夜の教室


 街中にある高校とはいえ、懐中電灯一本では無灯の廊下は暗い。それでも怖さよりも、ノスタルジーを覚えるのは卒業校だからだろう。まさか教師になって戻ってくるとは、俺自身、あまり想像していなかった。


 教室にたどり着く。街灯の光が、広い窓から差しこんで、教室の中の、黒板や、机の群れの角ばった輪郭が浮かび上がる。


「電気つけていい?」

 後ろを歩く男子生徒がひょいと顔を覗かせ、俺よりも先に教室に入った。一目散に一つの机に向かい、中を探っている。


「やー、警備員に見つかるぞ」

「先生なんだし、何とでも言い訳できるって」

「お前が忘れもんとりに行くとか言うからこうなってんだよ」

 明日にしろよ、とため息が出た。

「ごめんって。でも先生いてくれてよかった」

 にこりと笑う。邪気のない素朴な笑顔を見ていると、怒る気も失せる。高校生とは、こんなに幼かったかな。


「で、何忘れたんだよ」

「実は嘘」

「何?」

 前言撤回。彼の瞳は悪戯じみた光を帯びている。高校生とは生意気な生き物なのだ。


「って言うのも嘘ー。見る?」

 彼は、引き出しから「忘れ物」らしきものを取り出した。やや曇りがかったビンの中で、とても綺麗とは言えない水がたぽんと揺れている。

「げ」

「げっ、てさあ、先生、生徒の私物をげって言うのはどうなの」

 顔をしかめる。確かに、それはそうかもしれない。しかし引き出しから予想もしない有機物が出てきたらげっ、とも言うだろう。ともなく俺は、謝ることにした。


「悪かったよ。なんだよその汚ねえ水は」

 彼はビンの縁をコンコン、と弾く。すると、少しだけビンの輪郭が青白く、教室の中に浮かび上がった。


「うわ、光った」

「夜光虫だよ。海で汲んできた」

 得意げに声を弾ませるが、あくまで彼は、当然とでも言うようにすました顔をしている。それがわかりやすいのが、子供らしくて可愛い。

 俺は感心してへえ、とうなずいた。


「海まで行ったのか? 遠かっただろ」

「まあね。だから結構、死んじゃったかも」

 全然光らないや。そう残念そうに、ビンを回して水を眺める。横顔のすっきりとした鼻のラインが、薄明かりに縁取られる。


「先生、海に連れて行ってよ」

 彼は突然振り返り、そう言った。

 虚を突かれた俺は、一拍考えた。タメ口をきかれるから忘れてしまうが、俺たちは友達ではなく、あくまで教師と生徒なのだ。


「今からは無理」

「じゃあ休みの日」

「それもダメ」

「じゃあ卒業したら」

 また少し考える。

「それなら、まあ、考えてやろうかな」

「じゃ、制服で来るね」

「何でだよ」


 あはは、と教え子は、声を上げて笑った。やはりその笑顔は、素朴で、純粋な光に満ちていた。

 先生、と彼は言い、窓を開けた。ふうと風が吹き抜ける。

「本当の海の夜光虫は、きれいだよ」

「そうだろうな」


 俺は窓に寄る。遠くには海と夜の境界線が、薄明かりにはっきりと引かれている。

 彼はビンの蓋を開け、閉じ込めた海を窓から撒いた。

 地面に落ちた雫は一瞬、青白く光った。

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