芦川ヒカリの憂鬱Ⅰ 10


 タクシーだからそんな必要はないのに、古泉は俺が乗り込むまでよくできた執事のように扉の前で待っていた。まるで紳士的な行動みたいだが、簡単に言えば乗れという圧をかけられたのだ。

 やつはこっちが後部座席に納まったのを確認して、わざわざ逆側から入ってくる。ズレろって言えば済むだけのことなのに、いちいち面倒な性格をしているもんだ。お前タクシー乗る時いつもそうしてんの? 俺の疑問を完全に無視して、車は走り出す。

 俺が首の後ろに痛みを感じてさすっていると、古泉は特になにか話す素振りもなくスマホを操作し始める。机にうつぶせで何時間も眠っていたのだ。さすがに寝違えたかもしれん。てか、半ば強引にタクシーに乗せておいてスマホいじってるってなんですか。おかしくないですか。


「なにか話したいことがあるんじゃないのか」

「おや、交通手段を用意すると言ったではありませんか」

「じゃあその言葉を俺がマジで信用して、お前の良心が傷まないことを祈るよ」


 古泉は肩を竦めた。

 車は大通りから下道に向かう。信号を曲がった先に、高速道路への案内板が見えた。どこまで連れて行く気だろうか。車と言うのは密室であり、しかも動く。秘密裏に事を運ぶにはとっておきだ。俺は常々、暗殺には車内が向いていると思っていた。

 とはいえ、ここまでお膳立てしておいて今更山に捨てられるとは思わない。機関は長門が今日だけ手を離せないことを知らないし、古泉はハルヒとの会話で俺に手を貸して協力体制をアピールして見せた。強引な手段に出てまで俺を監視体制の整った場所に住まわせるのにも、なにがしかの理由はあるのだろう。


 さて、だからと言って古泉のペースにのってしまっても大丈夫なのだろうかと言うと、それは悩ましい。最悪、ハルヒの前で苦虫を噛み潰してバカップルをやってもいいが(嫌だが)嫌だったのでこの話はなしだ。どっちにしろ、ハルヒは俺が気を遣うとわかるみたいだし。

 ならばいっそ本当に俺が古泉に惚れるでもなんでもすればいいのだろうか。単純に考えて古泉は、いわゆる女子が好きそうなステータスというのを所持している。隣に住んで毎日を過ごしている内に俺の方が恋してしまうことも、あ、ある、あるかあ……? 知らん、数あるジャンルを超えて尚キョン君以外に心を奪われたことはないし、それも五年程前までの話だ。

 ただ、女だと伝えるタイミングも逃していたんだよなあ。もしかしたら知っているのかもしれないけれど、これを機に言ってしまうのも手だろうか。それで、演技でなく古泉とイチャつけば、ハルヒも満足ってわけで。困ったものです。想像できん。ちょっとした恐怖ですよ。

 まず、俺が誰を相手にしてもイチャイチャバカップルになる図が浮かんでこない。これがオタ活から足を洗っていた人間の想像力の限界なのだろうか。まあ、古泉はそういう演技は出来るだろうが、想像上の俺は顔が引きつっている。恋ねえ……オタクに恋は難しい。どうやらあれは事実だ。

 いや、でも。もしも俺が女だと知られると、機関内部では都合がいい人間も出てくるんじゃないか。古泉を使って本腰を入れて俺を落としてしまおうと考えるやつがいないとも言えん。俺自身、てんで利用方法がわからない能力でも、機関ならうまく使いこなしてしまえそうだ。それは良くなさそうだな。勢力図が崩れると朝比奈さんが困りそうだし。

 それに、なにより古泉が俺を本気で好きになる想像ができないから、やっぱりこの話はなしだ。やれやれ。結局、神様に忠実な信者を気取っていることで、逆にそのハルヒの不機嫌をじわじわ生み出しているなんて、まったく損な役回りで泣けてくるね。


 やっぱり性別のことは隠しておくべきなのかな。でも、それで後になって同性の友人だと信じていた古泉を裏切ることがあったら嫌だな。そんなことで傷つくやつかは知らないが、そうだったら俺はとても困る。はてさて、どうすべきか。


「考え事ですか。僕のことであれば光栄ですが」

「お前はそのムーブを続けるんだな。日常からやってればハルヒの前でボロも出にくいってか」

「仰る通りです。とはいえ、同年代の友人は初めてですから。そうご心配頂かなくても、それなりに楽しんでいますよ」


 同年代でもねえんだよなあ~! もしも俺が成人式に出たばかりです、と言ったら、古泉はどう思うんだろうか。どうもしないか。憐れんではくれるかもしれない。まあ、古泉にとっての友人枠はキョンくんだし、俺はなんか……隣の家の兄ちゃんくらいの立ち位置を最終的に目指そう。

 なんでも俺より器用にやるはずだ。そうそう気に掛ける必要もないだろう。俺はもう一度会話に切り込んでみることにした。


「なあ、古泉」

「なんでしょう」


 やや身を乗り出して、古泉は食いついてきた。どんな情報でも喉から手が出るほど欲しいって感じだ。勢いに押され、俺は「なんでもない」と返してしまった。

 車はインターチェンジを通り過ぎ、料金所をETCでパスすると、ぐんぐんと北高のある街を遠ざかる。当たり前だが、町の名前なんかは知っているものと変わりない。視界に映るビルの看板には、見覚えのある企業もあった。古泉のスマホもボーダフォンだったしな。

 いや、それって当たり前か? 現代系の転生ものを見ていると気にならなくなってしまうが、企業名ってのは創立者の名前だったりする。となると、創立者が同じである可能性も高い。同じ人間が住んでいるのならば、究極、俺の実家が存在していてもおかしくないのではないか? 手が空いたら、探してみてもいいのかもしれない。


「なにかお気づきのことがあれば、優先的に情報を流していただけると助かります」

「いや、そういうんじゃない。もっと……個人的なことだ」


 実家といえば、俺のことは向こうではどう扱われているんだ? いきなり弁当一つ道端に落として消えた俺だ。バイトのシフトは代わりが見つかっているのか。家族は俺を探しているのではないか。特に、うちの兄はそれなりに過保護な部類に入る。俺が失踪したなんて、会社を辞めて全国行脚の旅に出てもおかしくない。急に心配になってきた。


「それもお聞きしたいところではありますが……やめておいた方が良さそうだ」

「ま、そうしてくれ」


 話題を変えるか。なんとなく、どこに連れて行かれるかは理解している。


「わざわざ俺が名前を出した新川さんがいる辺り、この会話を聞く第三者が必要なんだろう。そんで、俺を閉鎖空間に連行してどうするつもりだ?」

「さすがはヒカリくんですね」

「雑に褒めるな」

「では、詳細に。驚くべきは観察眼です。予め我々の情報を持っているにせよ、相手の思考を読み取る手腕は圧巻の一言です。対応力も素晴らしい。予想外の事態が起きても動揺は一瞬で、すぐに順応して先の手を考えていらっしゃいます」

「詳細に褒めるな。自画自賛しているように聞こえるし」

「そう評価していただけているなら嬉しいものですね」

「ああ言えばこう言いやがって。おしゃべり好きキャラならさっさと説明しろよ。目的地に着いてもいいのか?」

「なかなかに手ごわい方ですね。中庭でも言った通り、僕としてはあなたとは良い戦友になれそうだと思っているのですが」

「戦友に言い寄る映画、あんま見たくねえな」


 古泉は苦笑して、両手を広げた。


「では、ご期待にお応えしてご説明致しましょう。僕たち機関は、とある方の依頼であなたに監視下に入っていただくことを決定しました」

「勝手に決定されたのはまあ、もう今さらいいとして。依頼ってことは外部か。……新事実だな。お前たちがどこかと結託していたとは」

「漸くあなたの驚く顔が見られて幸いですが、少しばかり事実とは異なりますね。その方は個人であり、結託と言うよりは協力関係と言った方がいいでしょう。そして、僕は末端ですからね……実は、その方が誰なのかは知りません。ただ、機関にとって大恩ある方だとは伺っています」


 知らない人間に何を聞いても意味がない、ということだろう。そこのところひっかかるが、とりあえず一回全部喋ってもらう方がいい。俺は手のひらを差し向ける。どうぞ続きを。


「強引な手段に出てすみません。あなたと協力関係を結ぶことは、我々にとっては涼宮さんを監視する任務の次に必要なことでした。そして、閉鎖空間にあなたを連れて行くこともまた、その方の指示なのです」

「中間管理職も大変だな。わかった。言う通りにするよ。何もしないで衣食住の世話を任せるってのも人としてどうかと思うしな。まあ、行ったところで何ができるわけでもないが……なんだその顔は」

「いえ、聞いていた話と少し違ったものですから」

「よくわからんが、その協力者とやらは俺に偏見があるらしいな」


 古泉は眉を下げ、答えないまま微笑んで見せた。機関の外部なんて話が出ると、俺に優位性はまったくない。多分新川さんに聞いても教えてくれないのだろう。ミラー越しの運転手は、壁でもあるかのように運転に集中している。


「どうでもいいけどマジで隣に住むの?」

「はい、マジです」

「お前も大変だなあ。ハルヒのためとはいえ、初対面の男に長年片思いという設定だもんな。なに言われてそうなっちゃったの?」

「涼宮さんは開口一番こう仰いました。ヒカリのこと、ずっと前から好きだったんでしょ、と」


 そんなことだろうと思った。


「あはは、びっくりしたろ。いきなり遠巻きに監視するはずの相手が飛び込んできて、おまけにちょうど調べていた人物とコンビにされて」

「ええ、まあ。指示もあったので丁度良かった部分はあるのですがね」

「ま、胃に穴が開かない程度に頑張れ」


 ぽん、と古泉の頭を叩く。きょとん、という顔をした古泉を見て、ミラー越しに運転手の新川さんがわずかに微笑んだ。


「そうですね。こういうのはどうですか。あなたが僕にもう少しだけ優しくしてくださる。僕は毎日を笑って過ごせそうなのですが」


 今以上に笑うってどうなるんだよ。腹を抱えて大爆笑するとかか? それはちょっと見てみたい気もするが。


「なるほど。だが断る。そのうちハルヒも飽きるだろう。俺がそれっぽくすれば、余計にニセコイ期間が延びるぞ。お前とてさっさと辞退したいだろうに」

「照れているところも大変かわいらしい」

「やめろって! 見ろ、鳥肌!」


 腕を捲る俺に、古泉は楽し気に笑った。あーあ、そんな和やかな演技もできるなら、さっさと俳優にでもなればいいのに。

 タクシーはハザードを焚いて、住宅街でゆるやかに停車する。後部座席の扉が開き、古泉は先に降りると俺に手を差し出した。


「いらん」

「まあ、そう言わず」

「いらぬ」

「言い方のことではなく」


 俺は差し伸べられた手を歴戦の武闘家のように躱し、団地群のスクールゾーンに躍り出る。周囲には黄色い帽子を被った小学生や、乳母車を押す母親。兄弟らしき子供が駆けまわっていたりと、随分とのどかな風景だ。

 だというのに、俺は身体中の毛穴が一斉に開くような、奇妙な錯覚に襲われた。きょろきょろと辺りを見渡す間にタクシーは発車し、ウインカーを瞬かせて左折すると、完全に視界から消えてしまう。


「やはり、あなたにもわかるのですね」

「なにがだ」

「閉鎖空間ですよ。実は、本当に今日はそのまま帰るつもりだったんですよ。それが、あなたがタクシーに乗り込んだ瞬間……発生してしまいましてね。もしかすると、あなたも予兆を感じていたのではありませんか?」


 もしかして、首の痛みのことか? そんなわけないか。いや、まて、、なんだか調子が出ないな。いますぐ鎮痛剤を5錠くらい一気飲みしたい。


「協力者からは、あなたと接触後、最初に発生した閉鎖空間に連れて行くよう指示されていたものですから……すみません」


 頭が、痛い。


「あやまるな。べつにお前は、わるくないだろ」


 金槌で頭を叩かれているようなひどい頭痛だ。呂律も怪しくなってくる。どう考えても、俺の全身がこれから向かう場所を拒んでいる。そういうことから逃げるのが仕事だった気がするのだが、何歩か先に見えるそれが背を向けることを許さない。

 薄い……ヴェールだろうか。レースのカーテンのようなものがはるか上空から降りている。クソでかいクラゲが浮いていると言われても今更驚かないくらいの存在感。それがそのまま、俺にとっての脅威であることを知らせてくる。

 心臓の血液が沸き立って、鼓動が早くなる。古泉が俺の顔を覗き込んできた。お前、そんな心配そうな顔もできるんだな。


「……大丈夫ですか? 日を改めても……」


 深呼吸をして、痛みを逃がす。頭痛くらいじゃ休ませてくれないだろ、バイトも、学校も、ハルヒもさ。


「いや、指示が出ているんだろ。お前の立場を悪くするつもりはない。俺なら問題ない。行こう」


 靄のかかる思考で、精一杯強がって言葉を組み立てる。世界一高レベルなもじぴったんをやってる気分だ。


「……わかりました」

「ホアッ!? なに!?」


 古泉が手を握ってきた。俺の奇声で通行人が振り返る。見慣れない制服姿の学生がいるだけでもそれなりに目立つだろうに、男同士仲良く手を繋いでいる光景っていうのはどうなんだろう。今すぐ俺を透明人間かなにかにしてくれ。


「すぐにすみます。ほんの数秒」


 わかっている。閉鎖空間に入るための儀式なんだろう。俺はぎゅ、と瞼を閉じた。男子と手を繋ぐ時に手汗がべとべとなことが少しだけ気にかかるが、古泉は意外にも強く俺の手を握り、そのまま歩き出す。一歩、二歩、三歩。

 瞬間、ウエットスーツのようなぴったりしたもので顔面を塞がれたような感覚。息が出来なくなり眉を顰めると、古泉はさらに握る手に力を籠める。脳の奥から、気絶した方が楽だという信号が発せられるのを、俺は拒否した。

 さすがに、これから戦いに行かなければならない人間の荷物になる気はない。


「もう結構です」


 古泉の一言がスイッチだったのかもしれない。突如呼吸が楽になった。肺に、この場所で生活するための特別な酸素が送り込まれているような違和感がある。

 瞼を開くと、灰色で塗りたくったような住宅街がそこにあった。窓の開いた部屋がそこかしこに見えるのに、生活の気配がない。人以外にも、例えば室外機の温度などもさっぱり奪われているように見えた。色彩だけでなく、熱エネルギーがない、そんな空間に思える。しかし、肌寒さは感じない。なんなら、適温と言って差し支えない。そこがまた気持ち悪い。

 俺は思わず古泉の手を握り返す。やつは息を零すように笑って、ゆっくりとした歩調で目的地を目指した。

 俺の身体の方は警告を無視した俺を気遣うつもりはなくなったらしい。爪楊枝でちくちくと身体を指されているような、頭の中に腐った残飯を詰め込まれているような不快感が断続的に襲ってくる。

 吐き気を堪え、俺は古泉に促されるまま、F棟と書かれた団地の非常階段を上っていく。


「閉鎖空間内部のこともご存じだったんですか?」

「なぜそう思う」


 今は古泉の説明好きがありがたい。長い文章を組み立てて発することで、胃液も一緒に外に出てしまいそうだった。昼間あんなに眠ったのに、何日か徹夜したようなだるさがのしかかっている。


「光景自体には驚いていらっしゃらないように見えました。体調は……回復していなさそうですね。不思議な話です。怖がるならわかりますが、身体に影響が出る人と言うのは初めてだ。それも、閉鎖空間に入る前から。本当になんらかの予知能力がおありなんですか?」

「禁則事項だ」

「まさか、来たことはないですよね?」

「だとしたらハグして愛を囁いてやる」

「となると、あってほしいものですが」


 身体の不調の理由は、多分ストレスかなにかだろう。俺はキョンくんみたいな特別な一般市民権を得ているわけではない。古泉のような超能力者でもない。もしかすると、空間が俺を拒んでいる可能性すらある。予知能力? 欲しいくらいだ。知らない展開に対応する度に、命が削られる思いだよ。なにせ、俺のワンアクションで世界が行き止まりにノーブレーキで突っ込むらしいからな。今からどでかい怪物が出てくると知っているのもそれなりにストレスの理由だ。

 高熱を押して、歩いて病院に向かうような疲労感がある。俺は酩酊者のような足取りで一段一段階段を上り、屋上に出たところでついに力尽きた。古泉は咄嗟に俺を支え、そっと座らせる。


「すまん、介護」

「構いませんよ。将来、あなたをこうして介助する日も来るでしょうから。その練習と思えば」

「そんな日は来ない」


 薄青に発光する巨人が、なんの予兆もなく出現する。どう考えても突然現れていい質量じゃない。自重でふらつく姿は、どこかさっきの俺に似ていた。これがハルヒの精神状態を表すなら、今頃あいつはどんな思いをしているのだろうかと心配になってくる。これからSOS団が始まるって、楽しかったんじゃいのか? どうして……、痛い。どうして、と考えるのは特に頭が痛くなる。

 巨人は長い両腕を振り回し、周囲の団地を粉砕し始めた。団地っていうのは、そもそも人が暮らすための箱の集合体だ。こういう市営住宅は大抵その街に何年か住んでいないと権利をもらえないもんだ。他にも様々な条件をクリアして、しかも応募して当選しなければ住めなかったりする。

 俺にとっては、なんとなく団地というものは家族の象徴的なイメージがある。自分が住んでいたとかではないけど、なんとなく。それがコンクリートの塊になって飛んでいくのは、例え無人とわかっていても気持ちのいいものじゃない。ついでに少しだけホームシックになってしまいそうだ。


 駄々っ子のように団地を破壊すると言うと聞こえはいいが、怪獣映画のような痛快な演出ではなく、むしろ悲愴的だ。怒りも悲しみも、無人の建物にぶつけることがどうしてストレス発散になるだろうか。誰かにわかってもらいたくて聞いてほしいのなら、こんな寒々しい場所で暴れても仕方がないのに。

 なんのために俺を呼んだんだよ。一人で解消することないじゃないか。

 ゆっくりと、頭や身体の痛みが引いていく。元からここにいたみたいに、ここにいることが普通みたいに、身体が適応していく。実家の居間でスマホを弄っている時みたいな、妙な安心感が襲ってくる。ともすれば、逆に身体が軽いくらいだと勘違いしてしまいそうだ。

 痛みが引いたとは言えど、完全に頭痛が取り払われたわけでもないのに。なんだ、この慣れは。なぜそんなことを思うんだ。まさか本当に来たことがあるわけじゃないだろうな。

 いや、来たことがあったとして、ここまで馴染むこともあるまい。具体的に言うと、一人暮らしを始めて半年くらいの部屋って感じだ。一人暮らしなんてしたことないけど。なんだこの不毛な思考は。

 我ながら、自身の変化も、わけのわからない例え話も不気味すぎる。あと、もしも来たことがあったら……変な約束をしてしまったのでそれは困る。


「では、行ってきます。すぐに帰りますよ。夕飯はパスタでお願いします」

「献立決めてくれるのいい旦那すぎるだろ。いってらっしゃい。気をつけてな」


 古泉はゆったりと微笑んで、わずかな風を発生させながら宙に浮いていく。大きな赤い球のようなものに包まれると、ゆるやかにそれと同化し、瞬く間に巨人に向かって飛んでいった。

 建物が壊されるたびに閉鎖空間は広がるのだという。俺は出来るだけ被害が少なくなることを、祈るしかできない。すると、また頭痛が強くなる。なにかの法則性があるのかもしれないが、今は放って置くしかない。

 はるか遠くで豆粒みたいになっているのに、不思議とどれが古泉なのか見分けがつくので俺は驚いた。もう一つ驚いたのが、アニメで見ていたよりも、どうにも神人と呼ばれる巨体の怪物はしぶとい。片腕を切り落とされても、今にも金切り声をあげそうな程に苦しんでいるのに暴れ続ける。


 ──ふと、そいつと目が合った気がした。


 まずい……!

 瞬間、巨人は周囲の建物を破壊することをやめ、ぐるんとこちらに頭を向けた。そして、明確な意思をもって、覚束ない足取りながらもこちらに歩き始める。まるで親を見つけた幼子みたいに、懸命によたよたと足を動かして。

 突然の方向転換だ。機関の構成員たちも動揺した動きを見せる。俺の方はとうとう頭蓋骨が悲鳴を上げた。脳が膨らんで内側から押し広げているみたいだ。恐怖よりも先に激痛がこめかみを突き抜けて、意識が外に出て霧散しようと蠢く。無駄だとわかっても、来るなと念じてしまう。

 沸騰する血液が早く逃げろと警鐘を鳴らす。呼吸が荒くなる。体がもたない、とわかる。自分自身からの最後通告だだ。さすがに従うかと視線を逸らしかけて、気づいてしまった。


 なりふり構わずとうとう走り出した神人の長い腕が、今、まさに古泉の頭上から振り下ろされようとしていることに。

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