労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈2〉

 人間の個別的で具体的な行為としての仕事が「一般的」であるということは、一方で実際そのような仕事に個別具体的に関わっている人間を「自由にする」ことでもある。

 人間は、自らの関わる仕事がそのように一般的なものであるからこそ、自分自身が今現在関わっているその、個別具体的かつ特定・限定的な行為=仕事に、自分自身そのものが恒久的に縛りつけられるようなことにはならずに済むわけであり、かつもし今現在関わっている仕事よりもなお、自分自身として強く惹きつけられるような「他の仕事」を見出したならば、今現在の仕事を振り捨てて、たやすくそちらの方に移ってもいけるのだ(※1)。そのように「仕事として一般的である限り」において、「仕事一般」としては別にそれが特定の組織・集団に限られた行為というわけでないこととなるばかりか、特定の個人の行為として「その個人のみに結びつく行為」でもなくなるわけなのである。

 しかしなぜそのように人々は、たやすく一つの仕事から他の仕事に移っていけるのか?それはまさに彼らが「労働力という商品だから」である。

 「商品」は彼が売られる相手つまり商品の買い手を、彼自身としては「特定しない」のだ。商品の買い手に対しては、それが「商品の買い手であること以上の関心」がないし、彼=商品の買い手が商品を買わないならば、その商品にとって彼=商品の買い手は「存在しないものであるのも同然」なのである。

 転じて「商品の買い手」の方においてもそれは同じことになる。労働力という商品は、一般的に商品である限りで、彼=商品の買い手が関心を持ちうる対象となる。ゆえに労働力という商品の所有者すなわち労働者が、たとえ個々の具体的な人間として誰なのであっても、それは「彼=商品の買い手」には何の関心もないことなのである。彼=商品の買い手にとっては、個々の労働力が「彼=労働力商品の買い手の生産手段」として働いてくれさえすればそれでよいのであり、それだけが彼=労働力商品の買い手の関心の全てなのだ。そう考えるとそれはきわめて自由で「後腐れのない関係」であるとさえ言えないだろうか?


 個々の具体的な人間がたとえそれぞれバラバラにどこの誰なのであろうとも、それらの人々の間で「労働力商品である」ということにおいて一般的に共通しているというのならば、その人々=労働者たちは、その一般的な共通性において「労働力商品という一般的な存在となることができている」わけであり、そのように「商品という一般的な形態として存在すること」において、「労働者による労働は、労働として一般化されることになる」わけなのである。

 ではもし、それぞれ個々の人間が具体的に携わる、個別かつ特定の「仕事=労働」とはひとまず区別されるものと考えられるとして、そのもう一方の「労働力」とは、一体どういうものだと言うのだろうか?

 それはまさに「一般的な労働」として抽象された、総体的な人間の活動力=生産力に対して、あらかじめ数量的に割り出され割り当てられるところの「力、およびその価値」なのである。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 マルクス「経済学批判序説」


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