咆哮が驚きと恐怖に染められている。


「結局のところ、沈めてしまえばリスクなんてどこにもない。剣を持って接近する必要もないし、当たる保証のない魔法を放つこともしなくていい。魚以外の生き物がどうして海で生きないのか? 単純に、それは不利な環境だからだ」


 声の主が唐突に降りてくる。

 着地したにもかかわらず、その足は魔獣と違い沈まない。

 それはミリスとて同じことではあるのだが、そこに気がつくほどの余裕は持ち合わせていなかった。


「だったら、不利な環境に引きずり込んでしまえばあとは傍観してるだけで話は終わる。こちとら武勲を挙げる状況でもないし、勝てるならどんな手段を使ってもいい」

『ァァァァァァァァァァァァァァッ!!!』

「沈めよ、肉食獣。もう飽きるほど飯は食っただろ」


 魔獣の叫びが徐々に薄れていく。

 それを見届けるまでに何十秒かかったか? 巨体はゆっくりと影の中へと沈んでいき、やがてその姿を完全に消し去ってしまった。


 それが意味することは、脅威の消失。

 人生で一番の転機が、大きく傾いた瞬間であった。


「…………ぁ」


 それでも、少女は喜びはしない。

 亡骸が辺りに転がっているからか? それとも、恐怖で思考が回らないからか?

 いや、どちらかというと突然の状況変化に頭がついていけないだけだろう。


「……悪かったよ、遅くなって」


 悔いるように、それでいて少し拗ねるように、目の前の少年は口にする。

 黒装束に無柄のお面。背丈は少し大きいといったところではあるが、どこか幼さを感じさせる声。

 それは、ミリアが聞いたことのある情報と酷似していた。


(黒装束に無柄のお面……それに、今のは魔術です。ならば、この人は———)


「弔いを手伝ってやりたいところだが……それはおたくの本分だろ? 素人の俺が間に入るより、お前がやった方が早そうだ」


 少年は足を進める。

 ゆっくりと、森の中へと姿を消していく。


「この森の魔獣は俺が倒しておくから、お前は存分に弔ってやれ。そのあとは、早く家に帰った方がいい」


 最後に聞こえたのは、その言葉。

 お礼を言う間もなく立ち去り、草木の靡く音だけが耳に入る。

 辺りを見渡すと、吐き気をもよおしてしまいそうな臓物は転がっていなかった。

 あるのは、壊れた甲冑と護衛の騎士が持っていた武器だけ。

 これは気遣いだろうか? 少女が不快と思わないような……さり気ない、優しさ。


(あの方は……『影の英雄』様?)


 話には聞いたことがある。

 颯爽とピンチに駆けつけ、誰かを救ってはすぐに立ち去ってしまうヒーロー。

 まさか、目の前に現れるとは。まさか、自分が救われるとは。


 噂を耳にした時には、そんなことなど思いもよらなかった。

 だけど―――


「う、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 そんな驚きは後回し。

 今は、一気に襲い掛かってきた悲しみと安堵によって、溜め込んでいた涙腺が崩壊する。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 叫びの中には、感謝の色も乗っていた。


 泣き止んだのは、それから何十分か経ったあとだった。

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