※※

 あの日から、ひと月が過ぎた。


 初夏。の力は日に日に強くなり、風はすでに熱をはらみつつある。春に還った雛鳥達が巣立ちの訓練を始めるころだ。


 そんな時期に合わせるかのように、翼編試験は行われる。


「……明顕めいけん達、上手くやってるかな」


 そんな佳き日に、黄季おうきはいつもより人気が少ない泉仙省せんせんしょうで雑務に励んでいた。


 翼編試験は都の外れにある忌地いみちで行われている。忌地に引き付けられる妖怪を実際に討伐する実地試験の形で行われるそうで、試験生達の身の安全を確保するために試験官を兼ねた上級術師達の大半が試験地に出払っていた。


 本当は黄季も翼編試験に臨むべく、同期や年次の近い先輩達と一緒に試験地に向かっているはずだった。


 だけど。


「……」


 黄季の指は、無意識の内に懐に入れた手鏡に触れていた。


遠見とおみ水鏡みずかがみ』であるはずの手鏡は、このひと月、一度も像を結んでいない。


 あの日、気付いた時には黄季は一人で大路に取り残されていた。慈雲じうんがいつの間に去っていったのかも、そこから自分がどうやって自宅まで戻ったのかも、確かな記憶は何もない。ただずっと、手鏡に向かって壊れたかのように氷柳ひりゅうの名前を呼び掛け続けていたような気がする。


 意外だったのは、翌日からの慈雲の態度だった。


 あれだけ黄季ははっきりと正面から対立し、結果的に慈雲の計画を潰す形になったというのに、黄季に対する慈雲の態度は以前と何ひとつ変わることがなかった。翼編試験の受験も、慈雲が黄季に何らかの罰則を与えたから受験できなかったわけではない。黄季が自分の判断で今年の受験を見送っただけだ。


 ──明顕達に後れを取るのは悔しいけど、でも……


 思い出すのは、屋敷から弾き出される間際に見た氷柳の顔だった。


 その表情が脳裏をぎるたびに、黄季の指先は手鏡を握りしめている。


 ──今にも泣いてしまいそうな顔、してた。


『お前を、この庭に入れなければ良かった』と、あの時の氷柳は言った。言葉は完全に黄季を拒絶していた。


 それなのにどうして、あんなに泣き出しそうな顔をしていたのだろう。泣いてしまいたいのは、黄季の方なのに。


 ──あんな顔を見ちゃったから、……全部忘れて元の生活に戻ることもできない。


 氷柳と出会ってふた月。顔を会わせていた期間はひと月程度。たったそれだけの関係だ。会いに行けなくなったならば、教えられたことを胸に刻み、前だけ見据えて自己研鑽に励めばいい。


 それなのに黄季は、ふと気が付くと氷柳の屋敷の場所を探している。


 そんな自分を改めて自覚して、黄季はほろ苦い笑みを口元に落とした。


 ──おん長官でさえ見つけられない屋敷を、俺なんかが見つけられるはずもないのに。


『お前、あれからあいつの屋敷に行けたか?』


 今度脳裏を過ぎったのは、今朝すれ違いざまに慈雲から投げかけられた言葉だった。


『……そうか。お前も、完全に断たれたか』


 黄季は、慈雲の問いに何も返さなかった。ただ、すれ違った所で足を止めただけで。


 だが慈雲はその沈黙で答えを察したらしい。


『お前ならもしかしてって思ってたんだけどな。…元々お前を仲介してやっと見つけ出した場所だ。お前ごと縁を断たれたら、俺ごときじゃ見つけらんねぇか』

『……氷柳、という呼び名は』


 断たれた、という言葉は、想像以上に胸に重く残った。自分で、半ば確信できていたはずなのに。


『それほど、特別なものだったんですか?』


 ただ、口に出せたのは、そんな脈絡もない問いだった。


『……俺が知ってる限り、あいつがその呼び名で呼ぶことを許した相手は、お前以外たった一人しかいない』


 応えはないかもしれないと思っていた。


 だが慈雲はゆっくりと答えてくれた。


『「氷柳」って呼び名をあいつに付けた、たった一人だけだったんだ』


 昔を懐かしむような、切なさと温かさがないまぜになった言葉だった。


 その言葉を慈雲がどんな顔で口にしていたのか、黄季は結局知ることができなかった。思わず振り返った黄季に対して慈雲は背中越しにヒラリと手を振っただけで、結局黄季に顔を向けることはなかったから。


 ──氷柳さんが長官を弾き出す時に一緒に俺まで弾き出したのは……多分、俺のことを守るためだ。


 慈雲が姿を現した時にも表情を変えなかった氷柳が、黄季が真っ向から慈雲と対峙したあの時には表情を変えていた。それまでの間に『永膳えいぜん』という名前を出されて激しく感情を揺さぶられたようだが、あの瞬間の変化は間違いなく慈雲と対峙する黄季を見ての変化だった。


 黄季と慈雲の間に決定的な亀裂を生まないためには、黄季を氷柳から切り離すしかない。それも氷柳側から、もう黄季には氷柳に関わるすべがないのだと、誰からも一目見て分かる形で。


 氷柳に関わる術がなければ、慈雲から見て黄季は利用価値のないただの新人だ。そして無力な黄季はそのまま大人しく元の日常に戻るしかない。


『……お前を、この庭に入れなければ良かった』


 だから黄季は、あの言葉がただの純粋な拒絶ではなかったのだと思いたい。


『そうすれば私は……変わることなく、ここに在れたのに』


 だけど、そこにどんな感情が込められていたのかまでは、分からない。


「……ねぇ、教えてよ、氷柳さん」


 あの時氷柳さんは何を思っていたの? どんな思いであんなことを言ったの?


 ねぇ、氷柳さんって、昔どんな退魔師だったの? あんなすごい呪具屋さんとどうやって知り合ったの? 俺の手料理で何が一番おいしかった? 普段屋敷で何してるの? あの幻術結界ってどうやって展開してたの? どんな風に鍛錬を積んだらあんな風に柳葉りゅうよう飛刀を扱えるようになるの?


 ……言えずに終わってしまった問いが、今更溢れて止まらない。いつか、いつか口にできたらと思っていた問いを口にする機会は、もう二度とはやってこないというのに。


「……言っちゃえば、良かったなぁ……」


 ジワリと目尻に涙がにじむ。そんな己を叱咤する気力さえもう使い果たしてしまった。


 今なら、少しだけ泣いてしまっても見咎められないかもしれない。そう考えた黄季は捌いていた書類を卓に置くと腰を浮かせる。


 その瞬間、ドンッという地響きが体を揺らし、強烈な悪寒が体を貫いていった。


「な……っ!?」


 思わず目をみはった黄季は体勢を保てずに椅子の上に腰を落とす。訳が分からずに周囲を見回すと、一度体を突き抜けた悪寒が今度は寒気となって返ってきた。


 そんな自分の反応にひとつ心当たりがあった黄季は、血の気が失せた顔のままふらつく足を懸命に動かして窓辺に飛びつく。


「……うそ………」


 黄季が飛びついた窓のはるか先、都の外れと思われる場所では、ここからでも規模の大きさが分かる勢いで土煙が上がっていた。その周囲を彩るかのように赤い煙幕がいくつも上がっている。


 翼編試験が行われている会場で、退魔師達が救援を求める緊急信号を幾つも上げていた。


「明顕……民銘みんめい……っ!!」


 思わずこぼしたのは、あの土煙の下にいるはずである同期達の名前だった。


 そんな黄季の後ろからドタバタと足音が響く。ハッと振り返ると顔色を失った初老の上官が黄季がいる部屋に駆け込んできた所だった。


うん老子……っ!!」

「泉仙省に残っとる退魔師を全員試験地に送る。他の現場に出払っとるやつらも向かわせるつもりじゃ」


 黄季の反応から黄季が状況を把握していると察したのだろう。慈雲に代わって留守を預かっていた上官は単刀直入に用件を切り出した。


わしが転送陣を動かす。黄季君、お前さんは皆を連れて現場に飛びなさい」

「はいっ!!」


 薀老子に答えた黄季は、他の居残り組に声を掛けるべく書類を放り出すと部屋の外へ駆け出していった。



  ※ ※ ※



 ……随分と頼りない雛鳥が落ちてきな、と。


 確か、そんなことを思ったのだ。




「──…………」


 水が滴る音を聞いたような気がして、涼麗りょうれいは閉じていた瞼を緩く開いた。気だるげに庭に視線を流してみるが、そこには常と変わらない幻の庭が広がるばかりで、雨の気配もなければ水が動く気配もない。……そそっかしい雛鳥が池に落ちてくる気配も。


 瞬きを数回繰り返してそのことを確かめた涼麗は、再び瞼を閉じた。


「……八年、……か」


 ふと、過ぎ去った時の長さを思った。


 もう、とも、まだ、とも思った。


 死んだように生きてきた八年だった。生きることを拒否してきた八年、と言ってもいいかもしれない。


 ──八年かければ、どこかで死ねると、思っていたのに。


 今の涼麗の姿を指して、ここに乗り込んできた慈雲は『思い出に殉じるような生き方』と言った。まったくその通りだと言ってもいい。


 涼麗はここで、八年間、永膳を待っていた。永膳は死んだと、分かっているはずなのに、それでもずっと、待っていた。


 あるいは、永膳との思い出が残るこの屋敷で、永膳の下に逝けるその時を、待っていたのかもしれない。


 ──だというのになぜ、私は……


 涼麗にとって、永膳は全てだった。


『比翼』は、相方を失ったら飛ぶことさえままならない鳥。他者に依存しなければ生きていくことさえままならない、ひとつの生き物として不完全で弱すぎる存在。


 ──私が、死ぬべきだった。


 ずっと、とうの昔から自覚していた。


 自分は、永膳がいなければ、空を飛ぶどころか生きていくことさえままならない、弱々しい存在なのだと。


 ──死ぬことに、異論も、恐怖も、私はなかったのに。


 八年前のあの日、涼麗があの大火の中で人柱のごとく死ぬことは、大乱が末期に差し掛かった辺りからすでに決められていた筋書きだったのだと思う。


 だというのに蓋を開けてみたらどうだ。永膳も、うるさいことを言っていた周囲も綺麗さっぱり焼き払われて、一番死ねば良かった涼麗だけが生きている。


 多分、涼麗は、そんな状況に途方に暮れていたのだろう。思い出の場所に引き籠り、外界の全てを拒絶して、生きることも死ぬことも放棄して、ただただ無聊をかこっていたくらいには。


 ……そんな日々の中に、落ちてきたのだ。


「……?」


 そこまで思うともなく思った瞬間、地脈と一体になっていた己の感覚に何かが触れた。微かな違和感に涼麗はパチリと目を開く。


 その瞬間、ダンッという鈍い音とともに屋敷中の空気が震えた。


「な……っ!?」


 突き上げるような振動はすぐに消えた。だが余波に屋敷を囲う結界がいまだに震えているのが分かる。


 一瞬、この空間が攻撃を受けたのかと思った。だが無意識の内に外界の地脈の流れをたどっていた涼麗は、すぐにそうではないことに気付く。


「……っ!!」


 これは、妖気だ。そこにあるだけでこの屋敷の結界を揺らがせるほどに強大な。


 涼麗は反射的に瞳を閉じると地脈に意識を集中させた。普段は意図的に閉じている感覚を解放し、妖気の主を探る。


 ──これは都の外れの忌地いみち……『海』、だな……。これほど強大な妖怪が、なぜいきなりこんな場所に……?


 さらに感覚を研ぎ澄ました涼麗は、妖怪が現れたばかりだというのにその周囲に既に複数の退魔師がいることに気付いて眉をひそめた。妖怪が現れて退魔師が駆け付けたにしては早すぎる。ならばこいつらが忌地にあえて妖怪を招き入れたのかと考えた涼麗は、泉仙省せんせんしょうで『海』と呼ばれるその忌地がこの時期に何に使われていたかに思い至って思わず目を見開いた。


「まさか、翼編よくへん試験か……っ!!」


 同時に脳裏にぎったのは、ひと月ほど前まで足繁くこの屋敷に来てくれていた雛鳥の姿だった。


氷柳ひりゅうさん、俺、前翼ぜんよく後翼こうよくならどっち向きだと思いますか?』


 あの雛鳥は、去年の今頃泉仙省に入省した新米だったはずだ。翼編試験のことを口にしていたくらいだから試験に興味はあったのだろうし、ここ最近の伸びを見ていた慈雲ならば確実にあれを試験に招集しただろう。確かに黄季は先日この屋敷で慈雲と揉め事を起こしかけたが、涼麗が知っているままの慈雲であるならば、その程度のことで黄季を試験から弾くという真似はしまい。


 この妖気の発生源に、あの雛鳥がいる。


「……っ!!」


 とっさに寝椅子から体を引き起こす。


 だがそこで涼麗の動きは止まってしまった。


 ──関係ないことではないか。


 死ぬことすらできず、惰性で生きてしまった八年だった。


 永膳がいない世界なんて、どうなろうが興味がなかった。誰がどうしようとも、その中にかつての同朋達がいようとも、どうこうしようとは思えなった。


 もう、何もしたくなかった。ただそこに在るだけで戦うことを強いられたくなかった。もはや自分は死んだものだと。そのように扱われ、忘れ去られていきたかった。


 ──そうやって捨ててきたものと、あれと、一体何が違う?


 あの雛鳥だって、そんな中の一部であったはずだ。転がり落ちてきたから、拾って巣に帰した。そうしたら懐かれた。ただそれだけの存在で、涼麗にとっては『どうでもいい世界』の一角にすぎなかったはずなのに。


 それなのになぜ、今自分は、あの雛鳥が危機に瀕しているかもしれないと感じて、こんなに焦燥に駆られているのだろうか。


 ──こんな風に心を掻き乱されることも。誰かに見つけられてしまう危険性も。全部……全部、あれで切り捨てられると。


『……お前を、この庭に入れなければ良かった』


 本心、だったはずだ。


 ──そうすれば私は


『勝手な印象ですけど、貴方はもう何もかもと戦いたくないから、ここにいるんですよね?』


 不意に、蘇った光景があった。


 このひと月、忘れようと思っては、何度も何度も思い出すあの瞬間の光景。


『戦わなくてもいいこの世界から連れ出されたくなかったから、俺と関わりたくなかったんですよね?』


 まだ色を濃く残す漆黒の衣。冠の下に押し込められていても癖が強いと分かる茶がかった髪。まだまだ線が細い体で、叩き付けられる妖気に震えながらも、涼麗を見上げた顔には無理やり笑みが刻まれていた。


『だったら……だったら、貴方が戦わなくてもいいように、俺が戦います』


 涼麗に初めて『戦わなくていい』と言ってきたのは、殻からようやく出たばかりだと一目で分かる、小さくて弱い雛鳥だった。


 本当に、初めてだった。浮浪児として路上で生活していた時も。呪術師としての才を見込まれて郭家に拾われてからも。永膳の小姓となってからも。『氷煉ひれん比翼』などと呼ばれて退魔の現場を飛び回るようになってからも。


 涼麗の価値は、戦ってこそだった。かつての相方で自分に酷く執着していた永膳でさえ、涼麗には戦うことを強いた。そこに涼麗の意思はなかったし、それが当たり前であると涼麗だって受け止めていた。


 あの雛鳥だけが。


 あの雛鳥だけが、そんな涼麗の心に気付いて、その心を掬い上げてくれた。


「……っ!!」


 だから、だ。


 だからこそ、ここに通ってくるようになった雛鳥を育ててみたいと思った。あの雛鳥ならば、一羽で両の翼を広げて、力強くどこまでも空を飛んでいくおおとりに育つと思ったから。


 だからそれまでは、自分の片方しかない翼の下で、育ててやってもいいと思ったのだ。


 殻付きの雛鳥のくせして、誰よりも大きな空を描く、あの雛鳥を。


 握りしめた手がギリッと軋んだ。


 恐らくあの規模の妖怪を今の泉仙省の力で討つことはできないだろう。だが自分が現場に出れば、あるいは被害を限りなく減らしての討伐も可能かもしれない。


 しかし涼麗がこの屋敷の外に踏み出し、封じてきた退魔術を己の身と意志で直接振るうことは、この八年を全てどぶに捨てることと同義だ。一度表に出てしまえば、今度こそ自分は、『国のため』という大義を負わされて、一生戦い続けることになる。


「……お前にさえ、出会わなければ」


 ──変わることなく、ここに在れたのに。


 こんなことで揺らぐような人間に、堕ちなくて済んだのに。


『っ……っ!! ……う…黄季っ!!』


 小さく呻いた瞬間、煙草盆の隣に置かれた水盆の映像が勝手にユラリと揺れた。屋敷の結界が揺らいだのと通信先の手鏡が気の乱流の中にあること、その両方が重なって勝手に術が起動してしまったのだろう。


『黄季っ!! 生きて……っ』


 ハッと反射的に水盆に目が行ってしまった。そこにどす黒い炎が荒れ狂う様を見た瞬間、なぜか映像はブツリと途切れてしまう。分かったのはあの手鏡の持ち主が忌地の戦場の中にいることと、その主の名を呼ぶ切羽詰まった誰かの声が響いていたことだけだった。


「……っ!!」


 今度こそ涼麗は寝椅子を蹴るようにして立ち上がると奥に向かって駆け出していた。


 自問自答の答えは、見つけられないままで。

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