芦川ヒカリの憂鬱Ⅳ 4

 古泉に釘を刺され、俺は仕方なくキョンの袖を掴みながら教室に戻る。構ってほしい子供みたいな体勢で、ひたすらウレタン樹脂床材を見つめながら歩いていた。こんなこと、いつまでも続けていられないよなあ。


「本当に誰もこっちを見ないんだな」


 キョンが一言発したことで、俺とそれから何人かの生徒が彼を見る。俺の存在を感じ取れない生徒からすれば、彼のそれは独り言にしては大きな声に聞こえただろう。内容的にも孤独感に浸っているみたいで、教師が聞いていたらなにかあったのかと気にしてしまうような、そんな“独り言”だ。共感性羞恥が湧き上がってくる。


「キョン、今なにを言っても一人で喋ってる変なやつに見えるぞ」

「……やべ」


 大半の生徒にとっては、廊下という場所ですれ違う転校生は取るに足らない存在だ。

 だから空気中に霧散している俺の情報が彼らに付着することはなく、ちょっと目に付く行動をしていても誰も気にしない。粘着性の弱いシールとは、古泉もうまいことを言う。関わりもなく、面識もない相手なんてSNSのフォロワーのフォロワーのフォロワーみたいなもの。つまりは知らないやつで、ただの他人だ。噂で聞いた妙ちきりんなクラブに入ったらしい、目立つ頭髪の転校生がいる。それくらいの認識の相手には、今の俺は見えも聞こえもしない。


 それはあるいは、昔の俺にとっては居心地のいい空間だったのかもしれない。

 秘密基地を作っていることを言いふらされた日、兄貴と登下校していることを揶揄われた日、夜の街を裸足で歩く俺を見かけたと騒ぎになった日──、当時小学生だった俺は、何度放っておいてくれと思っただろう。自分と違うものを受け入れない、それどころか指を差して笑う彼らの目に、俺なんか見えなければいいのに、と願ったことがある。

 時空を越えて叶った願いが、こんなにも嬉しくないとは思わなかった。


 同じ学年ならば古泉との噂を知っているやつもいるかもしれない。

 でも、俺はほとんど決まったクラスメイトとしか話さなかった。この一週間で登校したのは五日間。校内にいる時間を一日八時間とすると、俺は既にこの北高で56時間も過ごしたことになる。56時間あれば何が出来る? 俺は必要なことだけをしてきた。

 この学校に在籍するどのエージェントよりも、必要なこと、必要になることだけをしてきた。SOS団とその周囲との交流。能力の分析や検証、練習。逸脱事項の修正。団員の関係性の補助。毎日が慌ただしく感じるくらい、睡眠時間が削れるくらい、求められた以上のパフォーマンスをこなしたつもりだった。

 簡単に言うと、俺は張り切りすぎていた。ずっと願っていた世界に呼ばれて嬉しかったから。役割を最大限にこなすことで、ここにいてもいいと認めてもらおうとした。まるで就活の面接みたいに、自分に出来ることを披露して、仲間にいれてもらおうとした。


 そんな必要、なかったのに。


 学生の本分は勉強だ。でも、学生時代でしか得られない体験が本当はいくつもある。その得難い時間を思い返して、もう一度あの頃に戻ったら次はどうするか考えるなんてことを誰しもがするだろう。次はもっとうまくやると、誰だって思う。俺だって思った。

 俺は二度目のチャンスを与えられたにも関わらず、結局は知人の輪を広げなかった。ハルヒが俺をモテさせた時でさえ、俺はさっさと解決することしか考えなかった。あの時ああすりゃ良かったなんて、そいつが変わっていなければもう一度同じ過ちを繰り返すだけなのだ。

 長門の話によると、俺は無意識に能力を使用して自分の存在証明を行い続けているらしい。放っておけば消えてしまう俺を、ハルヒはずっと留めておいてくれた、とも言っていた。けれど、今の俺は彼女を呆れさせてしまったし、失望させてしまった。

 もしかすると、異世界人をこの世界に留めておくのはハルヒですら難しいことだったのかもしれない。多くの他人に認識され、記憶されることで、俺は俺という人間をこの場所に置いておくことができるのだとしたら……?

 そう考えると、ハルヒは何度も俺のために頑張っていてくれたんだよな。


「反省中か?」

「世はまさに大後悔時代だよ」

「ワンピースか。昔はよく見たな。今どうなってるんだ?」

「俺もドレスローザ編までしか読んでないなあ」

「まずそこを俺は読んでない」


 キョンは言葉少なに話しかけてくれる。

 昔は、俺もなにもかもを信じていた。世界の不思議も、妖怪や幽霊も、あらゆる隠し財宝も、そして涼宮ハルヒの憂鬱も。

 今目の前にいる彼を、もちろん薄ぺらい紙やフィルムやデータだとは思わない。それでも、俺は物語の主人公である彼をどこか遠くに感じてしまっていた。だって、ただの凡人の俺が役割を与えられてもそれは元の仲間である古泉や長門や朝比奈さん、ましてやハルヒと同格でいられるわけがない。だから実感したつもりで、仲間入りしたつもりで、本当は夢なのかもしれないという思いが、どこかにあった。


「なあ、お前は芦川だよな。俺はまた、お前の下の名前がわからなくなっているんだけどよ」

「名前で呼んでなかったから結びつきがないってことなんじゃない」

「そりゃお前が断ったからな……にしてもこれ、放課後までもつのか? さすがに下校より後は古泉に引き継ぎしないとまずいよな。俺はお前と、夜一緒に飯食ったりした経験はない。多分、覚えちゃいられないんだろう」

「そうだね。逆に授業中は俺が9組にいても古泉は覚えていられないと思うし、放課後になったら古泉と一緒にいることにする」


 今日は閉鎖空間に行く日だし。キョンは「なあ」と呼びかけて間を空ける。俺が彼の顔を見上げると、眉を寄せて溜息を吐いた。


「話を戻すが、お前なんで俺が名前で呼ぶことを嫌がったんだ」

「嫌がってないよ。ただ……キョンくんって誰も名前で呼んでないだろ。新参の俺だけを君がそう呼んだらあんまりよくないかなって」

「なんだよ、俺が鍵とやらだからか? そんで、お前が後から来た元々ここにはいないやつだからか。どうして、俺がどいつと仲良くするかなんてことを世界だなんだに決められなきゃならないんだ。お前が古泉とやたらとくっついているように、俺にも決められた相手とそうしてろってのか?」

「そんなことないよ。ていうかキョンが思うほど俺、別にそんなに古泉とくっついてないけど」

「よく言うぜ。どんな思惑があるかは知らんが、付き合うやつくらい自由に決めさせてもらうぞ。そして俺は、どうせならその相手はお前がいい」

「うっ……」


 ボディブローみたいに、彼の言葉が五臓六腑を揺らす。嬉しいのか、プレッシャーなのかどっこいどっこいだ。一番の友達に選ばれたこと、そこにはやはり負い目を感じた。元々の涼宮ハルヒの憂鬱を壊すことになるから。大好きな作品を汚すシミみたいに。みんなの関係性に突然現れて、百合に割り込む邪魔者みたいな気分になる。


「そこで苦しむなよ、失礼なやつだな。俺が付き合う相手はお前や朝比奈さん、長門に……まあ古泉や涼宮、アホの谷口に国木田のやつがいてもいい。SOS団だとかいうイカれた集団に付き合ってやっても、この際いい。だがお前が抜けるなら、俺だってあんな団なんざ抜けてやる。これで奇異の目や悪評ともおさらばだ。規定? そんなもん知らん」

「こ、困るよ……! それは。俺だけじゃない、みんなが困るよ。大変なことになっちゃうよ」

「勝手に困らせればいいだろう。どいつもこいつも勝手なことを押し付けて来やがるんだ、俺やお前が勝手にして何が悪い」

「キョンは俺に親近感を覚えてくれてるの? だから、庇おうとしてくれるの? でも、だったら古泉だって大変なのは一緒だ。朝比奈さんも長門も、ハルヒだって自覚的にやってることじゃない」

「無自覚なら何をしてもいいなんてのは、小学生までの言い訳だ」

「それは……そだけど……」


 キョンは額に手をやり、頭痛がするような仕草で溜息を吐いた。


「え、大丈夫? また頭痛い?」

「ある意味な。古泉古泉とやかましい。そういじけた顔でこっちを見るんじゃない。解決すりゃいいんだろ、俺と古泉で。涼宮に透明人間を諦めさせる。そうすりゃお前は消えない。だろ?」

「うん。ただ、ハルヒの思想に見合った単語を使ってロジカルに論破しないといけないと思うけど」


 もしかして兄貴のダンガンロンパの伏線、ここで回収するのか?


「ん? なにか思いついたか? 俺としちゃ透明人間なんざいらんと言って終わってほしいもんだがな」


 身を屈めたキョンくんの目が、真ん前にある。


「キョっ……! キョンくん、顔が近いよ!!!!!」

「うわ、うるせえ! そりゃ近くもなるだろ。こそこそ話さないと……はぁ、こうやって注目を集めちまうんだからな」


 唐突に大声をあげて騒ぎ出すキョンを、生徒たちがひそひそ話で見送る。なんか変なクラブ活動しているらしいから、みたいな憐憫と納得の視線。


「見ろ、真冬に水着で登山しているかのようなあいつらの目を。俺も立派な変人にされちまった。お前な、いつになったら俺の目を見て話せるようになるんだよ」

「そんなこと言われたって……前に言ったと思うけど、俺は前から特に君とハルヒのファンだったから……そんなの難しいよ。こう、アイドルみたいなもんなんだから」

「はあ? アイドルだ? 涼宮には名前で呼ばれてるだろうが。お前だって涼宮の前以外じゃ名前で呼んでる。だというのに、俺と涼宮を同格みたいに言うのはおかしんじゃないか。それに、アイドルと握手できる機会があるなら、せっかくならしておけよ」


 袖を握っている俺の手を、彼が見下ろす。振りほどくようにして手首を掴むと、キョンはすたすたと教室に入ってしまった。そんなところを握られたら、俺の脈がいっきにどれだけ早くなったかなんてことに気づかれてしまう。こんなくだらないヒューマンエラーで事件を加速させたら笑い話にもならない。オアア、なんだこれ助けてくれ。


「お前の名前はなんだ?」

「……芦川、ヒカリ」

「ああ、そうだったな。ヒカリだ」


 ほとんど引きずられるように窓側の席に向かうのを、ハルヒが目を丸くして見ている。彼女は遊具を取られた子供のような不貞腐れた顔をして、俺たちを眺めている。てっきり怒り狂うと思ってびくびくしていたが、今はとっとと朝倉の話をしたいのか椅子から軽く腰を浮かせていた。

 規定では彼女は廊下でキョンを待っていたはずだから、やっぱりズレている。この後の会話を終えたキョンは部室に戻って今日の部活は休みだと伝えるはずで、現在時刻が13:30ということはその時間は残されていない。でも、そんなことをいちいち気にするな、とキョンは言うだろう。

 彼は俺を捕獲したまま机をなにやらごそごそといじって、ハルヒに声をかけられて、手を止める。


「どこ行ってたのよ。お弁当食べないで待ってたのに」

「転校生の芦川ヒカリと交流を深めてたんだよ。見ればわかるだろ」

「手繋いで? まあどうでもいいけど、ちょっとこっち来て」

「このままでもいいか? こいつな、今頃になって急性ホームシックになっちまったらしい。一人にすると大泣きするんだ」


 おい。


「突発性居眠り病じゃなくて? まあいいわ、そいつもいていいから」


 ハルヒはやっぱり俺のことをわかっていないみたいだった。キョンも顔を顰める。にしても、俺の情報が拡散したせいかは知らないが、ハルヒの口から三年前の単語が飛び出すとはな。これはこれで未来や過去の記憶を大盤振る舞いしている状態で、副産物的にまずい出来事だ。未来人たちがドミノ倒しみたいに体調不良を訴えてもおかしくない。

 それからハルヒは俺をじっと見て、


「ねえ、あたし……あんたとどっかで会ったことある?」


 なんてことを聞いてきた。俺は身を乗り出そうとしたがキョンに静止され、引き戻される。彼は彼で、俺と手が離れるということに神経が尖っているみたいだった。


「どっかもなにも、俺は涼宮の前の席なんだから転校してからほぼ毎日会ってるよ」

「お前が無理矢理こいつ……ヒカリを、SOS団に引き入れたんだろうが」

「わかってるわよ。そういうことを言ってるんじゃないのよ。うーん、あんたって彼氏いる?」

「いないけど……? いて欲しいってこと?」

「だからそうじゃなくて、いたような気がするのよ」

「なんだ古泉のことか? それもお前が勝手に応援だなんだ言ってるんだろ。そろそろ解消してやればいいんじゃないか。古泉とこいつがコンビってのも今となっちゃ頷けない話だ」

「だーかーら! そうじゃなくて、もっとパッとしない男で……はあ、もういいわ」


 何を言っているんだろう。まさか、クラスでよくつるんでいた谷口のことを言っているのか? 俺が首を傾げると、キョンが不思議そうな顔で覗き込んできた。耳元に口を寄せてくる。くすぐったいな。


「涼宮、忘れてないんじゃないか? 教室だからかもしれんが」

「それは教室だし、キョンを挟んでるからじゃない?」

「イチャイチャしてないで、さっさと着いて来て」

「しっ、してないし!!!!!」

「声がでかい!」


 キョンに頭を叩かれながら、俺たちはハルヒの後を追って階段の踊り場に向かう。おお、この二人が話すといえばここだよな。なんて、原作際現に感嘆している場合ではない。


「さっき職員室で岡部に聞いたんだけどね、朝倉の転校って朝になるまで誰も知らなかったみたいなのよ。朝イチで朝倉の父親を名乗る男から電話があって急に引っ越すことになったからって、それもどこだと思う? カナダよカナダ。そんなのアリ? 胡散臭すぎるわよ」

「そうかい。お前がそんなに朝倉に興味があったとは俺は知らなかった」

「ないわよ、でも急な転校なら電話くらいしたいって思うものじゃない? なのに岡部は連絡先も教えてもらえなかったらしいのよ。これは何かあるに違いないわ」

「ねえよ。女子連中やヒカリにも言わないで行ったならマリアナ海溝より深い家庭の事情でもあるんだろ」


 いつものハルヒなら、俺に「あんたは前の学校のやつと連絡とってる?」だなんて鋭い質問を投げかけてきたことだろう。でも、俺のことをうすぼんやりとしか認識していない今のハルヒには、俺に対する疑問も質問も、好意もない。

 なら、ハルヒの方から話しかけて来た「彼氏」とやらはそれなりに深い記憶に結びついているのだろう。俺に彼氏、はて。なんだろうか? パッとしない男だと言っていた。好みの男子の話をした時、ハルヒは少し不服そうだった。キョンを取られたくないのは、わかる。でも、それなら……、どうしてキョンは俺を覚えていられたんだ? どうして、席替えで俺を一人遠くにやらなかった?

 古泉曰く、俺を呼ぶのに苦労したハルヒは、潜在的に俺をとても大事に思っていてくれているらしい。それなら、本当に俺を接待するために自分は我慢してキョンの隣の席を譲ってくれたんだろうか。そして、今度はその大切な俺を隠したくて透明人間にしたのか?

 なにか大きな勘違いが存在しているような、そんな不安が少しづつ溜まっていくようだった。


「引っ越し前の住所は聞いて来た。学校が終わったらその足で行くことにするわ。あんたも行くのよ」

「なんで?」

「あんたそれでもSOS団の一員なの? こういう時、あいつだったら楽しそうにすっ飛んでくるのに、どこ行ったのかしら」

「人を犬みたいに。そいつって、こいつじゃないのか?」


 キョンが腕を上げると、自動的に俺も引っ張られることになる。挙手して固まっている俺を見て、ハルヒが首を傾げる。不審者を見るような目は、確実に俺と目が合っているにも関わらず、誰だかわからないような、そんな表情をした。


「誰もいないじゃない。馬鹿なこと言ってないで、教室戻るわよ」


 俺も動揺したが、キョンのそれは凄まじかった。俺の手首を握る手が震えて、二の句が継げず愕然としている。そうか、存在は感じ取れるけど、ハルヒにもう……俺は見えないんだな。


「おい、お前何か喋ってみろ」

「……な、なにかって言われても、何を言えばいいのかな……えっと、……」

「涼宮を説得する論理とやらはまだ出来上がってないのか?」

「そんな急に出てくるなら苦労はしないよ。そりゃ俺だって早く解決したいけど」

「なに一人でぶつぶつ言ってるのよ。まさかそれで透明人間を見つけたつもり? 手柄を立てたいのはわかるけど、やるならもっとうまくやることね」

「嘘だろ、言葉も聞こえてねえってのかよ」


 一つだけわかった。俺は、ハルヒに見えも聞こえもしなくなった。それなら、市内探索の時にオブジェの出所をごまかしたような真似はできない。名探偵コナンみたいに、キョンや古泉の口を借りて話すしかなくなっていくんだ。そうやって情報を得たり、彼女の意思を曲げなければならない。それも、二十二時間の内に。

 いや、確かにデッドラインは明日の十時だ。だがさっき計算した通り、学生が学校で会う時間なんてものは二十四時間中で八時間しかない。授業だけで言えば今日はあと二コマで終わりだし、明日は一コマしか時間がない。放課後、ハルヒは朝倉のマンションを訪ねるから部活時間は考慮に入れられないし、もちろん授業中に堂々と話すわけにもいかない。

 つまり残された時間は──、五限後の十分、下校時間から朝倉のマンションを訪ねる間、明日の登校時間から一限までと、一限の後。


 ──、全然、時間がない。


 鼻を鳴らして去って行くハルヒを、キョンが呼び止める。


「涼宮……っ!」


 それでもずんずんと離れていく彼女の肩を掴んだ彼の手は、さっきまで俺の手を握っていた、右手だった。


「なによ」

「なにって……、そうだ。お前、透明人間って。もう異世界人とやらはいいのか?」

「いいわけないじゃない。最重要案件よ。あたしとしては」

「それなら、異世界人を探すのがいいんじゃないか? 透明人間よりよっぽど面白そうだろ」

「どうしてよ」

「え……?」

「どうして透明人間より異世界人の方が面白いっていうの? あんただって会ったこともないのに。透明人間だって面白いに決まってるわ」


 キョンは口ごもる。そりゃ、お前が見えていないこいつが異世界人なんだと言っても信じてもらえるわけがない。


「どうして、って……そりゃ、異能を使えたりだとか、俺たちの知らないことを知ってたりだとか、色々あるだろ。会ってみりゃ案外、美少女かもしれん。異世界なんていう別のところから来るんだ。お前の言う萌えだとかも備えてるんじゃないのか? 異世界召喚なんて、これからきっと流行るぞ」


 実際、俺のいたところでは異世界ものはマストだった。多分、そういう時期もあって俺はこっちに呼ばれたんじゃないかと思っている。


「そうかもしれないけど。でも、あたし思うのよね。異世界召喚って、世界を救うためにいきなり勇者にされて家族や友達とも離されるのよ。ホームシックにだってなっちゃうわ。そうしたら異世界を満喫する暇なんてないでしょ? そんなの可哀相じゃない。それならね、異世界転生の方がいいって思うのよ。この世界の人間として生まれてくれば、こっちに家族だっているでしょ?」

「……いきなり何を言い出すんだ、お前は」

「あんたが聞いてきたんじゃない」

「……俺が?」


 チャイムが鳴る。慌てて教室に戻るハルヒは、俺を振り返ったりしなかった。キョンも、自分たちがなぜその話をしていたか、すっかり忘れてように溜息を吐いてハルヒをの背中を見ている。


 そりゃそうだ。だってこの踊り場には俺と二人との思い出なんて、ないんだから。


 長門の行った通り、一緒に過ごした場所でしか俺との記憶は思い出せない。それなら、教室や部室以外ではハルヒやキョンと会話をするのは難しいかもしれない。そうすると、さっき計算した時間はもっと短くなる。ああ、やばいな。これは、無理なんじゃないか? 諦めそうになる。

 それにしても、あいつはなんと言った? 異世界転生の方がいい? もしかして、俺を一回消して新しい異世界人を転生させる気なのか? それだとちゃんと異世界人は存在するだろうし、俺は透明人間として誰にも感知されないままここにいるからハルヒの願望は叶う。世界もおしまいにはならないかもしれない。

 それとも、俺を一旦ばらばらに解いて、新しい俺を再構築するつもりなのだろうか。家族が傍にいて、異世界を心から楽しんでいて、どんなやつとも仲良くできるような、そんな俺を──。その場合、透明人間は諦めてくれるかもしれないが、俺はおそらく別人になるだろう。そのルートも、世界はおしまいにならない。

 単純に今の俺がいなくなるだけで、世界になんの影響もなくて、誰も、困らないような──。


 俺は鼻を啜りながら教室に戻った。

 チャイム後に戻った俺を咎める委員長はおらず、ハルヒも、教師ですら振り返りもしなかった。唯一こちらを見たキョンも、まるで虫か空気か、いつどこにいても当然なものを見るような目で、視線は黒板に戻っていく。

 本格的に、一人になったみたいだった。まだなにも掴めていないのに、時間だけが過ぎていく。ショックだけがどんどん伸し掛かってきて、これじゃあ俺の脳の負荷とやらは薄れそうにない。

 俺はお守りみたいにiPhoneを握りしめた。頼り切りになっていた異世界を繋げてくれるすごいツールも、こんな時はどうにもならない。どうしたら、いいんだろう。

 だが、なんの確証もないが朝比奈さん(大)が無茶をしてまで残したヒントがあるなら、解決できる方法はある。彼女は、この事件が解決された未来から来たはずだ。そのヒントのおかげで、この事態の解決には「透明人間」というワードが絡むことまでわかった。そして、明日までの間にきっとキョンは一度くらいは俺を思い出してくれるはずだ。それまでにハルヒを説得する方法を考えないと。

 俺は机と向かいあって、睡魔に襲われながら一週間分の記憶を早回しで再生し始めた。ノートにそれをメモしていく。ある意味、さぼっていても気づかれないのは幸運だったと思うことにしよう。

 キョンはぼんやりとした目で俺のノートを眺めていて、ハルヒは窓の外を見ていた。時間が過ぎていく。俺がいないままの、涼宮ハルヒの憂鬱が、滞りなく進んでいく。

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