第17話 井浦の逃避行①

 井浦は走った。なるべく人気がないところを目指した。ひたすらに。


 人がいては駄目だ。誰もいない場所にとにかく、早く身を隠さないといけない。

 走りながら思った。なんでこんなことになったのだろう。なんでこんな状況に自分はいるのか。何度も考えた。けれど、そもそもの原因なんて分からなかった。天の悪戯でしかないと、そう思って自分を納得させようとしていた。

 一つ思い当たるのは、原因ではないがきっかけは慥かにあったということ。

 きっかけ。


 中学三年の終わり、まだ寒さの残る春の日。自宅にいた井浦は一通の封書を眺めていた。第一志望の難関大付属の私立高はすでに不合格の結果が出ている。滑り止めとして地元の県立高を受け、今日その結果通知が届いたのだ。『県立羽塚高校・普通科 合格』の文字があった。


 安堵した気持ちと共に、ここからさらに精進なければいけないと、井浦は強く決意した。だから彼は高校生活が始まると同時に、学校と並行して進学塾に通うことにした。慣れない新生活にクラスメイトよりも多い学習量をこなす日々。負担ではあったがやりがいもあった。何より、それは彼の両親の期待に応える行為だった。日々頑張る姿に両親は励ましてくれるし、嬉しそうにしてくれる。第一志望の私立高を受けると言った時も、父も母も「淳也ならできる」とどこか誇らしげに背中を押してくれた。


 だから私立高に落ちた時、井浦はどうしようもなく絶望した気持ちだった。両親は表には出さないものの、会話の端々に、労わる笑顔の裏に落胆している気配を彼を敏感に察していた。


 そして、ある日から声が聞こえるようになった。気付くとそうなっていた。


 最初は父が喋っていると思った。自宅のリビングで夕食を済ませた後だったか、父と二人でいる時に、父が柄にもなく悪態をついた。それは息子への不満をぼやいたもので、井浦自身は反感を覚え、すぐに切り返して反論した。父は見ていたテレビから「えっ?」と井浦に振り返った。「何が?」と聞き返す父に、「だからさ」と井浦は反論をもう一度言ってやった。父はただきょとんとするばかりだった。その顔はどこか強ばっているようでもあった。父はそんなこと言っていないと言う。井浦は腑に落ちず、何度も状況を説明した。けれど父は言っていないと繰り返すばかりだった。一緒にいた母も父を弁護した。母も井浦が聞いたという声を聞かなかった。そう言うのだ。

 井浦は渋々、折れることになった。自分でも気のせいだったのだろうと、無理矢理納得させた。


 翌朝になると、今度は母の声も聞こえた。父の声もだ。今度は昨夜とは状況も違った。

 自室で朝の身支度をしていた井浦の、すぐそばで母と父の声が聞こえたのだ。二人の会話している声ではなく、それぞれが独り言を言っているようだった。咄嗟にリビングに行くと、母は台所にいて、父は食卓の自分の席に座って新聞を読んでいた。ラジオがかかっているが、二人とも会話はしていない。今何か二人で喋っていなかったか。そう井浦が訊くと、両親は不思議そうな顔で否定した。喋っていない。そう口々に言うのだが、その時にも二人の声が聞こえていた。まるで二重音声だ。主音声と副音声を同時に聴いているようなものだった。あるいは外国語の音声に日本語の音声を被せるような、そんなものだった。


 井浦は頭が混乱した。その日は朝食も摂らず、すぐに家を出た。自宅を出ると両親の声は聞こえなくなっていた。他に耳にするのはいつもと変わらない音ばかりだ。走って行く色んな車。小学生たちのお喋り。吹く風。鳩やカラスの鳴き声。雑多な音が溢れるいつもと変わらない景色。


 勉強するのに少し時間をかけ過ぎたのか、睡眠が不足気味だとは思っていたが、それがあんな形で出たんだろう。睡眠不足が原因だろうと自分で分析してみて、学校に向かった。


 その日は帰宅すると今朝のような幻聴は聞こえなくなっていた。両親ともいつも通り、何の変哲もない普通の会話をした。やはりあれは気のせいか、体調が優れなかったせいだ。そう井浦は考えた。


 自室で奇妙な物を見つけた。勉強机のイスの下に、小さな、渦巻のようなマークがあった。それが何なのか分からなかった。擦っても取れない。五百円硬貨ほどの大きさのそれを、井浦はそれ以上気にすることはなかった。何かの汚れがついたのだろうと、深く考えずにいた。


 その後しばらくは何事も無く過ぎていった。井浦本人も幻聴のことを忘れかけていた。そんな折、水窪夏希が学校を休み、不登校になってしまった。


 水窪とは中学からの知り合いだ。高校に入ると一緒のクラスになったこともあって以前より話すようになった。彼女は飛び抜けて頭が良い方ではなかったし、男子の間でよくある、どの子が一番可愛いか?という話題でも持ち上がる程の容姿ではない。ごく普通の女の子だった。


 快活と言うより控えめな大人しいタイプの性格。その性格が災いしたのか、いじめの標的にされてしまった。昨今の時流でいじめは即ち悪、という固定概念はとうの十代の若者にも植え付けられていて、当然みんないじめはしない。


 彼ら加害者側は自分たちの行為をいじめと自覚しない。自認しない。殴る蹴るの暴行はしない。陰口を叩く、これ見よがしに彼女を無視する。やむを得ず彼女が話しかけなければならない時に、彼女の声を聞こえないふりをする。どうしたら良いか分からず、しばし立ち尽くす彼女を見てクスクスと笑う。向こうから話しかけてきたと思えば、周りには聞こえないように嫌味を言う。それを日々繰り返す。そして彼らはいじめではない、からかっていただけ、と言う。


 井浦は水窪の置かれた状況から彼女をかばうことが出来なかった。教師に報告して、水窪にも彼らを相手にするなと助言したが、その根本を是正することが出来なかった。いじめる側の人間たちに、それを止めさせることが出来なかった。教師も動いたが、所詮は日和見な教師で、建前だけの指導をしただけで終わってしまった。

 そうこうしている内に、水窪は学校に来なくなってしまった。2月半ばのことだ。一時的にでもこの教室、学校から避難すれば彼女の心も少しは落ち着くかもしれない。それはそれで良い考えかもしれないと井浦は思った。それでもいじめる側の人間、主犯格として振る舞っていた四人の生徒を思い止めさせることが出来なかったことを井浦はずっと気にしていた。いや、違う。彼らに対してではなく、彼らに相対してぶつかることの出来なかった自分が悔やまれるのだ。情けなく思えていたのだ。水窪が不登校になったことを良策だと思ったのもそんな自分をごまかすだけの身勝手な考えでしかない。


 やがて3月が終わり、4月になり進級した。水窪は学校に来ないままだった。


 時折メールでやりとりはしていて、彼女が精神科のクリニックに行ったこと、そこでカウンセリングを受けたことなどを教えてくれた。井浦君は?と訊かれて自分は相変わらずだと、気の利いたことも思いつかないで、そう返信するだけだった。


 何事も無く時間が過ぎていくかと思っていた。忘れかけた頃に、それは再び起こった。

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