第13話

 この私はパスポートを持っていない。ゆえに、国外への逃亡はできない。


 そんなこの私のために、美咲みさきが逃亡計画を立案してくれた。

 出費はかさむが、海路と空路を繰り返し使ってデタラメに長距離を移動し、完全に追跡者の目をくらまませたところで、その場所に潜伏せんぷくする。


 改めて思う。節電してくるのだった。


 それに美咲の案に従うと、この私の貯蓄がいつ尽きてしまってもおかしくない。

 しかし美咲の案を採用することは、命を狙われている身としては妥当だとう、むしろ当然といえる。

 この私の人生はあの豚女のせいで台無しだ。すべてあの豚女が悪い。馬だか豚だか分からぬあの凡女ぼんじょが悪い。


 この私と美咲は高速道路で港へ向かっている。

 我々は途中のパーキングエリアで休憩きゅうけいをとることにした。

 ここのパーキングエリアには大きな売店と食事処しょくじどころがあり、出口付近にはガソリンスタンドもある。

 朝食は高速に乗る前に済ませてあるため、トイレ休憩とドリンクの補充が主な目的となる。


 おそらく先にトイレから出てきたであろうこの私は、一足先に売店へ向かった。

 ドリンクコーナーを一瞥いちべつした後、華やかなお土産コーナーへと足を向ける。我々の行く先で待つ者などいないが、道中で美咲とつまむのに何か買ってもよい。


「あ、これ、チョコ味バージョンなんて出ているんですね? 買おうかなぁ」


「ふん、好きにしたまえよ」


 誰か知らぬが若い男が気安く話しかけてきたぞ、と思っていたら、そやつはなんと、あの船橋ふなはしさとるであった。


「相変わらず、そっけないですね、日暮ひぐらしさん」


 全身をライダースーツで黒く固めた若造は微笑びしょうたたえている。黒くげたゴボウのようなこの男は、さもこの私の同行者であるかのように、自然にこの私の隣に立っていた。


「何だ? なぜ貴様がここにいる⁉」


「尾行してきちゃいました」


 船橋はお茶目にウインクした。

 閉じていないほうの目から順番に突いてやろうかと思ったが、紳士たるこの私はそれを我慢してやった。


「馬鹿な……。まったく気づかなかったぞ」


「尾行ですからね。気づかれたのなら、それは尾行でなく、ただの追従です」


「そんなことはどうでもいい! なぜ貴様はこの私を尾行できているのだ? 昨日、完全にまいたはずだが……」


「たしかに一度は見失いましたが、すぐに見つけましたよ。一度まかれたおかげで、追従を尾行に戻すことができました。なかなか優秀な助っ人を手に入れたようですね。尾行にも苦労しています」


 船橋理のその言葉で、この私はハッとした。

 この私が船橋理と会っているところを美咲に見られてはまずい。この私と船橋理の関係に興味を示すかもしれない。

 それ以上に、船橋理の口からよからぬ情報が漏れることが重大な危惧事項きぐじこうである。

 二人の接触だけは避けなければならぬ。


「船橋理、こちらへ来たまえ」


「会話を周りに聞かれたくないということですね? 私を相棒に会わせたくないというのもあるでしょうね。いいでしょう。そこは譲歩じょうほするので、あなたも一つ、譲歩していただけませんか?」


「貴様と会話してやる。それが譲歩だ。さあ、とっとと来い!」


 この私は近くに美咲がいないか警戒しながら売店を出て、店の裏手に回った。

 さすがにここには人は来ない。草は刈ってあるが、それ以上の手入れはされていない。

 本来、ここは人の通る道ではないのだ。


「用件は何だね? せっかくこの私に気づかれず尾行していたのに、わざわざ接触してきたからには、何かそれなりの用があるのだろうね? 言っておくが、いくらこの私を追いまわしても証拠など出んぞ」


「証拠が欲しいわけではありません。前にも言ったとおり、証拠は十分確保していますから。私はあなたを説得しにきたのです。私が証拠を持ち込むとはいえ、警察は一度自殺だと結論を出してしまっていますから、それを殺人として再捜査することに腰が重いのです。誤捜査を認めることになるわけですからね。でも、あなたが自首すれば話は変わります」


 この私は船橋の癖を見落とさない。船橋は人差し指でこめかみをかいた。つまり嘘をついたということだ。


「それは嘘だね。この私に嘘など通用しないのだよ。本当のことを言いたまえ。なぜこの私を尾行する?」


 この私の指摘に、船橋は狼狽ろうばいした様子を示している。こうしていとも簡単に嘘を見破られれば、焦燥感しょうそうかんの一つも感じてしかるべきである。


「……たしかに私は嘘をつきました。でも尾行理由は本当です。嘘は後半の部分です。本当のことをお話しましょう。被害者の馬氷まこおりさんの恋人である帆立ほたて治弥はるやさんは、実は議院先生である帆立ほたて公治きみはる氏のご子息しそくなのです。帆立治弥さんが疑いをかけられたために、父君である帆立公治議員が警察に圧力をかけました。警察は馬氷さん殺害事件について、いっさいの捜査ができなくなりました。それはその議員のご子息、帆立治弥さんの疑いを晴らすこともできなくなったということです。だから帆立治弥さんは私のところに無実を証明してほしいと依頼してきました。あなたが自首さえすれば、警察が圧力をかけられる理由もなくなり、ちゃんとした捜査が再開できるのです」


 今度はこめかみをかかない。正直に話しているようだ。


「その帆立治弥とやらは、圧力のおかげで自分が逮捕されることもないのだろう? なぜわざわざ貴様に依頼などするのかね?」


御父君おちちぎみに自由を制限されているからですよ。警察は帆立治弥さんが無実だという真実をもう知っていますが、御父君は自分のご子息が犯人だと信じ込んでしまっています。たとえ警察が『ご子息の疑いを晴らせます』と言っても、万に一つの可能性を恐れてそれを認めようとしないのです」


 この私は横暴な議員の保身に救われていると同時に、首を絞められてもいるというわけだ。馬鹿議員め、息子の自由まで制限するなど、保身がすぎるぞ。警察に圧力をかけるところまでで留めておけばよいものを。


「船橋、言っておくが、この私は殺人など犯してはおらぬ。ゆえに、証拠なども出てくるはずがないし、自首する道理もない。この私が自首することは、虚偽きょぎをもって警察を撹乱かくらんする行為であり、公務執行妨害となる。それこそ犯罪なのだ。それをうながす貴様はその幇助ほうじょをしているということになる。船橋、はっきり言おう。犯罪者は貴様だ」


「日暮さん、私はそんな暴論を聞いて時間を浪費しにきたわけではありません」


 船橋の時間という言葉を聞いて、この私はふと美咲のことを思い出した。

 彼女はいま、この私を捜しているかもしれない。彼女を待たせてしまうのは心苦しい。

 そして何より、この私が船橋と会っている場面を見られでもしたら最悪だ。

 たとえそうならなかったとしても、この私の姿がどこにも見当たらなければ、彼女はこの私の便べんが長いのだと思うに相違そういない。それも御免ごめんこうむる。


「船橋。悪いが、この私は人を待たせている。ここらで――」


「知っています。みさき美咲みさきさんのことですね?」


「貴様、調べたのか⁉」


「調べるまでもありません。私も一度お会いしているので、一目で分かりました」


「しかしあのとき、彼女は貴様の前で名前を名乗らなかったはずだ。なぜ貴様が名前を知っている!」


「あのとき、素早く駆けつけてくれた警察にひったくり犯を引き渡した後、私は店内であなたを探しました。そのとき、レジで支払いをしている彼女の姿を見つけたんです。彼女が開いた財布には免許証が入っていて、そこに書いてある名前を見て覚えたというわけです。ほら、財布ってカードポケットが何段かついているでしょう? そこにカードを入れると、取り出しやすいように頭が出るようになっていますから、名前がいちばん上に書いてある免許証がそこに入っていれば、財布を開いている隙に名前を覗き見ることができるんですよ」


「まるでストーカーだな、君は」


「探偵の尾行なんて、はたから見ればそういうものですよ。ま、人に気づかれないようにするのが探偵の尾行なんですけどね」


 この私はここでふと我に返った。

 この私はここでこんな奴と無駄話をしている暇はないのだ。


「……そうじゃない。そうじゃなくて、この私は美咲を待たせているから、ここらでおいとまさせてもらうと言っているのだ。貴様が美咲の名前を知っていることなど、どうでもよいのだ。これ以上はつきまとわないでくれ」


「岬さんならもう少し大丈夫だと思いますよ。御手洗おてあらいに入っていくとき、かばんの中をまさぐりながら入っていきましたから、きっと化粧直しをするのでしょう。今日は混んでいますし、まだ時間がかかると思います」


 こやつ……。


「では用件をさっさと済ませたまえ」


「私の用件は、あなたが自首するように説得することです。自首していただけませんか?」


ことわる。だんじてことわる。この私は自首するようなことをしていない。さっきからそう言っているだろう。貴様がそこまでこの私にこだわるのなら、証拠を見せたまえよ」


「証拠はあるのですが、いま、手元にはないんですよ。だから見せられませんが、その証拠が何なのか、あなたが犯人であるという根拠とともにお教えしましょう」


「ほう……」


 この私は一度、周囲を見渡した。絶対に美咲に聞かれてはならないことだからだ。

 しかし、この私自身は聞いておかなければならぬ。船橋理という探偵が、どこまで掴んでいるのかを知っておかねばならぬ。

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