芦川ヒカリの憂鬱Ⅲ 14


 授業終了のチャイムを、遠くの出来事みたいに聞き流している。

 俺は椅子に座ったまま、未だまとまらない作戦を練り続けていた。アニメや小説の内容を頭で何度リピートしても、打開策が思い浮かばないでいる。今や俺もちょっとしたサイコキネシスを手に入れたが、そんなもので朝倉と対峙できるとはこれっぽっちも思えない。なら、その持っている能力でどのように時間を稼げばいいかを軸に考えていった方がいいだろう。

 長門曰く、朝倉は空間の制御権を短時間しか持っていられない。原作では「地球程度の建造物は分子の結合情報をいじれば簡単に改変できる」というようなことを言っていた気がするが、なにか彼女にとってそれが難しい状況になっているのだろうか。もし原作と違うことが起きているなら、それは俺がこの世界にやってきたせいだろう。

 何故だかは知らないが、異世界人という存在によってヒューマノイド・インターフェースである朝倉が力を行使することに制限が生まれる、ということになる。ハルヒが早退したことからも、いくら過激派である朝倉陣営でも観察対象に危害を加えるつもりはないんだろう。逆に言えば、原作よりも過激なことを、朝倉はするってことだ。

 もしかすると、俺に対しても出来れば危害を加えたくないのだろうか。そうでなければ、俺を使って情報爆発を起こすってことを、もっと簡単にやれる気がする。彼ら宇宙人にとっては、脳みその中身を解析したり奪ったりするくらいのことは攻撃でもなんでもなくて、ちょっと調べ物をするくらいの感覚なのかもしれない。だから、彼女にとっては観察対象その2である俺も、同等に安全圏内に避難しておいて欲しい存在の可能性もあるのだろうか。

 それとも、閉鎖空間では自動迎撃みたいに拡大を停止した能力は、もしかするとここに俺がいるだけで教室に彼女が結界を張る邪魔になるのかもしれない。待てよ、そもそも俺の能力って、長門の言葉を受け取ったそのままの形で使用することであっているのか? 目に見えるように塗りつぶすことで空間の固定がやりやすくなったのは、俺が固定という概念を形に落とし込んだからだ。同じく能力をスイッチの切り替えで使ったりやめたりすることも覚えた。誘導には目線を合わせて、声を出すこと、といった具合にやり方で幅を持たせたように思う。

 実は解釈次第でさまざまに応用が可能なんじゃないだろうか。


「だとすると……」


 えーと、確か俺はこう考えたはずだ。人間は意識しなくても息ができる。息をしながら、食ったものを消化しながら、血液を身体中に運んでいる。そんなものは誰でも赤ん坊の頃から、寝ながらでも出来ることだ。

 俺は何一つそんな命令を自分の身体に下していない。なら、閉鎖空間に入った時のように並列的に能力を自動処理すること自体はなんらおかしなことではなく、その間身体を動かしたり会話をしたり、考え事をすることが可能だというのもまた普通のことである。

 問題は俺の脳がその負荷に耐えられないってことだ。だから、俺は自分でスイッチを入れたり、順番に能力を使用できるようにコマンドを書き換えた。けれど、それらを処理してくれるスーパーコンピューターが俺にあれば、俺は最大限に能力を発揮し、長門が来るまで朝倉の足止めもできるはずなんだ。

 俺はポケットのiPhoneを見る。さすがに、これじゃ全部を賄えないよな? 人間の記憶なんてものを入れておけるようになっている点で、おそらく普通の512GBのスマートフォンではないんだろう。もっと受け皿として大きな値を落とし込める状態になっているはずだ。

 確か、ハルヒの作ったSOS団のエンブレムは約436テラバイトの情報量を持っていた。目に見えるだけの形なんて、多分この世界では関係ない。でも、それはハルヒが関わっているからだ。

 無論俺だってハルヒに準ずる(らしい)危険人物だ。俺が異世界から持ち込んだものが、異空間を繋げることに使える時点でまともじゃない。とはいえ、仮に人間の記憶容量を1ペタバイトとして、このスマートフォンを同じだけの記憶媒体として使えるとはどうしても思えない。そして、俺がそう思えないと感じた以上はもう奇跡の顕現は叶わない。

 俺とハルヒがあり得ると思わないと、世界はそういうことにしてくれない。だから一旦記憶を全部忘れて、今作戦中のみ指令系統をiPhoneに任せるっていうのもさすがに無理な気がしてしまう。俺が異世界スマホを知っていたから、異世界で活用することができるはずだと思ったように、ハルヒも未知の電子機器が異世界で大活躍するなんていう本を読んだのかもしれない。だからこのiPhoneがやたらに特殊な設定を帯びているってことはある。

 十分奇怪だが、ただ、それだけのことなのだ。仮にハルヒに「スマホって脳の代わりになると思う?」と聞いたら可哀相な子を見る目で見られるだろう。俺も同じことを聞かれたらそうする。

 でも、なにか肩代わりしてもらうような……うーむ。方向性は正しいはずだ。あと少し、もう少しでなにか閃きそうなんだけど。


「ねえ、芦川くん」


 考え続ける俺の肩を朝倉が叩いた。飛び上がりそうになるのを抑えて、鼓動を整える。ああ、いいところだったのに。


「……びっくりした」

「ごめんね。ちょっとお願いがあるんだけど」


 チャイムのすぐ後だったので、クラスにはほとんどの生徒が残っている。そういやこいつ、俺が手を掴んだ時すごく驚いてたけど、あれは演技なのか素なのかどっちなんだろう。


「なに?」

「実は……掃除当番を代わって欲しいの」

「朝倉って今週当番じゃないよな?」

「そうじゃなくてね。教室は各クラスで掃除するでしょ? でも、廊下とか特別教室とかはクラス委員や生徒会、美化委員で割り振ってるの。それで、決められた曜日に掃除してるのよ」

「へー、そうだったのか。知らなかったよ。委員長ってのも大変だな」

「今日、どうしても外せない用事があって……だめ?」


 両手を合わせて、上目遣いで朝倉は言う。かなりかわいい。さすがは学年のアイドル的生徒だ。


「お前に頼まれれば誰も断らないと思うけど、どうして俺なの?」

「こんなこと言ったら怒られちゃうかな。芦川くんって、お願い事しやすいんだもの」


 嘘つけ~。俺がこのまま教室にいると困るから遠ざけたいだけじゃないのか。俺が口を開こうとすると、教室を出ようとしていたキョンが振り返る。


「手伝ってやりゃいいじゃないか。世話になってるんだから」


 あのね、誰のためにこんな腹の探り合いをしていると思ってるんだよ。遠いところの掃除でもやらされて、君と朝倉が教室で会うタイミングに間に合わなかったらどうするの? わざわざ俺を遠ざけるってことは、やっぱり俺に邪魔されたくないってことなんだぞ。長門が俺の脳にプロテクトをかけたせいで俺に手出しできないから、クラスの視線を集めた上でこうやって動きを封じているんだよ。もう! キョンくんは本当に律儀なんだから!

 でも実際、彼らにとって俺は転校初日から朝倉の世話になっていて、仲もいいと思われている。周囲から俺への評価は、あの涼宮ハルヒに振り回されてもへらへらしている呑気なやつで、着ろと言われれば女装だってするような人間だ。だから、朝倉のお願いになぜすぐにオーケーしないのか、クラスメイトは不思議がっている。みんなこっち見てるし。

 この状況で俺が意固地になって断れば、明日朝倉が転校した理由をクラスメイトは痴情のもつれか、もしくはいじめかなにかと勘違いする可能性もある。それは避けたい。

 言いつつ出て行っちゃうんだもんな、キョンも。


「いやー。俺も部活あるしなあ。他のやつに聞いてみたら?」

「芦川くんに頼みたいんだけどなあ」

「ちなみに何で?」

「それはね……つまり、もしよかったらお礼させてほしいってことなの。二人でしゅうまつ、お茶でもしましょ」


 週末なのか終末なのかよくわからない発音で朝倉は言う。そりゃあれか、お前の目標が達成されて──つまりキョンを殺してそれによってハルヒがブチギレて、情報爆発が起きてめちゃくちゃになった後の世界で、宇宙に帰る前に俺と茶でもしばこうってか。そんな崩壊後ティータイムはエモい世界系作品のラストだとは思うけど、当事者としちゃ遠慮したいね。


「お礼をするためにお願いしたいってこと?」

「そうよ。それって変? 普通に誘うより、誘いやすいものじゃない?」

「俺と朝倉が二人でお茶っていうのは想像つかないな」

「緊張するなら誰か一緒でもいいわ。わたしの親とか」

「普通って言うなら、普通一回目のデートで親は呼ばないぞ」

「わたし、それだけ真剣なの。わからない? こんなこと、女の子に言わせちゃダメよ」


 くそう、今のはちょっとマジでかわいかったぞ。

 ていうか、生身の人間を宇宙に招待すんじゃねえよ。回りくどくデートに誘うのが人間らしいと思っているんだろうか。まあ、間違ってはいない。ちょっとズレてるけど。その言葉に反応するように、谷口が俺の肩を叩いた。


「芦川、こんなに頼んでるんだから代わってやれよ。な? 朝倉、俺も手伝うから」


 あったまきた……(冷静)。下手くそなウインクを決めた谷口が自分のポイントをあげるためだけに会話に割り込んでくる。


「ほんとう? すごく助かるわ。じゃあ、中校舎の三階廊下をお願いね。ありがとう」

「だから俺も週末、楽しみにしてるぜ」

「じゃあね」


 朝倉は谷口には返事をせずに鞄を肩にかけた。鬼かな? その鞄には、変わらずくまのマスコットが揺れている。朝倉、お前は俺をどうしたいんだよ。


「……なあそれ、気に入ってんの?」

「ええ。でも、あなたほどじゃないわ」


 にこ、と柔らかな微笑みを残して朝倉は教室を後にした。クラスメイトの注目は散っていき、それでも会話の内容は俺と朝倉のことをあれこれ妄想しているみたいだった。

 なるほど、朝倉も考えたな。向こうが俺に気がある素振りをすれば、俺があしらうと旗色が悪い。なにせあんなに俺にせっせと話しかけているのだ。俺だって、アニメを見始めた最初はハルヒが朝倉を無視することを酷いんじゃないか、なんて思ったものだ。こんなんじゃ、敵同士だと言って誰が信じるだろう。うまく統制を取ってくるじゃないか、委員長。

 俺はすぐに谷口の身体を折り曲げる。


「いててててて!」

「ほら横向くんだよ90度」

「いてえって! 悪かった! 悪かったから!」

「コイツを斜めにすりゃいいわけだ」

「芦川、気持ちはわかるけど谷口はそれ以上曲がらないよ。僕も手伝うからさっさと掃除やっちゃおう。ね?」


 国木田が言うので仕方なく解放してやる。掃除用具は廊下のロッカーにも入っているから、教室から持っていく必要はない。二人は鞄を持って行ってそのまま帰るみたいだ。俺はどうせ戻ってくるから、鞄を教室に置いたまま、財布と携帯、それからiPhoneだけ持って二人を連れて教室を出た。食えない羊羹も置いてきちゃったけど、あれって再構成できるのかな。


 ぞろぞろと歩いて中校舎に向かう最中、渡り廊下で長門とばったり会った。規定では部室にいるはずなので──というよりも情報操作をして実は一日中部室にいる疑惑のある彼女だ──こんなところで会うからには俺に用があるのだろう。


「よう、長門。さっきぶりだな」


 俺が手を挙げると、長門も鏡みたいに同じ動きをする。そして手を挙げたまま、どの挨拶を口にすべきかといったような逡巡を見せる。


「久しぶりっていうほど時間が空いてないから、さっきぶりってこと」

「さっきぶり」


 復唱した長門は手を下げる。


「どした?」

「これ」


 彼女が差し出したのは小さな携帯だ。ウィルコムだな。へー、スライド式になっててキーボードが出てくるんだ。WS003SH。これ、この時代では画期的なスマホなんじゃないだろうか。古泉の──というか俺も同じだけど──も十分最新型だと思ったけど、これもすごいな。ガジェットに詳しい兄貴なら、長門がこの機種だと知ったら喜ぶんじゃないだろうか。

 画面にはプロフィールが表示されている。


「わたしの番号」

「え? 長門も携帯入手したのか」


 俺の言葉に小さな頷きが返る。番号を俺が打ち込んで顔を上げると、彼女は一言「信じてる」とだけ言って去って行った。

 相変わらず無機質な表情で、突発的な謎の行動。それでも、その言葉と一瞬瞳が輝いただけの変化が俺と彼女との確かな繋がりに感じる。少しづつ世俗に染まっていく長門は、もしかすると長門ファン的には解釈違いなのかもしれない。でも、俺は俺の傍にいて、助けてくれて、変な挨拶を覚えた彼女がとても好きだ。まるで俺と特別な見えないなにかで結ばれてるような気がして。

 ん? 今、なにか引っ掛からなかったか? そもそも、俺と長門はなにかで繋がっているんじゃなかっただろうか? 慌てて記憶を参照する。いや、そんな事実はない。夢か妄想かで、一心同体だった気がしているんだろうか。まあ、この危機を乗り越えない限りは一蓮托生なのは確かだが。繋がっているのなんて電話番号だけだ。でも、どうしてこのタイミングで教えてくれたんだ? 今持っているなら朝も持っていただろうに。

 もしかして長門のやつ、ついさっき携帯を手に入れたのか? だとしたらそれは何故だ? なにか必要があってそうしたんじゃないのか? 長門が自発的に携帯電話を手に入れるか? 規定ではそんなものは──、


 ぴ、と頭痛が走る。


 ──そうか。長門が携帯をなあ。この後みんなにも教えるのかな。まさか長門が人と繋がるための機器を持つようになるなんて思いもしなかった。これも俺がいる以上は起きうる普通なことなのだろうか。

 なにせ目の前で未来の機械を手にして異世界と電話したくらいだ。彼女だって興味が湧いたのだろう。高性能宇宙人としては、縛りプレイ的な面白さがあるのかな、ネットとかスマホって。長門有希ちゃんの消失とかではvitaとかも持ってた気がするけど。

 あれ? 俺さっきまでそんなこと考えてたっけ?


「芦川、お前はどうしてそんなにモテるんだ」

「モテてねえよ。長門とは仲いいけど」

「朝倉さんのことはどうして苦手なの?」


 出たよ。国木田の斬り込み。


「……そうだなあ。本当は俺のことなんか気にしたくないんだろうけど、役職として仕方なく声かけてんだなあって感じがするところ」

「ああ、基本的に深入りしない人だよね、彼女。でも、相当芦川が気にかかるのは本当じゃないかな。転校生だから気を遣いすぎてるのかもね」

「いーや、お前らは全然わかってない。朝倉が男とこんなに話してるのを俺は初めて見たぜ。マジでお前とは気が合うと思ってる証拠だろ。女子がクラスメイトの前で茶に誘うなんてよお、きっと勇気がいったはずだぜ。それも親に紹介したいって……どんだけだよ! お前が来てまだ六日だぞ? なかなか言わねえだろ。それを芦川! お前はいつも冷たく突き放すみたいにしやがってよ~!」


 谷口みたいなやつがいて、朝倉もさぞかしやりやすかろうな。俺は掃除用具箱を開けて、箒を取り出すと掃き始める。谷口のこの反応こそが、朝倉が狙ってやってることに他ならない。


「聞いてんのかよ~!」

「じゃあ俺もちくちく刺してやるけど。谷口こそ、俺がキョンのことを好きなの知っててなんでそういうこと言うんだよ」

「う、そりゃ……そりゃあそうだけどよ! 朝倉だって可哀相じゃねえか。まさか自分の好きな男子がキョンを……よりによってキョンだぜ? フるにしたってあんなにツンケンしないでもいいじゃねえか。つーか、俺は思うんだけどな? 望みがねえ恋をしてるやつの気持ちにもなってやれよ。せめてデートくらいしてやってからちゃんと断れっつーの。お前にはそういう思い遣りっつーか、ここ一番の優しさが足らねえんだよな」


 くっ……ジャブを打ち込んだつもりが俺の方がアッパーカットを受けるとはな。古泉のふにゃふにゃの笑顔がチラつく。悔しいが谷口の言う通りかもしれない。思い遣りに優しさか。確かに俺には足りていないのかもしれない。古泉の気持ちがわかっていて、それを横に置いて仲良く喋ったり、キョンの優しさだって利用している。それは完全に俺が悪い。


「谷口やめなよ。芦川困ってるじゃない。それに、それは谷口があわよくばフられた朝倉さんを……って思ってるからだろ」

「ば、馬鹿! 俺はそんなに嫌なやつじゃねえよ!」

「じゃあ、僕が芦川に懸想していても、同じようにデートしてちゃんとフッてあげなって言うんだね? じゃあ芦川、デートはどこに行こうか。水族館とか行く?」

「ええ!?!?! なに!?!? 待って!?!? 急!!?」


 国木田は携帯でデートスポットを調べ始める。待ってくれどうしてそんな話になるんだ。国木田と俺がデート? ホワイ? なぜ?

 いや、まあ国木田はハルヒ期待の新星だからな。気は利くし、優しいし、頼りになるし、いちご牛乳をくれるしな。こいつはこいつでモテそうなやつなんだよなあ。ていうか、なんでこいつたまに俺のみぞおちに抜き身の刃でクリーヒットかましてくるんだろう。マジで俺のことちょっと好きなのかな。いやあ、でも、ええ? だとしたらなんでどいつもこいつもキョンと俺を応援してくれるんだ?


「俺が国木田と水族館に……? 熱帯魚を見に……? そんなの、デートになっちゃうじゃないか!」

「だからそうだよ」

「なんで!! ワァ!! なんで!?」

「……芦川、望みがないことはすっぱり言ってやった方がいいぞ。今後の友情関係のためにも」

「ほら、朝倉さんとじゃ態度が全然違うじゃないか」

「どっちなんだよ!? ていうか国木田もなんだよ!?」

「ごめんごめん、びっくりさせちゃったね。やー、それに僕は望みがあるみたいだから、まだデートはやめておこう」


 あっけらかんと笑って、国木田は携帯をしまう。何が起きているんだ。話をばんばん飛ばすな。着いて行けてないぞ、俺は。


「どういうことなんだ!?!?!?」

「ほんとだ……声がでけえ」

「声のでかさで俺のときめきを判断するな。てか俺ってキョンに対してそんなに声でかいかな……」

「気づいてねえの? クソでけえけど」


 クソでけえの!?


「よくキョンも気づかないよね、これで。それに……そうかあ。僕にもときめいたのかあ」

「ち、ちちち違う! 違うから! これはキョンにってことであって、別に国木田にときめいてるってわけじゃ……!」

「わかったわかった。ほら芦川深呼吸して」

「すーはー……いやお前のせいだからな!!?」

「耳が壊れるっつーの! うわ、つうかマジかよ。なんで国木田までそっちに入ってんだよ。あれ? 俺だけ? なんだよお! 俺をのけ者にすんなよ! クソ……古泉だけが希望か。あいつはお前にフラれてるも同然だからな」

「あはは、谷口は谷口だなあ。古泉くんは……」


 国木田は俺の顔を見る。古泉かあ。古泉のこと、ちゃんとフった方がいいのかな。でも、あいつ頑張るとか言ってたんだよな。それは応援してあげたい思いもあるんだけど、応援したら俺は古泉ルートに入るということになる。なんで? うう、考えなきゃいけないことが多すぎる。今は目の前のことに集中したいのに!


「ね? 芦川」

「なに!? その確認は!!!」

「なんでもないよ。掃除しちゃおう。芦川もなにか予定があるんだろ?」


 話を逸らすのがうますぎるだろ。君は詐欺師? だが、このまま弄ばれたんじゃ俺も困る。せっかくなので軌道修正されたレールに乗っておこう。


「お、おう。よくわかったな」

「は? なんだよ、そういうことなら先に言えよ。だから朝倉に断ってたのか。因みに何時からだ?」

「五時半くらい?」

「よし、じゃあまだ時間あるな。急ごうぜ」


 うーむ。こういうところが憎めないんだよな。谷口って。

 俺たちは必死扱いて三階の廊下を掃き掃除した。途中谷口と埃の塊をぶつけ合って、国木田に叱られたりしながら。俺は明日も明後日も、こうやってこいつらと馬鹿な話をしていたい。本当は、朝倉ともそうしていたいんだよ、とそう願うことはできないけど。

 雑巾がけ競争が終わる頃には、すっかり夕陽が傾きかけてきた。谷口と国木田は掃除用具をしまい、鞄を背負う。


「二人共、マジでありがとうな」

「気にすんなよ。俺たち親友だろ」

「しん……ゆう……?」

「そこはすっと頷けよ! そういうこと言うなら、ボウリングの優勝権、今の掃除で使ったことにしてやるからな!」

「多分それ芦川忘れてるよ」


 本当だ、忘れてた。キョンにも昼間、聞かないでって使えば良かったかな。


「つうか芦川、お前鞄は?」

「あ、教室置いてきた」

「んだよ抜けてんな。待っててやろうか?」

「いや、気にせず先に帰ってくれ。用事は校内であるんだ」

「……そっか。じゃあ、また明日ね。芦川」


 二人の背中を見送る。俺は箒を持ったまま立ち尽くしていた。キョンが教室に戻るのは五時半くらいと表記されていた。くらいってどのぐらいだろうか。五時半より前か、後か……。多分、キョンは呼び出しが偽物だった場合に揶揄われたくないって意識が強いはずだ。だから、規定ではわざわざ遅くまで部室で時間を潰したんだ。なら、五時半より少し後って考えた方がいいかな。

 武器になるとは思えないけど、一応箒はこのまま持っていくか。いや、やっぱり長い方がいいな。デッキブラシにしよう。テイルズシリーズでは武器にもなっていたし。


 影が差した夕方の校舎は、まるで全部が異界みたいだった。オレンジと黒とで陰影が形づくられると、光が当たらない部分は星のない夜空のように暗い。その境目はまるであちらとこちらを隔てているようで、人の歩いていない廊下は怪談嫌いの俺の足を震わせる。いやいや、これはSF作品だ。幽霊なんて眉唾に怯える必要はないのさ、と自らを鼓舞する。

 俺の武装を確認しておこう。空間固定のためのマジックとノート。デッキブラシと、他人の空間に侵入するためのiPhone。そして、貴重な脳みそが詰まった身体と、涼宮ハルヒシリーズの記憶。たったのそれだけ。緊張と怯えで、俺の足取りは重い。それでも前に進まなければならない。デグレチャフ少佐も言っていた。逃した敵は、また銃を取るのだ。我々を撃つために、と。ああ、彼女は中佐になったんだったか。ともかく、ここで決めるしかない。

 たどり着いた一年五組の教室は、まさに異界と化していた。廊下から見た建付けの悪い教室のドアは、接着されたように他者を拒んでいる。波打つ窓、虹色に輝く流動的なドアの表面。その膜のようなものに触れれば、存外掴むことができる。俺はサキエル戦のATフィールドにするようにその膜を破きながら、乱雑に教室のドアを開けた。


「死ぬのっていや? 殺されたくない?」

「わたしには有機生命体の死の概念がよく理解出来ないけど、か?」


 続きのセリフを奪いながら唐突に現れた俺に、朝倉とキョンの視線が集中する。この発言のタイミングってことは、既にキョンは一度ナイフを向けられているのか。計算をしくじった。まさか彼が五時半よりちょっと前に教室に来ていたとは。思ったより浮かれてたんだな、キョンくん。


「芦川!」

「ふーん。来ちゃったんだ。でも、自発的に介入してきたなら……なにが起きてもあたしに責任はないわよね?」

「おい、俺が先端恐怖症だったら泣いてるぞ」


 軍事用ナイフの切っ先をこちらに向けて朝倉は微笑んだ。いいぞ、俺を狙え。穏やかな表情の彼女から視線を動かさないように固定して、俺は懐から取り出したマジックでノートに書いた四角を塗り始める。そして、この空間を固めていくつもりでいる。

 固めるっていうのはそのままの意味じゃない。固定する、維持する──それができるってことは、考えて見れば空間を制御するための命令権を俺も所持できるということだ。そうすれば光明は見える。


 本当に、そうだろうか?

 頭の中で、時限爆弾のカウントダウンみたいにカチカチと音がしていた。


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