#3 錯覚

「ごめん!ちょっと遅くなる!」


友達からのメッセージには、端的な謝罪と、それに続けて遅刻する旨だけが記されていた。彼女の遅刻は今に始まったことではない。今更、謝意を告げなくても、彼女の事は受け入れてる。そんな事より私は、もっと別の違和感がある事に気が付いていた。




今日は遊ぶ約束なんてしてない。







彼女は、詩織。同じ大学に通っている、普通の大学生だ。いや、少々、時間にルーズかもしれない。あと、俗に言う天然というカテゴリーの人間だ。つまり、私にはない世界観の持ち主だ。



詩織との出会いは、食堂だった。


「ねぇ、お昼一緒に食べてもいい?」


詩織から投げられた、警戒の無いその言葉が、私たちの始まりだった。

しかし、その時の私は、騒々しかった食堂の音が一瞬で消え、目が見開いたのを覚えている。


私は、雑踏の中に身を置くことに抵抗はない。中学・高校と1人で食事をしている私に話しかけてくる人などはいなかった。まぁ、それも当然である。私も逆の立場であれば恐らくはそうしてるだろう。だから、とは言わないが、騒々しさと寂しさに慣れている。

私としては、必要であれば会話はする心持ちでいたし、会話を拒むわけではなかった。ただ、必要最低限で満足していた。


そんな生活が染み付いてしまっていたのか、詩織に話しかけられた時、思わず口にしたのは、


「…どうぞ。」


の一言だけだった。食堂の騒音をただ俯瞰的に耳に流し入れながら食事をしていた私は、不意に自分に向けられた言葉を上手く受け取る事が出来ずにいた。

平静を装いつつ驚嘆している私に構わず、詩織は次々と言葉を投げかけてくる。


「基礎心理学の講義にいましたよね?」


「あっ、私、詩織って言います。さっき、講義にいるのを見て、気になったので来ちゃいました。」


「午後は、講義入ってます?」


「良かったらお茶しませんか?それとも、カラオケとか行きます?」


答える隙など一切なく、立て続けに寄せられる荒波に、私は完全に飲み込まれていた。


「午後は、私も予定はないので、お茶くらいなら。」


「ほんとですか!?行きましょう!!」


ここまで、約2分。人はこんなにも容易く、出会ったばかりの人と遊びに行く約束ができてしまうものなのだろうか。私は、今までに味わったことのない感覚に浸っていた。その後は、お互いの、いや、ほとんど詩織の、出身地や学部、高校生時代の話などを話しながら食事を済ませた。この日は何を食べたのかも覚えていない。互いに自己中心的な食事を済ませた私たちは、大学内を後にした。


大学を出てから気が付いたが、私達はこの後の行先を決めていなかった。大学を出てから30分は歩き回っただろうか。優柔不断が2人も揃えばこれくらいは当然の結果である。結局私達は、雰囲気の良さそうなカフェの外観巡りをした後に近くのファミレスへと入った。ファミレスに着いてからも詩織の話は止まらず、詩織は特大のパフェを頬張りながら楽しそうに話していた。




この日を境に私は、詩織と街に出歩くようになった。詩織は、この不自由な世界の歩き方を熟知しているかのように、私をいろいろな場所へ連れ出しては、特殊な楽しみ方を教えてくれた。例のノートを見て以降、もう一度人を信じてみようと思っていた私にとって、彼女の好意は泣いている子供に向けられた母親の言葉の様に、温かく優しいものだった。おかげで私少しづつ不器用ながら笑うようになっている事を自覚していた。彼女の持つ世界観がそうさせている部分もあるが、なにより、詩織といる時間が楽しいと感じていた。詩織に会えることが嬉しいと感じていた。


大学に入学して1カ月が経とうとしていたある日、いつものようにお誘いのメッセージが届いた。


「GWは海に行こ~♪」


相変わらず、こちらの予定など気にせずに送られてくるメッセージを見て、私は不覚にも口角をあげていた。


「まだ海に行くには早いんじゃない??」


「海が私を呼んでいるのだっ!!」


「…詩織が呼ばれに行ってるだけじゃない?(笑) 分かったよ。いつ行くの?」


「【果状】きたる5/4 駅前の広場で待っているのだっ!!」


「来週の土曜日ね。予定空けておくよ。」


詩織に返信を返し、コーヒーを口にする。詩織と遊ぶようになってから、この部屋でコーヒーを飲む事も随分と減った。久しぶりの香りに心身ともに満たされながら大学生活のスタートを振り返っていると、ふとノートの存在を思い出した。あれ以来、本棚で肩身が狭そうに本に挟まれながら、静かに並んでいる。最初の数ページを読んでいた頃は、書き連ねてある言葉が伝える感情をどこか心地よく受け取っていたものだが、詩織と出会って以来その感情が薄れ、ついには手に取る事がなくなってしまっていた。


私は、私の気構えを変えたあのノートを手に取り、彼女の物語を読み返す事にした。特に理由などはないが、久しぶりの遅緩した時間の流れを満喫するのに丁度良かったのだろう。手に取ったノートは、思いのほか懐かしい物に思えた。


彼女の声を聴くのは2度目であるにも関わらず、彼女の悲痛な叫びは、1本の槍の様に私の消えかけていた心の側面を突き刺した。彼女の筆圧が私の心を抉り取っていく。彼女の再叫に心地良さは残っておらず、苦痛だけが頭の中を支配する。


彼女の脈動を改めて見た時、私は鮮血の沼の中に引きずり込まれていくかのような感覚に苛まれた。その苦しみに底など無く、永遠と飲み込まれていく。踠けば踠く程に、息が出来なくなる。


酸欠になった肺が耐えきれなくなったところで、私は我に返り大きく息を吸い込んだ。額には、春の終わりにはまだ早い大粒の汗が滲んでいた。


気分が悪くなった私は、コーヒーを飲み干し、ベッドで横になる。彼女の手によって絞り出された涙が、目尻から顬に向けてジリジリと流れていく。その日私は、気を失うように眠りについていた。


カーテンの隙間から差し込む朝日に気が付いた私は、数秒して自分が寝ていた事を認識した。更に数秒して、講義がある事に思考が追い付く。慌てて身支度を整え、大学へと向かう。高校生の時から使っている錆付いた自転車も持ち主の緊急事態にガシャガシャと音を立てながら精一杯タイヤを転がしている。途中、携帯が鞄の中で振動している事には気が付くはずもない。信号待ちでどこかで会ったような猫と眼を合わせた後、通いなれたファミレスを横目に風を切る。曲がり角を曲がり再び信号と対峙する。いつもは快く通してくれるのに、こういう時だけは融通が利かない。秒単位でスケジュールを遂行する私は、携帯で時間を確認する。いくつかメッセージが届いているが、そんなのに構っている時間などない。時間を確認すると、講義開始まで12分37秒。今のペースであれば開始40秒程前には席につける計算だ。


携帯をポケットにしまうとようやく信号が私を解放したため、ペダルに足をかける。華麗なスタートダッシュを決めるべく右足を踏み込む…。しかし、私の右足はペダルを半回転させた所で動くことをやめた。5秒程遅れて、右足の緊急停止信号が脳へ伝わる。


「今日は、日曜日だ……。」


安堵、怒り、混乱、羞恥と様々な感情が同時に湧き出してきて、寝起きの私は処理しきれずに信号の前で片足をペダルにかけたまま時が止まったかのように立ち竦んでいた。私の目の前には再び無表情なヤツが道路の反対側からこちらを見ている。その手前を時々数台の車が遮り、気が付くと楽しそうに駆け出しているヤツが私を帰路に就くように促した。


「はぁ…」


呆れたようにため息をついた私は、右足に最低限の力を込め来た道を引き返す事にした。




家に着いた私は、萎んだ風船のように溜め込んだ空気を吐き出しながら、ベッドに倒れ込んだ。

すると、ポケットで誰かが私に声を掛けている事に気が付いた。



「ごめん! ちょっと遅くなる!!」


それは詩織からのメッセージだった。詩織が待ち合わせに遅れてくるのは毎度の事なので、今更謝らなくても気にしていない。そんなことより、私が気にしていたのはもっと別の違和感についてだ。


今日は、遊ぶ約束なんてしていない。


きっと送信相手を間違えたのだろう。待ち合わせに遅れているようだし、昨日の私のメッセージを間違えて開いてしまったに違いない。


「今日は遊ぶ約束なんてしてないよ?」


「何言ってるの??(笑) 今、電車乗ったから、あと15分くらいで着く!!」


どうやら、寝ぼけていたのは私だけじゃないらしい。

詩織のメッセージのせいで気が抜けてしまった私は、ベッドの上で目を閉じた。次第に呼吸が落ち着いてきて欠伸をした私は、睡眠の続きを楽しむ事にした。

もうすぐ眠りに就けると思っていた頃、私の携帯が有意義な時間を妨げるように振るえた。片目だけ薄っすらと引き延ばしてメッセージを開くと、送信者は詩織。

またか、という思いと、多少の申し訳なさを胸に携帯を握りしめて眠りに就いた。






<詩織>

ごめん! ちょっと遅くなる!!


<私>

今日は遊ぶ約束なんてしてないよ?


<詩織>

何言ってるの??(笑) 今、電車乗ったから、あと15分くらいで着く!!


---≪ここから未読≫---

<詩織>

音声通話 [通話時間 2:47]

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