第15話「迷子の白い子・拾肆」

しかし事態は天海の知らぬ所で、知らぬ方向へ向かっていた。


ある日の夕刻。

天海が仕事を終え、自家用車を車庫へ停め、自宅の門をくぐった時だ。


昨夜は確か父親も姉も母も帰宅して何かリビングで言い合いをしていたはずだった。夜中まで怒鳴り声や鳴き声が天海の部屋まで聞こえてきており、弟が怯えていたのだ。


車庫の中に父親の高級外車が無いことから不在だと分かった。何人も居る愛人の存在でも母にバレたかと特別気にも止めなかったが。姉もいないだろうと思った。昨夜の言い合いに参加していた様子から、帰宅はしないだろう。母親は家にいるかもしれない。母親は愛人はいる様だが、夜に不在にしては父親にバレてしまうので、昼間に会っている。セレブ連中との集まりも昼間が多い。夜にすることと言えば、自分の料理を写真に収めてSNSで投稿することくらいだ。


玄関の扉を開いた。


瞬間。


何かがあったことは確かだった。

内情は分からない。

だが、何かがいつもと違う。

ありえない事が起こっている予感がした。


弟に何か、


その時、大きな音と叫び声が一度だけ聞こえた。

たすけて、にいちゃん、そう聞こえた気がした。

それから金切り声がする。

言葉は聞き取り難く、半狂乱になっている様な声音だった。

しかし、天海の耳には、しね、しね、しね、……と、そう聞こえたのだ。


大事な弟に何かが起こっている。

靴を脱ぎ散らかし、声のする場所へ急いだ。


ありえない光景だった。


母親が弟の頭を鷲掴み、浴室の湯船に沈めていた。

必死に両腕を動かしながら抵抗し、水から顔を上げては小さく叫ぶ弟を。


母親は、


死ね、死ね、死ね、死ね、


そう叫びながら狂った様に湯船へと押し込めている。


やめろと叫んだと同時に、天海は母親の後頭部の髪を掴み、後方へ引き倒した。

すぐに弟を抱き上げ、湯船から遠ざける。


母親は浴室のドアに背を強かにぶつけ、タイルの上に伏し、何事かを必死に叫んでいた。しかし天海は母親の声に耳を貸す余裕など無かった。


どうして。

何故。


「何してんだ、俺の弟に何してんだ!お前が死ね!ブランド狂いのクソ女!!」


母親に怒りをぶつけながら、弟の背を撫でる。

大丈夫だ、大丈夫。

弟は息をしている。

だが、すぐに医者に診せなければ。

そうだ、父親と姉に報告をしてしまえば良い。

何故だか、世話をすることもしない癖に、弟の生死だけは確認をしてくるのだ。


父親からの生活費や小遣いが貰えなく無っては困るはずだろうと、母親を危険人物から外していたのが間違いだった。

母親も、父や姉と同様なのだ。

そして自分も同様だ。


天海は自分の命より。母親の命より、父親の命より、姉の命より、

弟の命が大事だと心根から思っているのだから。


母親がどうなろうと知ったことでは無いと瞬時にそう思える。

薄情で自分勝手な血筋は自分にも流れているのだ。

育てて貰った恩など感じる事も無い。

自分を育ててくれたのは親では無く、金に違いないと確信している。

何から何まで金の力で。

弟を守る為でさえ大量の金が必要で。

だから、この家から逃げられない。

それを利用し、享受していた自分が情けなくて仕方が無かった。


天海は弟を抱きしめたまま、家を飛び出した。

弟を腕の中に抱きしめたまま、自家用車に乗り、片手でハンドルを操作しながら病院へ向かう。シートベルトをしろとナビゲーションが何度も告げるが、そのまま病院へ向かった。


◇◇◇


弟の命には別状無いとの医師からの言葉を聞き、天海はやっと肩の力を抜いた。


良かった。

帰りの道すがら、弟へ菓子でも買おうかと考えたが、一緒に来た方良いかと考え、真っ直ぐ帰路について良かった。

弟が精一杯の抵抗をしてくれて、叫んでくれて良かった。


後、一秒でも遅かったらどうなっていただろうか。

考えるだけでも恐しい。

弟が死ななくて良かった。

金で買えない、自分にとっての、この世界でたった一つのタカラモノ。


待合室の椅子に座り壁に背を預けたまま、息を吐くと、瞬きを忘れた眼から、豪雨の様に涙が散り落ちた。


ああ、良かった。

本当に、神様ありがとう。

弟を死なせないでくれてありがとう。

弟の居ない世界では、自分はきっと生きてなんて行けない。


両手で顔を覆い、自動販売機の灯りだけになった待合室で、天海は声を殺して泣いた。

頭の中で、弟が自分に助けを求めた声を、繰り返し思い出す。

浴室まで引き摺られて連れて行かれたのだろうか。

普段から恐れている人間に浴槽に沈められるなど、どれほどに怖かったか。

護りたのに護れない。

結局ぶち当たるのは金という壁だ。

全ての時間を投げ打って稼いでも足りない。


「……」

涙に濡れた両掌を、天海はただ見つめていた。



◇続

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