労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈15〉

 ある商品の使用価値を、別の商品の使用価値で置き代えることができるということは、ある意味では「その使用者を、特定の商品の使用価値から解放する」ということでもある。「ある特定の商品が消費されてしまうこと」によって、つまり「その特定の商品が使用者の前から消えてしまうこと」によって、その使用者がもはや二度とその使用価値を実現することができなくなるのだとすれば、彼は「それを使用することによって実現されるはずの使用価値を、もはや維持していくことができなくなる」ということになってしまう。ある特定の商品の使用価値が、その消費によって途絶えてしまうならば、そしてその使用価値が、それによってもはやこの先において維持できないものとなるのであるならば、「その使用によって実現していたはずのもの、あるいは維持されていたはずのもの」もまた、それと同時にそこで途絶えてしまうことになる。要するに、人が新しい商品を買うのは、その使用価値の実現を途絶えさせないためでもあるのだ。

 だから「商品の使用価値」は必ず、「他の商品によって置き代えられるものでなくてはならない」のである。人は何も徒らに「新しい商品を飢えたように消費し貪り食っている」ばかりなのではない。「新しいものを、それまでのものと置き代えること」によって、また「それを途絶えさせないこと」によって、「実現され維持されているもの」が人にはあるのであり、また「そうしなければ実現も維持もできないもの」が人にはあるのだ。むしろそこには「過剰」などというものが入り込む余地は全くない。それが絶えることなく維持され実現されている限りにおいて、それは人にとって「最低限必要なもの」なのだとも言えるわけである。


 一方で「商品」の方でも、その使用価値が「別の商品において置き代えられるものであること」によって、「その商品の使用価値は、特定の使用者から解放されている」のだと言える。

 特定の使用者において使用されるのでなければ実現されることのないような「特定の使用価値」を、その商品が持っているというならば、その特定の使用者がその商品を使用しなければ、あるいは使用しなくなれば、もはやあるいはそもそも「その商品には、本当に使用価値がなくなってしまう」ことになる。

 しかし商品の使用価値が置き代えられるものなのであれば、「その商品」は、「他の使用者に買ってもらい、使用してもらう」ことで、その「他の使用者によって、その使用者の使用価値として置き代えられることになる」のである。実際にそれが実現するかどうかはともかく、少なくとも「その機会だけは最低限、どのような商品にも維持されることにはなる」のだ。たしかに商品にとって、「使われなければ価値を持たないということ」はリスクなのだが、「使われないような価値をその商品が持っていると見なされる」としたら、それはそれでなおさらのリスクなのである。


〈つづく〉


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