第十三章 薄暗闇の先に


「―――それで、何があったんだ。詳しく話せ」

 ちらり、と聖の方をみると親父は言い。

 今度は、俺が押し黙る番だった。

 ……何を話せというのだろう。

「別に……話すことなんてない」

 拗ねた子供のような言い訳。今更そんな父親らしいことを言われても、長年の思いが消えるわけでも、急に考えが変わるわけでもない。少しむすっと、答えてしまった。

 親父は聖と、彼女の手を握る俺を見て、三度目のため息をつき。

「あのなあ……あるだろう色々。ここ数年何してたのかとか、なんでお前がここに居るのかとか、例の事故に関わった理由だとか。……彼女とお前の関係だとか」

 真剣な表情でそういうと、少しだけ眉間にしわを寄せ、いいか、と苦い口調で、

「こういうことは言いたくないがな……お前が説明しない限り。何も知らない俺たちの印象として、こうしてお前がここに居る、ということは、彼女はお前を巻き込んだ俺たちにとっては厄介な相手という認識になる」

 自分の頭をガシガシかきながら、言いたくないことを吐き出すように言い。

 そして少しそっぽを向くと、不満そうに口をとがらせ。

「大体、成人のタイミングでくらい顔を見せに来るかと思えば音沙汰もないし、研究所にも寄り付かない。お前俺の後継者の自覚あるのか? いいか、うちの跡継ぎはお前なんだからな!」

「はっ? いやまて、なんだその話。ふざけんなよ」

 意味のわからないことを言い始めた。

 反射的に親父を睨みつけるが。

「お前がどういうつもりかはしらん。だが俺はずっとそのつもりでいた。今もそれは変えるつもりはない。

 そんなうちの大事な跡継ぎを巻き込んだかもしれない子なんて、いい印象になるわけないだろ」

 こっちを見ないままに、腕を組みつつ、ふんっ、と親父はそう言って。

 その態度に俺がちょっとあっけにとられていると、横の瑠璃さんがくすくす笑い始め、ごめんなさいね、と謝ってきた。

「この人、拗ねてるのよ。あなたが18の成人の時にはその話をするんだってずっと言ってたのに、ショウさん全然帰ってこなかったでしょう? この人も、あなたとのことをずっと後悔してたみたいなのよ」

 実はあなたのお仕事のいろんなもの、コレクションにしてるくらいなのよ、と瑠璃さんは笑い、そっと伺うように聖を見て、少しだけ悲しそうな顔をして。

「……でもね、言ってる事は嘘ではないの。私たちには今のあなたがどうしてこんなことをしたのかわからない。だから、どうしてもあなたのことよりも、彼女のことを悪く思ってしまう。

 ねえショウさん? 話してくれないかしら。できるなら、彼女とあなたの関係からすべて」

 苦笑しながら見つめられたその瞳は、やはり少し、悲しそうで。

 俺は、少しだけ目を伏せる。……ぎゅっと、彼女の手を握って、少しだけ口を開き……やっぱり、何と言っていいかわからず、閉じてしまう。

 彼女との関係。

 前だったら……多分胸を張って。

 俺の彼女です、と言えたのかもしれない。あるいは、その時に言っておくべきだったのかもしれない。

 だけど、今は。

 俺の前から去っていった彼女に、俺は護られ。それを自覚するのに二年もかけて。

 ―――未練がましく、追いかけてきてしまった。

 忘れることなんてできなかった。痛みが消えることもなかった。

 だからか、たとえ人に……親父たちにさえ、否定されたとしても。俺は彼女をとるということだけは、迷いなく言いきれるほどに、盲目で。

 愚かな自覚はある。けれど、譲れないものが、確かにそこにあるのだ。

 それに、偽りはない。

 だがそれは、あくまで俺の都合で、俺の事情で。周りがそれに付き合う必要がないということも、わかってはいる。

 親父や瑠璃さんが……本当に俺のことを気にしていたのだとしたら、それは、とても。

 ……馬鹿なことをしているように見えるだろう、と。

 今更何を、と思う気持ちももちろんある。が、それにやみくもに反発するほどもう、子供でもない。

 なんといっていいか、わからなかった。

 でも、彼女が悪く言われるのも、嫌で。

 ただ俯き、押し黙ってしまう。

 ―――これではまるで、叱られた、小さな子供のように。

「―――……っとに、強情なやつめ」

 黙り込んでしまった俺に、親父は一つ息を漏らすと。

「この馬鹿が!」

「っ!?」

 頭上に、ガツンと衝撃が来て。

 次いですぐ、痛みがきた。

 ―――初めて、親父に殴られたんじゃないだろうか。

「――っにすんだよ……!」

 反射的に頭を押さえ、顔をしかめて親父を見た。全力全開というわけではなかっただろうが、痛いもんは痛い。

「言ってわからん奴だからだろうが!」

 殴った親父も顔をしかめ、まったく、と苦い顔をし、俺に似すぎだと呟いた。

「水瀬聖ちゃん……だったか。ここ数年は仕事で行くくらいしか日本に居なかったから、詳しくないが……少し前までは、お前と一緒でシェリルにも載ってた子だろ? たしか……失踪した、と」

 聖を見て言う。シェリルは文字通り全国規模のブランド雑誌のため、基本的に日本でしか活動していなかった聖のことも、名前くらいは知っているらしい。

「色々お前と似たようなこともしていたようだが……お前を狙ってたのか?」

「っ、なわけないだろ!」

 親父の言葉に、鋭く即答する。

 睨み、しばらく黙して……ようやく、重い口を開く。

「―――……二年前までは……一緒に、暮らしてた。聖が消えたのは……俺の、せいだ」



 そこから、ぽつり、ぽつりと話をした。

 一緒に暮らしていたこと。彼女が俺を手伝ってくれ、色々な仕事をしていたこと。

 俺が少しばかり、裏に踏み入りすぎたこと。……消えた彼女が、ずっと護ってくれていたこと。

 そうして彼女が、俺の幸せを願って……命を懸けようとしたのであろうこと。

 俺にとっては彼女のことが―――誰より大切だという事。

 少し前に倒れたことは、親父の方からつっこまれ、仕方なく……細かいことは黙ったまま、体調がいまいちだという話も明かした。

 ゆっくりと、今までのことや憶測を含めた話をし、親父たちからもいくつか聞かれ……すべてを話し終えるころには、高かった太陽は傾いて、外はそろそろ夕闇が顔を覗かせてきていた。

「―――……そうか……」

 親父がそう言って、聖を見る。

 爆発で、というのは……俺にも親父にも、苦い思い出が過ってしまう。

 思うところも、あるだろう。

「つまりまあ……手段は少し過激だが……全部お前のためか」

 ふー、と長く息を吐き、親父は腕を組んでそのまま、眉間にしわを寄せる。

「お前も迂闊すぎるが……何より。なんでもっと早く大人を頼らなかった」

 腕組みしむすっとした様子で親父がそう言って。

「ったく、お前もお前だが、聖ちゃんも大概だな。二人とも、聖ちゃんの目が覚めたら説教だからな」

 じろり、と睨まれる。ぐっ、と黙ってしまい、視線を外した。

 あの当時は特に、驕っていたと思うし、若かったな、という自覚がある分、少しだけ、ばつが悪い。

 この年になって親に叱られるなんて、失態もいいところだ。―――この年になるまで、叱られるほどの距離に居なかったというのもあるが。

「まあもうお前も成人したし、聖ちゃんも……ん? そういや聖ちゃんいくつだ。お前と同じくらいか?」

 ふと、そう聞かれ。

「聖は……今は17で、もうすぐ18になる」

 答えたら、親父は少しだけ目を見張る。

「年下なのか。成人前じゃないか」

 両親は? と聞かれ、答えに窮した。

 今の聖に、両親、と言える相手はいないだろう。水瀬家のほうは絶縁、実母の話を持ち出すにも、どちらにしろ聖の過去を話す必要がある。しかも俺は、聖の実母が今どうしているかまでは知らない。実母が判明した時の一連のあれこれのときに、少し聞いた程度だ。

 考えてみたら俺たちは、お互いの家族については、ほとんど話をしてこなかった気がする。

「知らないのか?」

「そういうわけじゃないが……いないことになってる。俺からは詳しく話せない」

 言い淀む俺に、訳ありか。と親父が渋面を作り、全くそろいもそろって、とため息をつく。

「まあいい。これ以上の話は落ち着いてからじゃないとできんだろう。

……それで、彼女の容態はどうなんだ。お前から見て」

 それは、医師として、という意味だった。

 少しだけ、眉間にしわを寄せ、やや重い口調で話す。

「怪我は順調に回復していってる。頭部の裂傷ももうだいぶいいし、ひびも安定してる。ただ……意識は……」

 小さく、頭を振った。

「身体的な意味でだけなら、完治まであとひと月半ぐらいあれば治ると思う。熱傷に関しては――若干、瘢痕が残る可能性がある。後遺症はまだわからない。おそらく大丈夫だと思うが……」

「瘢痕か……」

 親父が顎をさすりながら、何事かしばし考え始める。

「意識は、正直言うとわからない。いつ戻ってもおかしくないし……このまま戻らない可能性も、ある……」

 視線を落とし、ぎゅっと、膝の上で右手を握る。

 そうしてしばらく沈黙が落ちた後、親父が唐突に、よし、というと。

「―――聖ちゃん、日本に転院させよう」

 その提案を持ち出した。

 探るような視線を向けると、親父は瑠璃さんに、うちのあれ、認可どうなってる? と聞いていた。

「完成はしてるけど、まだ試験中のはずよ? 6年前のあの件で、急がなくてもよさそうだったからって、一時期止まってたから」

 瑠璃さんが顎に手を当て、真面目な顔で答える。

「そうか……優先度上げておけばよかったなあ」

 親父がそうぼやいてから、それならうちの息のかかったところで治験兼ねてもらうしかないか、と言い始めた。

「ちょっ……おい、何勝手に話決めてんだ!」

 俺は少しだけ焦って、親父を止めにかかる。日本になんて連れ帰ったら、どんな騒ぎになるかわからない。

 マスコミも騒ぐかもしれないし……ここだと来れない奴らも、日本であれば来るだろう。

 ――――俺の、聖に会いに。

 昏い独占欲が、頭をもたげる。

 これほど美しく成長した彼女を、人目にさらすなど。

 ――――――あっては、ならない。

「日本に戻る必要はない。ここはヴァイツゼッカーの息がかかってる。医師も良いし、設備も申し分ない。わざわざ移る理由はない」

 きっぱり言い放ち、鋭く親父を睨みつけた。親父はそんな俺の様子を見て、何か言いかけ……はぁ、と息をついて、理由ならある、と言いながら、俺の肩に手を置くと、

「ここだと、うちの研究所との提携がとれていない。日本なら傘下の病院もあるから、そっちに移動すればうちの薬が使える。聖ちゃんにとっても、その方がいいと思う」

 女の子だしな、と言って苦笑した。

「ちょうど瘢痕……というか、皮膚と細胞組織の治療薬として都合がいいものがある。日本の方が色々と厳しいが……まあそこは俺が何とかしよう。うちの嫁のためだしな」

 ぽんぽん、とそのまま肩を叩かれてさらりと言われ。

 ――俺の思考が停止した。

 親父は構わずそのまま続ける。

「お前がうちの研究所に入ってたらもっと話は早かったんだが……そうだな、いっそこの際、二人でうちに帰ってきたらどうだ」

 とてもいいことを思いついたような顔でこちらを見られ。

 ……ぶん殴りたくなった。

「なんでそうなる。ってかまて、色々まて。治療薬? 傷跡に効果があるってことか? けど、認可まだなんだろ? 先進医療制度なら本人の承諾が必要だ。そ、それに嫁って……」

 後半になるにつれて、ちょっともごもごしてしまう。

「ん? 間違ってないだろ?」

 当たり前のように言われ、口をつぐんだ。

 そりゃあ。

 ……俺は、聖と一緒になりたいと、思っている。

 もちろん彼女の意思が一番なので、無理に進めようとは思っていなかったし、そもそもそういうのは彼女が20歳を超えてからでなければ、水瀬家や日本という国の都合上難しいことも理解していて……

 いや、それを言い訳にして、俺自身のことで彼女に言えていないことが、まだある。

 目の前の親父たちですら知らない、俺の事情が。

 聖にそれを知られたからと言って、彼女がそれを理由に俺から離れることは無いと思ってはいるが、どうしても少し、躊躇ってしまい言い出せなくて。

 だから、そういった話を聖としたことはなかったし、そもそもそういう話をする年齢になる前に彼女が消えてしまったので、ここしばらくそういった考えは完全に思考の外だった。

「ひ、聖とそういう話は……その、まだしたことがないから……こっちの都合で勝手にそれは、だめだ」

 なんとかそう言って、親父の手を払う。すると親父は片眉を上げ、そうはいっても、と俺の顔を少し不満そうに見やり。

「お前、他の娘と結婚する気はないだろ? このままお前聖ちゃんにふられたとして、そのあと仮に俺がうちに都合のいい子とかで見合いさせたら、別の娘と結婚することありえるのか?」

「いやそれは絶対にあり得ないが。」

 きっぱりはっきり、即答した。

 そこで、勝手に親父の中で俺がすでに家を継ぐことになっていることに気づき、眉根を寄せる。

「というか……そうだ、さっき言い忘れたんだが。俺はあんたの研究所継ぐ気も、家継ぐ気もねえぞ。そもそも跡継ぎならウィルがいるだろ」

 親父が再婚してから生まれた、年の離れた弟の名を出すと、それには瑠璃さんが首をふった。小さくため息をつき、困ったような顔をして、

「ウィルもメアリも、そもそもあまり研究所にも興味ないみたいなのよねえ。ショウさんの小さい頃みたいに連れていったこともあったのだけど、すぐ飽きちゃってだめだったわ。私に似ちゃったみたいで」

 それに、二人ともあなたのこと大好きすぎてあなたを推すんだもの、と苦笑する。

 たまにしかあわない弟妹相手に、そんなに好かれるようなことをした覚えはなく、そういわれても返答に窮してしまう。

「たたき上げの職員も多いし、事務や補佐を担当する子はともかく、あそこをまとめるならやっぱり、同じ畑の研究者とか現場を理解してないとちょっと難しい気がするわ」

 そう言って、だから私も大賛成なのよ、と瑠璃さんが笑った。

「つまりうちの……俺の跡を継ぐのはお前が適任だ。それにお前、うちの研究所、好きだっただろ。一緒になって実験してたじゃないか」

「そ、れは……ガキの頃の話だろ。だいたい、あんたが俺のこと避けるようになってからは、そっちの研究所は一度も行ってねえぞ」

 親父の言葉に、少し不貞腐れたように返す。

 確かに、昔はあそこが好きだった。周りは大人しかいなかったが、興味あることをあれこれ試させてくれたし、知らないことを教えてもらうのは楽しかった。子供の拙い悪戯のような実験ですら、一緒になってやってくれたのが、嬉しかった。

 でも、それとこれとは話が別だと思う。

「とにかくだ。俺は考えを変える気はないからな。うちの跡はお前に継がせる」

「勝手に決めてんじゃねえ!」

 頑固に言い切る親父に向かい、俺も俺で頑固に拒む。

「なんだと? だいたいだな、何勝手にやってても構わんが、18になったら顔くらい出しに来るもんだろ普通! 成人祝いにポストも用意しようと思ってたってのに!」

「うるせえ! 何が成人祝いだ、今までろくに連絡もしてこなかったくせに! だいたい俺は今日本がホームなんだ、日本の正式な成人はまだ20歳だ覚えとけ!」

「そんなこと言うなら世間的に酒飲めるようになるのは21からだろう! そういう事じゃなくてだな、普通に考えて一人前として認められるってのは――……」

 そうして脱線してくだらない舌戦を繰り広げそうなところを、瑠璃さんに止められた。

「まあまあ、その辺にして。その話はまた今度、ゆっくりすればいいでしょう? 今はそれより、聖さんのことよ」

 ね? と苦笑され、俺たちは二人して押し黙り、少しだけばつの悪い顔を見合わせる。確かに、今話すようなことでもない。

「やっぱり女の子だし……まだ若いから、体に痕が残るのはかわいそうだと私も思うわ。後になるほど難しいけれど、今ならまだ治せるものなのだから、治してしまった方がいいと思う。そのためにも、日本への転院を考えてくれないかしら」




 時間も時間なので親父と瑠璃さんが帰り……食事に誘われたがそれは固辞した……俺もギリギリまで粘ってから、ホテルへと戻った。

 考えて、と言われたことが、どうしても。

 ……嫌な独占欲が、思考を蝕む。

 わかってはいる。彼らの提案はとてもいいものだし、今こうしてイギリスに居座っているのだって、結局のところただの現実逃避だ。

 日本へ戻ったら、俺はきっと今のように、ずっと聖のそばにいることなどできなくなる。

 仕事に追われる生活に戻ることになるだろうし、マスコミだって、あることないこと書きたてるだろう。

 それは、俺にとって、とても。

 ……腹に据えかねることだった。

 俺のことならいくら何を言われても別に構わないし、そうでなくてもまあ、ある程度は仕方ないと、我慢もできる。だが、それに伴って興味本位で書き立てるやつや……強硬に聖に会おうと来る奴も一定数いるだろう。マスコミだって、何かと理由を付けて会いに来ようとするのは予測できた。

 そんな奴らに聖をあわせてやる気はないし、彼女を悪しざまに言う輩など俺にとっては敵以外の何物でもなくて。

 そういった連中の巣窟に、わざわざ帰るなんて、と思ってしまう。

 それに……普通に聖に会いに来る連中も、いるだろう。

 ずっと心配していたのは、俺だけではない。たとえ世間が時間の流れとともに、彼女のことを忘却に押しやっていたとしても、親しかったものたちが忘れ去るほどの時間でもない。普通に考えるのならば、会いに来るだろう。

 わかっている。ただのわがままだ。

 今の聖に会うやつを減らしたいだとか……彼女を、独占していたい、だなんて。

 閉じ込めて、俺だけのものにしてしまいたい。

 そんな危険な考えが過るほどに、どうしようもなく、彼女に飢えていた。

 あの笑顔で。あの声で。俺のそばにいてくれたのなら。

 もしかしたら、違うのかもしれないけれど。

 再会してからの彼女の――場所が悪かったせいもあり――まだ、笑顔を見ていない。

 彼女の気持ちを、聞いていない。

 不安が消えない。俺だけがずっとあの時から動けないのではないかという。

 ―――俺だけが、彼女を愛して、求めているのではないかと。

 泣かせてばっかりだし、君の思いを踏みにじってしまった。でも、どうしても耐えられなかった。身勝手だとも思うが、どうしようもなかった。彼女の中で俺は過去になっているかもなんて、考えたくもなかった。

 だから結局こうして……世間から少しだけ、隔絶された環境で。

 俺だけの聖でいてくれる、この環境に。

 胡坐をかいていたのだ。

 我ながら、度し難いほどに阿呆だと思う。

 手段はどうあれ、そこまで俺のことを考えてくれていたのだろうとわかっていながら、まだ欲深に彼女の愛を求めてしまう。

 それが叶わないからと、このままでいられればいいなんて思ってしまうなんて。

 わかってはいるのだ、このままでいいはずもないと。

 聖の傷だって、治せるのならば治した方が彼女にとって、いいであろうことも。

 ―――だが。

 本当に、度し難い馬鹿だ。

 痕が残れば……わずかでも、その痕跡があったとしたら。

 優しい彼女のことだ。目覚めた後も、きっとその時のことを、忘れはしない。

 俺のために何をしようとしてくれたのか。そして俺が、なぜそこに飛び込んでいったのか。

 あの時の俺の気持ちを、きっと忘れはしないだろう、と。見るたびに、思い出すのではないか、と。

 ……思ってしまうのだ。そうして、彼女を俺に縛り付けておけるのなら、と。

 聖にではなく、俺に傷が残ったならよかったのに。

そんなことまで考えるほどに、愚かに。

こんなことは、誰にも言えない。言えるはずもない。

なにより、彼女にこの浅ましく愚かな思いを知られるのが怖い。

―――本当に。

救いようのない、馬鹿だ。

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