第34話

 福岡発札幌行きの便の搭乗開始アナウンスを聞いて、私と日暮ひぐらしただしは椅子から腰を離した。

 ゲートを通過し、ありのようにおおよその一列をなして人の流れに乗る。


「それにしても、遠いな」


「そうね。でも、日本列島の南から北へ縦断じゅうだんするといっても、ここから札幌までの空路よりはここまでの航路のほうが時間がかかるから、感覚的には――」


「いや、そうではなく、待合室から飛行機までの話だ」


 日暮匡が何を言っているのか分からなくて逡巡しゅんじゅんした。

 いつカノンからの接触があるか分からず、私は気を張り詰めている。立場が違えど、カノンの接触を待つのは彼も同じはず。

 だから私は、いつまで経ってもカノンが姿を現さないことに、日暮匡はしびれを切らしているのだろうと考えた。


「……そう? 札幌に飛行機で行くのは初めてだけれど、こういうものなんじゃないかしら。前に乗った国際線のときは建物から出たりはしなかったけれど、国内線の乗客の少ない便なんかは徒歩やバスで飛行機まで移動なんてことはよくある話よ。……私も詳しくは知らないけれど」


 そう言いつつ、先ほどの考察に別の可能性を見いだす。

 日暮匡は単に飛行機の経験が少ないために、慣れない手続きや経路を辿ることで時間を長く感じているのかもしれない。

 そんな彼に突然カノンが声をかけたら驚くだろう。私の予想では、カノンは私に手をかける前に先に日暮匡単独に接触してくるはずだ。日暮匡が念入りに私のことを殺すなと言っていたから。

 もちろん、私自身は突然撃たれたり刺されたりする可能性を捨てず警戒はおこたらない。


 階段を降りると屋外に出た。

 南中をひかえた陽はすでに高い。時期が時期だけに、炎天下と言っても過言ではない。いや、ずっとここに立っている人にしてみれば、これは完全なる炎天下だ。

 夏日か真夏日か、屋外に出たばかりの身の体感で計ることは難しい。


 私の前に並ぶ搭乗客たちが女性係員に誘導され、列を二手に分けられる。

 こんなことは初めてだ。胸を締めつけるような違和感がある。

 バス二台で飛行機に向かうことなんてあるのかしら。私が知らないだけで、あるのかもしれない。

 でも、バスを使って移動するのは飛行機が小さく乗客数が少ない場合ではないの?

 私は自分の乗る飛行機の規模を再確認したい衝動に駆られた。

 しかし安全が保証されない状況で一点に視線を集中させるのは危険だ。いまは周囲に最大限の警戒を示さなければならない時。

 カノンはまだ接触してきていないが、もう福岡を後にするまで数刻の猶予しかない。

 目立ちすぎるから飛行機内で接触してくるとは思えない。

 まさか、私たちの後ろの席を確保している?

 そんなはずはない。私たちはすでに後ろの席が埋まっている席を選んだ。それに、後ろの席を取るというなら理の後ろを選ぶはず。

 単純にまだ私たちを見つけられていないだけ?

 あるいは、カノンが探偵・佐藤優子たる私を見て距離を取っている?

 さっきの違和感は虫の知らせかもしれない。

 二台目のバスが罠なのか。

 それはどっちの罠? カノンか、さとるか。


 思考すれば思考するほど焦りが出てくる。

 もはやカノンが日暮匡に単独接触する状況など作れるはずがない。となると、カノンは直接、事に及ぶ可能性が高い。

 ついに私はバスのステップに足をかけた。

 一段、二段と登り、バスの中を素早く見渡す。暗い雰囲気。皆どこかうつむき加減なのに、妙に多くの視線が突き刺さっている感覚を覚えた。


 私はとっさに日暮匡のそでを引いた。彼が奥の座席に進もうとしていたからだ。彼はいい。しかし私が危険だ。

 私はステップ右側、つまり入ってすぐの座席に座った。

 後ろの座席の人間の動く気配と、後から乗り込んでくる乗客に最大限の警戒をして、日暮匡が隣に座るのを待った。


美咲みさき、そこは優先席だ。奥の方へ行こう」


 こいつ……。


「匡さん、用心するに越したことはないわ。何かあればすぐに外へ出る必要がある。少しでも扉に近いほうがいいわ」


「なるほど……」


 なるほど、じゃないわよ。

 能天気なの?


 いけない。苛立いらだちは判断力をにぶらせる。警戒に穴が生じてしまう。


 私は強く意識して平静さを取り戻し、正面と背後に傾注けいちゅうしながら、日暮匡にたずねてみる。

 もちろん、彼からの情報に期待はしていない。


「ところで、あなたの言っていた探偵さんとはいつ合流するの?」


「彼には我々の便名を告げてある。飛行機内で向こうから会いに来てくれるそうだ」


「そう……」


 やはり収穫はなかった。

 飛行機内で合流するということは、二つのバスのどちらかには乗っているということで、もしかしたら……。


 バスの扉が閉まり、景色がゆっくりと流れはじめた。

 小刻みな振動に揺られ、不安感が増す。


 そのとき、ふいに日暮匡が携帯電話を取り出した。画面を見ながら操作した後、それを顔の横に構える。


 突然、車内にとある音楽が鳴り響いた。

 それは誰しもが耳にしたことがあろうという、親しみ深いクラッシック音楽。

 しかし、いまの私にとっては戦慄せんりつを呼ぶ旋律せんりつ




 ――パッフェルベルのカノン。




 瞬間、私は総毛立った。

 車内の空気が変わった。

 濃度の濃い殺気が一瞬でバス内を満たした。

 薄々は感じていたし、疑っていたが、この瞬間に確信した。ここにはただの一人も一般人はいない。

 偶然なんてあり得ない。偶然に客の一人がカノンを着信音にしていて、日暮匡が電話をかけるタイミングでその客の携帯電話が鳴ったなんてことは、絶対にない。


 ここで、日暮匡が音源を探して腰を上げた。

 後方へ振り返る。


「かくほーッ!」


 乗客たちがいっせいに立ち上がり、一点を目指して飛び込んでいく。

 そこにカラカランという硬質な音が床に転がった。

 そこから勢いよく白煙をき出して、視界を奪う煙が車内を侵食しはじめた。


「取り押さえろ! 絶対に逃がすな!」


 黒い人影が、窓から飛び降り、全速力で駆けていった。


「大丈夫です。外で待機していた人員に任せましょう」


 よく知った声が耳に飛び込んできた。

 本当に大丈夫だろうか? カノンと思しき人物は建物とは反対方向へ走っていったが。

 まあ、彼が直接追いかけないのなら、外の人員配置に自信があるのだろう。


 再びカン、カランと音がしたが、さっきより遠い。

 窓枠に詰まっている刑事たちの頭上から白煙の発生源が車外へと投げ捨てられたのだ。

 そして、スーツ姿の男が白い世界から顕現けんげんした。


「貴様、船橋ふなはしさとる!」


 日暮匡が声を荒げた。

 うろたえている。

 私はどうすべきか。

 私の正体はまだ日暮匡にはバレていない。それがいつになるかは理の言動しだいだ。

 それ以前に、私はまだみさき美咲みさきである必要はあるだろうか?

 日暮匡はもはやカノンを釣り上げるえさとしての機能を失った。もう泳がせておく意味がない。

 日暮匡が殺人犯であることは、ここにいるすべての人間が知っている。

 帆立ほたて議員の圧力によって事件に手出しができないといっても、この場で真犯人を捕まえてしまえばその限りではないはずだ。

 日暮匡はここまでだ。

 ならば私も、これ以上、岬美咲である必要はない。


「船橋理、貴様、カノンのことを知っていたのか⁉」


「ええ、まあ」


「美咲、こいつは――」


 知っている。

 船橋理は探偵で、私の旦那だ。


 日暮匡は逆上すると何をしでかすか分からない。

 彼がしでかした殺人の動機はおそらく痴情ちじょうのもつれだ。彼はひどくプライドが高く、そして、かたよった価値観を持っている。私が正体を明かすより先に拘束すべきだ。

 私は日暮匡の腕が座席の腕置きの上に横たわっているのを見つめながら、バッグの中に手を突っ込んで、底敷きの裏に忍ばせていた手錠てじょうに指をひっかけた。


「いいかげん、邪魔をするのはやめにしてもらえませんかねぇ。ええと、岬美咲さん。もう、いいでしょう?」


 理! この馬鹿、何を言うつもり⁉ 

 理は私がまだ邪魔すると思っているの? 私はそこまで馬鹿じゃないわ。ここは先に日暮を拘束するところよ。

 ほら、日暮匡の眼がいぶかしい色に染まっているじゃないの。

 理が何をしようとしているのか、私にははかりかねる。

 そのとき、日暮匡の携帯越しに、低音の野太い声が叫んだ。


「ひぐらしィッ! その女から離れろォッ!」


 日暮匡の驚いた顔が、とっさに私へ向けられる。


 私は意識的に表情を変化させ、彼の視線を顔にとどめようとした。

 そして、下を見ることなく感覚頼りに手錠を打ち下ろした。


 ――カチャリ。


 手応えはあった。

 しかし硬い。人の腕ではない。

 見るまでもなく悟った。私が逮捕したのは、黒い樹脂でできた椅子の腕だった。


「どういうことだ、美咲……」


 日暮匡が立ち上がる。

 そこへ理が手を伸ばすが、日暮匡の腕がふところに入ったのを見てすぐに手を引いた。

 日暮匡は黒の太いボールペンらしきものを振るった。黒の先端から銀色の鋭い針のようなものが飛び出している。


 見落としていた。


 私がホテルで彼の荷物を調べたとき、ただのボールペンだと思って気に留めなかったものだ。

 いま思えば、なぜボールペンなんか持ち歩いているのかと怪しむべきだった。


 日暮匡は私に対しても警戒心を持ってしまった。

 潮時しおどきね、と言いたくなるけれど、言ったら笑われる。潮時というのは、好機という意味だから誤用になってしまう。

 ともあれ、私は理や刑事たちと協力して日暮匡の身柄を確保すべきと判断した。


「これはこれは、とんだ名探偵さんだこと。県警から何人の助っ人を借りたのかしら。それでいてこの体たらく。ターゲットには逃げられるわ、殺人犯には凶器の抜刀を許すわ。何より、私の作戦を完全に台無しにしてくれたわね」


 理に憎まれ口を叩くとたかぶる私がいる。

 私は完全に佐藤優子に戻っていた。

 しかしこの余裕じみた発言は、明らかに日暮匡をあなどっているからこそ出たものだ。

 このときに私がすべきだったことは、日暮匡にとびかかって全力で取り押さえることではないか、そう後悔したが、もう遅い。


「あの着メロが鳴ったときに彼らの殺気が漏れてしまって、それをカノンに感づかれたんだ」


 理は後方を指しながらそう言った。

 私から見れば、バスに乗った時点で怪しかった。ずっしりと重い空気がバスの中に沈殿ちんでんし、堆積たいせきしていた。もっとも、日暮匡は気づいていなかったようだが。


 理は日暮匡に視線を向けて、続けて口を動かす。

 私には、その理の眼が得物を狙うネコ科の眼に見えたが、彼の本質は毒を注入しながらめ上げる蛇に近いかもしれない。


「日暮さん、あなたは失態を犯したと思っているでしょうけれど、当のカノンさんはあなたに感謝していると思いますよ。こうして罠に気づくことができたのだから。ま、いまごろは外で待機していた刑事たちに捕まっているでしょうけれどね」


「どうかしら。あの武装の様子からして、一筋縄にはいきそうにないけれど」


 余計なことを言ったと思った。

 理がいると、どうしてもつい口を挟んでしまう。


「まあ、それはいなめないけどな。でも、いちばんの大失態を演じたのはおまえだろ。おまえの顔はカノンに知れていた。それはさっきの携帯電話越しの怒声から分かるよな? カノンは日暮さんとおまえが一緒にバスに乗り込んだ時点で警戒心を極限まで高めたんだ。だから逃亡の準備を許し、さっきみたいな迅速な逃亡を可能にできたんだ」


 それは結果論みたいなものだ。私は理がこんな罠を張っているとは知らなかった。

 私と日暮匡の周囲の状況が違っていたら、カノンは日暮匡と接触する機会を狙って私たちに張りついていたかもしれないし、あるいは私を排除しようとどこかのタイミングで私に接近してきたかもしれない。

 そうしたら、私はカノンを捕まえられていた自信がある。


 そう反論したかったけれど、その反論はこの場で口にするには長すぎる。だから言葉をグッと飲み込んだ。

 とにかくいまは、日暮匡を拘束しなければならない。彼は凶器まで手にしているのだ。


 そのとき、理の背中に声をかける人がいた。落ち着いた声。私の耳にも覚えがある声。福岡県警の刑事の声。


夫婦喧嘩ふうふげんか大概たいがいにしてくださいよ……」


「そう見えるのも詮無せんなきことだが、この私と美咲はまだ夫婦ではないのだ」


「は? あんたではなく、船橋夫妻に言ってんですよ」


 少し吹き出しそうになるが、こらえる。理は笑っていなかった。


 日暮匡は少しの間、固まっていた。

 いまがチャンスか。

 手錠を椅子のアームの前方から引き抜き、脚に力を込めた。

 だが飛びかかる寸前で、日暮匡の視線がこちらへ移された。


「美咲よ、君の名は本当に岬美咲だろうな? よもや偽名ということはあるまいな……」


 なにをいまさら、と思いながら、私は営業スマイルで自己紹介をした。


「私、本名は佐藤優子といいます。岬美咲というのは偽名です。お察しのとおり、あなたの私に対する認識はすべて、私が用意した偽物です」


「なん……だ……と……」


「佐藤優子もいまでは本名じゃないけどな」


 即座に理がつけ足した。蛇足だそくだ。やっぱり蛇だ、こいつは。足のある蛇だ。


「私はエージェント・ネームとして旧姓を名乗っていますが、本名は船橋優子と申します」


「あ、そう……」


 日暮匡は思いのほか静かだった。

 だまされていたことを知り、ショックで放心しているのだろうか。それとも、現実を受け入れられないでいるのか。

 なんにせよ、今度こそ日暮匡を捕らえるチャンスだ。

 私は再び脚に力を込める。


 しかし次の瞬間、私はの体は萎縮いしゅくしてしまった。

 ギロリ、と日暮匡の眼が私を捕捉した。

 その眼には、見る者を得体の知れない恐怖で包み込む黒い光が宿っていた。

 それはまるで、地獄の底でたぎる釜の中に、怒り、憎しみ、恨み、そういった感情を詰め込んで、煮詰めてできたものを、氷でできた眼球の中に詰め入れたようだった。


「貴様……騙したなァアアアアッ!」


 私は脚に力を入れたまま、飛びかからずにこらえた。

 私が日暮匡に遅れを取るはずがない。ただ、いまの私は少しばかり気後きおくれしている。

 見えない手に両手で背骨を握りめられている感覚。「嫌な予感」と名づけられた卵にヒビが入り、いまにも孵化ふかしようとしているような気配。


「あなたこそ、人を殺したことを隠していたでしょう?」


 何を言えばいいのか分からなかった。

 理と口論するときのような普通の憎まれ口を叩いてしまう。

 それか悪手かどうかもわからない。


「あたりまえだ! 隠していなければ、この私を信用するはずなかろう」


 当然だ。いつもの私なら、その返答を見越した上で、一つ先の発言をしたはずだ。

 やはり私は気後れしている。

 いや、相手は理じゃない。理じゃない相手に一つ先の発言をすると会話がみ合わなくなる。

 だからさっきの私の発言は間違いじゃない。


 いや、そうではなく、あの発言が必要だったかどうかが分からない。

 駄目だ。私は焦っている。もはや混乱していると言っていい。

 制御の効かない私の口は、頭に浮かんだ言葉をろ過することなく垂れ流す。


「日暮さん。私は最初からあなたを信用していませんでした。私は基本的に人を信用しないけれど、それを抜きにしても、口調から推し量れるあなたの人格はとうてい信用するに値しない愚劣ぐれつなものでした。もちろんそれは、あなたが人殺しだと知らなかったとしても同じことです」


 日暮匡の眼の色が、さらに深くなる。

 まだ上があったのかという絶望が私を襲う。

 ただの眼なのに、ただその眼を見ているだけなのに。


「こぉんの、おんなアァ! 殺す。殺してやるゥウウウウウ!」


 日暮匡の恐ろしい眼は、明らかに私を動転させた。

 だって、こんなの仕方ないじゃない。

 女に騙されたくらいで、あんなにひどい憎しみを瞳に宿すという事実に驚愕したんだもの。

 たとえるならば、家族や恋人、親類、友達、恩師に至るまで、ほんの少しでも大事と思える人すべてが拷問された挙句に生きたまま焼き殺され、所有している財産や宝物をすべて破壊し尽くされた人の眼だった。


 日暮匡は理に向けていた右手のアイスピックを私にも向け、二人を同時に警戒している。

 いま私と理が同時に飛びかかる素振りを見せれば、日暮匡はアイスピックを闇雲やみくもに振りまわすしかない。

 私は日暮匡から視線を外さず、理がどう動こうとしているのか気配を探った。


 だが、日暮匡が後退を始めた。少しずつ私や理との距離を開けていく。

 あれほど激昂げきこうしていたにもかかわらず、激情にまかせて飛びかかったりせず、ここで後退するとは。

 それでいて、決して逃亡しようとしている人間の眼ではない。何がなんでも敵を殺すという意志が感じられる。

 これも日暮匡の恐ろしさの一つかもしれない。


 そのとき、何かが動いた。私ではなく、理でもなく、日暮匡でもない。


 日暮匡の左にある座席に座っている男だった。


 もちろん、彼も刑事だ。

 日暮匡に飛びかかった。

 日暮匡の完全な死角からではなかったが、距離が最も近い。日暮匡が私と理に注視しているいま、それは素晴らしい判断だった。


 だが、日暮匡は握り締めている凶器を振るった。

 それは視線を移すよりも早く、刑事が動きだしたのとほぼ同時の動作だった。


「うああああああッ!」


 刑事は悲鳴の後、両目を押さえてうずくまった。

 車内を怒号が飛び交う。

 複数の「大丈夫か」という叫びに、刑事はうなり声を返すばかりだった。


「ははっ」


 ただ一人、笑い声をこぼした者がいた。

 それはもちろん、日暮匡だ。

 私がキッと睨むが、逆に私のほうが萎縮してしまった。

 彼はあの恐ろしい光を眼に宿したまま、表情に恍惚こうこつにじませていた。

 彼の笑いは「ざまあみろ」とか、そんな安っぽいものではないと悟った。たったいま、快楽殺人の鬼が誕生したことを直感した。


 だが、完全に萎縮してしまった私の隣を、気配もなくスッと通り抜けた者がいた。

 彼もまた、特異な種類の人間だった。

 彼のことを天邪鬼あまのじゃく揶揄やゆする人もいるし、中にはサイコパスと酷評する者もいる。


 船橋理。


 お調子者で、正義感が強いくせに不謹慎ふきんしんで、それでいて、私の愛おしい人。


 理の足取りにはいっさいの迷いがなかった。

 日暮匡がアイスピックを振るうが、振るうことが分かっていればどうということはない。

 アイスピックを握り締める右手の軌道上で、理の右手が待ち伏せをしていた。

 つかんで勢いを殺した手首をひねると同時に、左手を日暮匡のひじにあてがい、彼の肩が沈むよう押し下げる。

 日暮匡は床に突っ伏してもアイスピックを離さなかったが、関節が決まっていて動かせる状態ではない。

 理は日暮匡の右手首を捻ったまま床方向へ押し、そのつけ根を右膝で押さえ、アイスピックが握られた手の甲を左手で押し込むように叩く。

 アイスピックは飛ぶように床を滑った。


 片手と膝で日暮匡を完全に封じ込めている理は、もう片方の手で日暮匡がほかに凶器を隠し持っていないかボディチェックをしながら叫んだ。


「すぐに救急車を呼んでください!」

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