芦川ヒカリの憂鬱Ⅰ 7


 古泉の後ろ姿を見送る義理もないので、俺は早々に別のベンチに座りなおした。あの椅子はケチがついたからな。高そうな紙袋を手首に下げて、お昼の残りのメロンパンを咥える。かりかりとした砂糖とクッキー生地の食感。その後にふわふわもふもふがきて、甘い香りが口いっぱいに広がる。焼きたてだったらもっと美味しいんだろうな。

 ようやく訪れた穏やかな食事に水を差すように、背後で樹がばさばさと揺れて、ついでに「わひゃあ」と聞こえた。なんだ? パンを頬張っている時に限ってアクシデントに襲われるな今日は。俺は一口分のメロンパンを飲み込んで、足元に転がり出てきた上に葉っぱまみれの女性に手を貸した。


「なにしてるんです、朝比奈さん」

「えへへ……ドジしちゃいました」


 よろよろと立ち上がる小柄な女性は、困ったように眉を下げてスカートの前で指を絡めている。話しかけるきっかけを探してこちらの顔色を窺う瞳は、今にも泣きだしそうにうるんでいた。なんとなく誰かの気配があったので、順番的に彼女だろうとは思っていた。いつまでも話しかけてこないから見張っているだけなのかとも考えたが、逃げ出さないとろを見るとやはり俺に用があるようだ。

 ふわふわの髪の毛を身体の震えで揺らし、朝比奈さんはこちらを見上げて「あにょ」と第一声を噛み倒し、沈黙。わかりますよ、一回目で噛んだらきついですよね。俺もちょうど今朝、第一声からスベったところなんですよ。お気持ちは本当に痛いほどよくわかります。

 でもまあ、可愛らしいけれど可哀相なので、こちらから話題を振ることにした。


「もしかして聞いてました? さっきの」

「いえ! 内容までは聞いてないです、でも……多分、大事なことを話していたんですよね」

「朝比奈さんの話も聞きますよ。ゆっくりで大丈夫です」

「ありがとうございます……やっぱり、私のことも知ってるんですね。うん……言わなきゃいけないことがあるの」


 言いにくいことならこっちから切り出した方がいいよな。俺はできるだけ柔和に微笑んで、冗談っぽく話しかけた。


「じゃあ、朝比奈さんも俺を脅しにきたんですか?」

「ふえ、脅し? いえ、そんな物騒な話じゃ……でも、どうなんだろう……もしかすると、あなたにはそう感じられちゃっても仕方がないのかも」


 不安げにスカートを握りしめる手が震えている。ハルヒが思わず抱きしめたくなるのも頷ける小動物っぷりだ。ちょっと意地悪な聞き方だっただろうか。

 俺は彼女が喋り出しやすそうな、できるだけ棘のない言葉を選ぶ。


「じゃあ、俺になにかお願いがあるんですね」

「はい。そうなんです。そうなの。お願い……あなたが知っていることを、未来側はとても脅威に感じています。それを、誰にも言わないでほしいの。もちろん、私にもです。今の私には、あなたの持つ情報を参照する権限がありませんから」

「そりゃ、もちろんネタ晴らしをして今後の展開を変えるようなつもりはありませんが、長門曰く俺がいるだけで既にダメなんですよ」


 う、と朝比奈さんが言葉に詰まる。責めるつもりはないが、確認したかった。

 やはりそういうことだった。どこからか俺の情報を入手した周囲の勢力のみなさんは、俺がこれから先に起こることについて幾らか知識を持っていると、なぜだか知っている。長門は全知みたいなもんだし、先読みでいえば朝比奈さんたちにはわかることなのだろう。機関はなんでわかったのか謎だが、とりあえずは置いておいて。

 多分、それこそが長門の言った「俺が存在するだけで起きる問題」なのだろう。例え俺がそれを口にしなくても、周りは俺の反応や行動でそれを悟り、対策を取ることができてしまう。

 例えば、俺が慌ててその場を離れればこれからそこで何かが起きるとわかる、という風に。

 よく、自分のよく知る漫画の世界に転生するような話があるが、あのタイプの主人公ってのは大抵ポーカーフェイスか、天然か、ともかくその言動が周囲に把握されにくかったりする。もしくは慎重だったり、演技派だったり。残念ながら俺はそのどれにも当てはまらない。

 ドジったことにすら気づかないでアホ面下げているのが俺だ。何度も同じ問題を引き起こして視聴者をイラつかせるタイプ。自分が同じ立場になってみるとよくわかる。世に溢れているとまで言われている、周回系能力者や未来視の魔眼持ち、はたまたお気に入りのゲームにフルダイブした諸先輩方は、すごい。

 ちなみに朝比奈さんは天然プラス知らされていないタイプの未来人なので彼女も悟られにくいタイプだろう。。


「芦川さんには、我々が制限を掛けることがどうしてもできないの。どうしてかは言えません。勿論、あなたの判断で断ることもできます。必要な時に、必要な情報を取り出すことを、禁止はできません。あなたは涼宮さんと同じだから……」

「そんなことを最近よく言われますね。ハルヒと同じとは?」

「ごめんなさい。禁則事項です」

「俺が本来来るべきだった時間。三年前については」

「禁則事項です」

「俺の能力って?」

「禁則事項です」

「俺はいつ帰れますか?」

「禁則……事項です」


 やっぱりね。


「ですよね。というように、俺は俺のことをな~んにも知りません。俺は、俺の能力を活用できません。長門はあんまり色々して欲しくないみたいで言いませんし、古泉には見張られてますから」

「そう、なんですね……私と同じかあ。それじゃあ、お互いに手探りなんですね」

「そういうことです。ちなみにおすすめの部活とかって禁則ですか?」

「ひぇ? え、そ、そうね……書道部……かなあ?」


 急に話題を変えてみたが、SOS団とは言わないんだな。やっぱり俺は所属しないで済むみたいだ。そりゃ、ちょっとは仲間に入りたいと思わないこともないけど、組織間の面倒ごとに巻き込まれるなら、別の部活の方がいいかもしれん。書道部、考慮に入れておこう。こんな感じに、俺はうまく逃げられる。

 しかし朝比奈さんは制限があって、監視があって、自分が何をすればいいのかもよくわからない場所にいなければならない。こう言っちゃなんだが俺と朝比奈さんはトップクラスの無力な存在である。古泉に即答できなかったのはこれも理由だ。

 俺は先を知ってる。朝比奈さんは知らないが、後ろの組織は知ってる。だけどそれをうまく使って逃げるようなことはできず、同じように、ここに放り投げられてしまっている。なら、少しでも知っている俺は出来るだけ彼女の傍で助けになりたいと思った。


「でも……だからこそ、お願いを聞いてもらうしか、私には、それだけしかないんです」

「いいですよ」

「えっ」

「もちろん、ここぞという時には俺は自分の知識を活用します。それこそ、ハルヒを止めなきゃどうしようもない時。今、こんなことを言うとあなたはそれがどういうことかわかってしまって、上から怒られちゃうのかもしれません。だから、俺はいちゃダメなんでしょうね」


 自嘲気味に言う俺を見て、朝比奈さんは耳に手をあて、首を横に振る。


「いいえ、それは……大丈夫みたいです」

「つまり、今の会話で俺が確信を得ても未来側は平気なんですね。いつか、俺が行動しなきゃいけない時がくるって」

「……はい。そうなんです。あなたが必要な時が、きます。わたしたちは、芦川さんをいちゃいけないなんて思っていません。むしろ、いてくれなきゃ困っちゃいます」

「え~、なんか嬉しい」

「えっ」

「あはは。すみません。なんか昨日から、お前は来るべきじゃないとか怪しいやつだとか、脅しとかだったんで。ちょっと嬉しくなっちゃいました」

「……ごめんなさい。わたしたちも変わらないです。あなたを利用しようとしているんだもの」

「わー、謝らないで。それでもいいです。俺、朝比奈さんの手伝いができたら嬉しいんですよ」


 俺は朝比奈さんの両手を握った。愛想のいい政治家みたいに。一番立ち位置の近い人だから協力したい。でも、それだけじゃない。いつも一番困っているように見えるこの人が、何もできないと嘆いているけど頑張ろうとしていることが、俺はとても偉いなと思うから。例えその姿が悲哀を誘うと未来側がわかって送り込んでいたとしても、この感想は変わらないだろう。

 朝比奈さんだけじゃない。理解されなくても諦めないハルヒ、なんだかんだ付き合うキョン、ひとりぼっちで大人しくしていた長門、恐怖もあったのに戦っている古泉。みんなそれぞれ頑張っている。

 俺は一回頑張ることをやめてしまった人間だ。流されることに慣れて、好きなものに夢中になることを諦めて、願いから遠ざかったりもした。のんべんだらりと生きて来た。

 だから、少しくらいは、頑張ってる人の役に立ってみたい。


「でも、でも! それだけじゃないです。わたしは、芦川さんのこと、一つだけ知ってるの。だから、それで力になれるかなって……」

「知ってる?」


 なにかそんな素振りがあっただろうか。早送りで今の会話を再生しなおして、はたと気づく。


「あれ? 芦川さんって呼んでる」


 朝比奈さんの他の団員の呼称を並べてみる。キョンくん、古泉くん、長門さん、涼宮さん。うん、やっぱりおかしい。


「はい。そうなんです。知ってるんです。女の子だって……」

「そうなんですか?」


 なんで朝比奈さんがそんなことを知っているんだろう。俺はこっちの世界にきた時にはもう男の体になっていた。今、この話をするのが朝比奈さん(大)だと言うのならわかる。それで、俺はまだあなたにその話をしていませんよ、という原作再現シーンになるなら、わかる。

 けれど、彼女は紛れもなく今の時間にいる朝比奈さんだ。


「ちなみになんでかは」

「ごめんなさい。禁則事項……です」

「なるほど……じゃあ、二人だけの秘密なわけですね」

「ふぇ? あ、本当ですね! そう、そうですね……! はい、だから。そういう時はわたしを頼ってください。あ、でも……その、みなさんの前では……」

「芦川さんとは呼べないですよね。ヒカリくんとかでいいですよ」

「じゃあ、わたしのことはどうぞ、みくるちゃんと呼んでくださいね」


 満面の笑みで、朝比奈さんはガッツポーズした。超かわいいな。かわいいを溶かして固めた可愛いって感じのかわいいだな。あまあまふわふわ映えスイーツというより、フルーツが飾られたシンプルだけどまったりとしていて甘酸っぱいプリンパフェのような、そういうきゅんとくる可愛さがある。声まで甘い。耳が喜んでいる。こんな声でヒカリくん、なんて呼ばれたら新しい扉が開きそうだ。

 うん? しかし名前呼びか。それはなんだか危険な気がするな。急に親しげに呼び始めてみろ。キョン辺りに「どうしてそんな間柄なんだ」と詮索され、羨ましがられてしまうだろう。

 拗ねているのもきっと可愛いだろうけど、俺はキョンに嫌われたくはない。さっき古泉にパワーバランスの話をしたばかりだし、不用意に仲良しオーラは出さないでおこう。


「うーん、それはやめておきます。ファンにやっかまれそうだ。俺のこともやっぱり、芦川くんでお願いします」

「そうですか……でも、はい。わかりました。あれ……? 承認……」


 朝比奈さんは耳に手を当てて、きょとんとした顔で俺を見る。さっきからよく見る顔だな。今日という日をきょとん記念日に制定できそうなくらいだ。朝比奈さんが話始める


「……あのう、さっきと言ってることが違っちゃうんですけど……えっと」

「構いませんよ。何か言えることが?」

「はい、芦川さんの出来ることなんですけど……今、自覚しているのは“いくつ”ですか?」

「いくつって、そんなレベル99チート転生みたいな……俺は単にこれから先のことを知ってるだけで、長門には維持とか補正とか言われましたけどなんのことやら」


 長門のやつは俺に説明してくれなかった能力。未来側としては、俺が自覚していた方が助かるんだろうか。とはいえ、生まれてこの方特殊能力なんて持ったことがない。同じ後天的能力者である古泉なんかは「わかってしまう」とかでやり方を把握できたみたいだが、俺の方はうんともすんとも言わない。古泉にとっての神人みたいに、俺もやるべき時と場所が揃わないといけないんだろうか。


「維持と、補正……いや、制御、凍結……だったかな。すみません、長門語は難解だから……さっき言ってたのは誘導とかだったかもしれません。もしそれを異能みたいに言うんだったらって話ですけど」

「そう……ですか。わたしたちはいくつかのあなたの能力を“危機回避”と総称しているみたいです。危険なことに気づいて、そこから逃げる力。だから……お願いします。これは“危ない”という気がしたら、心の声に耳を傾けてください」


 大層真剣に言うので、俺は少しだけ怯んだ。初対面の俺の安否で、ここまで泣きそうな顔になる人もいないだろう。もちろん、未来側としては「いてもらわないと困る」からってのもあるんだろうが。

 それにしたって朝比奈さんときたら、本当に澄んだ心の持ち主だ。きれいな顔がくしゃっとなって……あ、俺が答えずに黙ってるから本当に泣いちゃいそうだ。はやく返事をしないと。


「ああ、まあ、はい。それはそうします。安心してください。なにせ俺はビビりですし、戦ったりなにか操ったりができるわけでもないんで」

「ですよね。うん……私も詳しいことは言えなくて。でも、そうです。芦川さんは、そういうタイプじゃないみたい」


 やっぱり後方支援型、それも微弱バフ程度が俺のやれることか。現状維持とか回避とか、俺って事なかれ主義を叱られてるわけじゃないよな? 言われなくても多分、俺は自分の嫌がることは極力しない性質だから大丈夫だろう。キョンには悪いが、刺されそうになるとかそういう酷い目には遭いたくないし、遭う予定はない。

 いくつかあるんだろうか、俺の能力。あんまり強そうじゃないんだよな。神様がいらないスキルを纏めて置いておく倉庫みたいだ。まあ、でもいっぱいあるってだけで十分それらしくはなってきた。

 タイトルをつけるなら「涼宮ハルヒの憂鬱世界に召喚されたら属性乗せすぎな件」だろうか。うーん、早期連載終了しそうな感じだな。


「あ、最後に一つだけ聞いていいですか?」

「はい、なんでしょう」


 小首をかしげる朝比奈さんが、俺を見上げる。


「俺が男だったらアリでしたか?」

「禁則事項です」


 ウインクする彼女に思わずドキッとする。心は女のつもりなのに、いたずらっぽい笑顔にくらくらした。柔軟剤か、香水か、彼女が去った中庭にほのかに花の香りが広がる。うーん、やっぱり朝比奈さんってめちゃくちゃかわいいな。

 原作の再現に思わず夢心地になっていた俺は、昼休み終了のチャイムを聞き慌てて教室に滑り込んだ。あのフリができて本当に良かった。当の本人からしたら、鉄板ネタを何度もやらされるのは心地よいものではないかもしれないが、申し訳ない。俺は俺の楽しさを優先してしまった。すまない。でもめちゃくちゃ良かった……。


 そこに、声がかかる。


「五分前行動。先生がまだ来てないから良かったけど」


 斜め前の席に座る朝倉が振り返った。俺はへらへらと謝罪をしようとして、また強烈な違和感を覚える。朝も感じた違和感だ。その違和感が内側から俺の胸を叩いて、気づいてほしいと叫んでいる。気になるのはやっぱり、教室に入った時の、この視界。

 キョンの隣の席が空いていたことで、違和感の正体について今朝はすっかりそのことだと思い込んでいた。実はそれは早計で、そこにこそ大きな見落としがあるのではないか。不思議とそんな気がして、心臓が早鐘を打つ。

 それが一体なんなのかと、俺は注意深く教室内を見渡してみた。席順は……うん、設定資料集の通りだ。アニメの1話となにも変わりない。

 ただ、何故だろう。たったそれだけのことが、なんだかすごく「嫌な感じ」だ。「逃げたくなるくらい」の「危険」なことが起きている気がする。


「ねえ、聞いてる?」


 ど、と冷や汗が噴き出した。

 小首をかしげる朝倉が、俺の斜め前の席を陣取っていることに、俺は今更になって気づいたのだ。

 原作でもアニメでも「初期はそう」だった。そこに朝倉がいるのは「普通だった」から、そこになんの疑問も抱けなかった。


 だが、今は「アニメ1話と席順が同じでいいはずがない」んだ。


 どうして失念していた? このクラスは月に一度席替えをしている筈なのに。本当は、この時点でキョンとハルヒは窓側の席に移っていなければおかしい。

 では、なぜこんなことになっているのか。席順に意味はないかもしれない。ただの気まぐれ。偶然そうならなかった。いや、それはない。席替えをすることはハルヒの意思だ。キョンと二人で窓際の後ろに行きたかったんだ。だから、わざわざ対抗しないことにはこの結果にはならない。席替えをしない、なんてことにはならない。しかも、なぜ転校生をキョンくんの横に座らせないといけないのか。ハルヒが望まないことが、二連続で起きているのか。

 そんなこと、答えは明瞭じゃないか! くそ、と俺は心中で悪態を吐く。

 ──朝倉涼子。長門と同じヒューマノイド・インターフェース。その、急進派。そして、このクラスの委員長。

 彼女が言い出さなければ、否定すれば、席替えなどがあるわけもない。

 原作ではキョンを襲ったり長門を抉ったりした彼女が、面倒見のいい笑顔で優しげに俺を見ている。転校生の俺に声をかけるのは、委員長としてはまったく不自然じゃない。でも、お前が俺の斜め前に座っているこの状況が、既に十分不自然じゃないか……! なにが「長門が話をつけて朝倉に頼み込んだのか?」だよ。軽率だった。能天気だった。自分にとって都合のいいように事実を捻じ曲げて受け取った。

 朝倉だって長門と同じように俺が昨日来ることを知っていたんだ。そして、少し前から俺が来ることに備えていた。ハルヒが情報操作して席替えの際に窓際に移るという出来事を、そもそも席替えすらなかったように書き換えたのだ。変革よりも長期的な観測を望んでいるはずの情報統合思念体に対して、朝倉は既に一手目を動かし始めている。

 なぜこんなことをしたのかはわからなくても、やっている以上無意味ってことはないくらいに大胆な行動だ。たしか、席替え後はキョンたちと朝倉の席は今よりも遠くなる。その上目に付きづらい窓際の一番後ろともなればほとんど二人の世界だ。だからハルヒは席替えをしたかったのだし、きっとそこに朝倉の狙いはあるはずだ。

 朝倉の隣には国木田、その後ろには俺で、隣がキョン。キョンの後ろにはハルヒと谷口。この並びならば、なんとなく会話には入りやすい。突然人気者の委員長が声をかけていてもおかしくない。転校生の俺がいるなら、猶更だ。


「気を付けてね」


 しずかな、しずかな声。

 わざわざ言葉を切って、朝倉はそう言った。深く考えなくてもわかる。古泉や朝比奈さんと話した今ならば。恐らく、朝倉は俺の反応を窺っているのだろう。俺の反応によって情報を得て、未来を動かそうとしている。嫌でも自覚する。朝比奈さんが「いてもらわないといけない」というのは、対朝倉に関して。いつ帰るか言えなかったのは、きっとこの出来事如何で分岐が起きうるから。そして、長門の意図もようやくわかったぞ。

 長門は朝倉が俺に目をつけると読んで、俺に危機感を持たせるため、古泉と朝比奈さんが俺に接触してくる今日を選んで転校させた。三つ巴ならぬ四面楚歌状況を作り上げるために。今日でなければハルヒは俺を気にしないかもしれない。古泉とも関連付けない可能性がある。そうすると古泉は俺を試したりしなかっただろうし、そのポジションにいなければ、もしかしたら朝比奈さんが俺に能力を開示できなかったかもしれない。

 そして、朝倉もこんだけ色んな組織がピリピリしている今日だと大きく動けないから、俺の反応を見るだけになってる、って感じか。俺を殺しても長門陣営にとっては見ようと思っていた番組の録画失敗程度のダメージにしかならない。だが朝比奈さんは困るらしいので、頼むから早々に見限ってほしい。


「やー、ごめんな。いろいろ見て回っちゃった」

「そうなんだ。良かったら放課後、案内しようか?」


 これは、うまいアシストが既にあるから躱せる。胃から食べたものが全部出てきそうな緊張感の中、俺はやっぱり笑うしかない。古泉が放課後に約束を取り付けてくれていて、助かった。少なくとも嘘を言うわけではないので、後ろめたさはにじみ出ないだろう。


「いや、放課後は約束があってさ。男同士でしか話せないこともあるかもしれないから」

「そう、残念。部活は決まった? もし興味がある部があれば、一緒に見学に付き合うわ」


 これもだ。あまりにもうまい具合に話が回っている。偶然にも俺が朝比奈さんに聞いた部活動の話が、ここで効いてくるなんて。


「ありがとう。頼りになる委員長なんだな。でも、大丈夫。候補はあるから」

「一人で、だいじょうぶ?」


 妙にゆっくり、言う。


「紹介してもらったり、勧誘してもらったんだ。その人たちと見学する予定かな」


 しばしの沈黙。全財産をつぎ込んだギャンブルでもしているような気分だ。


「……そっか。それならいいの」


 朝倉は前に向き直る。ちょうど、教師が扉を開いた。俺は冷や汗をかきながら着席し、みんなが鞄を掛けている机横のフックに、どらやきの袋を引っ掻けた。

 ひとまず、朝倉と放課後二人きりになりそうな状況からは脱出できたみたいだ。マジであるじゃん。危機回避。偉いぞ俺の能力。そして朝比奈さん、古泉、長門、感謝しかない。


「芦川。お前、体調悪いのか?」


 横から声がかかる。キョンだ。意外とよく見ていてくれるんだな、と嬉しくなる。テンションが急上昇して、高低差で壊れそうだ。


「あえ? 全然。心配してくれるの? キョンくん」

「お前まで俺をそう呼ぶんだな。ならお前もヒカリだ」

「え、え、え……い、いきなり名前?」


 びっくりした。でもまあ、キョンくんなら名前で呼ばれてもいいだろう。嬉しいし。いや、ダメかな。ダメかもしれない。だって恥ずかしいし! なんか転校早々すごい仲良しみたいじゃん。

 いや恥ずかしいとかじゃないわ。そもそも、キョンくんはこの時点ではハルヒを名前で呼んでいない。昔から知り合いの国木田ですら苗字呼びだ。もし俺だけ名前で呼ばれれば、ハルヒはきっと嫉妬するだろう。訂正しなければ。惜しいけど。それに、俺も今朝一回ハルヒって呼んでいるところを本人に聞かれてしまったし、そっちも涼宮に戻しておくべきだな。


「妙な愛称で呼ばれるよりはいくらかマシだと思うが」

「照れちゃったよ……」

「気色が悪い。わかった、苗字で呼べばいいんだろ」

「ありがとう。俺はキョンくんって呼び続けるね」

「こいつ……」


 こんなもんでいいかな。緊張の糸がほどけていくような安堵感に包まれて、俺は溜息を吐く。重大な話し合いの後に朝倉との駆け引きだ。疲れて、ちょっと眠くなってきた。


「アンタたち、うるさい」

「ああ、ごめん涼宮」

「……なによ」


 ぺこ、と頭を下げた俺をハルヒは鬼か般若かという形相で睨みつけた。原作のこの時点って、ここまでこいつ機嫌悪くなかったと思うんだけど。そして俺って学生時代、こんなに授業態度が悪かったっけ。思いつつ、欠伸が止まらない。

 午後一の授業を居眠りで過ごした俺は、当然その時に何が起きたかはわからない。いや、わかっていたとしても、斜め後ろも斜め前も、表情を見ることは出来なかったんだろうけどさ。


 ──かくして、俺は重大な地雷を一つ、踏み抜いた。

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