第51話 義脛、都落の事3

■元暦二年(1185)11月

 義脛は船頭や水夫にこう命じた。


「風が強いぞ。帆をゆっくりと引け」


 帆を下ろそうとしたが、雨に濡れて帆柱の先についている滑車が固まって下ろすことができない。


 弁慶が片岡に言う。


「西国の合戦の時には度々大風にあったものよ。引き綱を下げて引かせるのだ。それからとまを巻き付けるのだ」

[訳者注――苫はすげかやなどを粗く編んだむしろのことで、雨をしのぐ道具として使われていた]


 そこで綱を下げて苫を付けたのだが、少しも効果はない。


 この船は河尻を出る時に、西国船の常として船を安定させるための石を多く積んでいた。

[訳者注――今でいうバラスト水のようなものである]


 そこでその石を葛で結んで海に投げ入れたのだが、綱も石も海底に沈んでいかない。

 むしろ船が引っ張られていくほどの強い風であった。


 船腹を叩く波の音に驚いて、馬たちがおびただしく鳴き叫んでいる。


 今朝までは別にどうとも思っていなかった者たちも船底に突っ伏して、黄色い液を吐き出しているような酷い有様だった。

[訳者注――大波に揺れる船の様子がかなり細かく描写されている]


 義脛はこれを見て、「帆の中央を破って、風を通せ」と命じる。


 そこで薙鎌ないがまを使って帆の真ん中を散々に破って風を通したが、船先は白波を立て、まるで千の鉾で突かれたようである。

[訳者注――薙鎌は長柄を付けた鎌のこと]


 そうしているうちに日が暮れていた。

 前方に船はないので、かがり火も焚いていない。

 とはいえ後方に船が続いているわけでもないので、漁師たちの焚く火すら見えなかった。

[訳者注――波に攫われて船団が維持できず、バラバラになっている]


 空は曇っており、北斗七星も見ることができない。

 ただ長い夜の暗闇に迷っているようであった。


 義脛が独りきりであればどうとでもできたであろうが、都にいた時は誰もが知るほど情けが深い人物であったので、こっそりと義脛の許へ通った女が二十四人はいたと言われていた。

[訳者注――二十四股以上である。義脛はモテモテであった]


 その中でも寵愛が深かったのは、平大納言時忠の娘、久我大臣こがのおとどの姫君、唐橋大納言の娘、鳥養中納言の娘で、彼女たちはさすがに皆、優美な方々であった。

[訳者注――壇ノ浦の戦いで戦った平時忠だが、のちに娘の蕨姫を義脛に嫁がせている]


 その他には静御前たちをはじめとして白拍子が五人、総勢十一人が同じ船に乗っていた。


 都にいた頃にはそれぞれ思い思いの心を持っていたが、今は一カ所に集まって、いっそのこと都でどうかなっていたらと思い、悲しみ合っている。


 義脛も心配で船の内から出て、「今は何時か」と尋ねる。


「子の刻の終わり(午前二時頃)でしょうか」


「ああ、早く夜が明けてほしいものだ。雲の様子を一目見れば、どうにでもなろう」


 そして義脛はこう命じた。


「武士でも下男でもよい。誰か器用な者はおらぬか。あの帆柱に上り、薙鎌で滑車の綱を切るのだ」


 これを聞いた弁慶はつぶやいた。


「人は運が尽きる時になると、いつもは持っていない心を持つようになるのだ」


「言っておくが、お前に上れと言っているのではないぞ。それにお前は比叡の山育ちであるから無理であろう。常陸坊は近江の琵琶湖で小舟を漕いだことはあっても大船の心得はないだろう。伊勢三郎は上野の者、佐藤忠信は奥州の者だ」

[訳者注――常陸坊は『頼朝謀反により義脛が奥州を出る事』にも名前が出てくる常陸坊海尊ひたちぼうかいそんのこと。園城寺の僧であったとされる。僧兵なので武蔵坊弁慶と混同されることもある]

[訳者注――伊勢三郎は『義脛の最初の臣下、伊勢三郎の事』で義脛の最初に部下になった武士。山育ちということで候補から外された]

[訳者注――佐藤忠信は『頼朝謀反により義脛が奥州を出る事』から登場している。頼朝挙兵を受けて奥州を出発する義脛に従った。奥州育ちということもあり候補から外れる]


「片岡だ。あの者は常陸国の鹿島行方かしまなめかた(茨城県麻生町)という荒磯で生まれ育っておる」

[訳者注――義脛の四天王に数えられる人物は何人もいるのに、ここにきて片岡経春の出番が増えている。海が舞台ということで活躍できたということか]


志田三郎先生義広しださぶろうせんじょうよしひろが浮島にいた時に何度も訪ねていって遊んでいたが、「源平の乱が起これば、葦の葉を舟にしてでも、中国大陸であっても渡ってみせる」と言っていたそうだ。片岡よ、上れ」

[訳者注――志田三郎先生義広は源義広よしひろのこと。木曽義仲の父、源義賢の弟]

[訳者注――過去のイキった発言を取り上げられて白羽の矢を立てられた片岡の気持ちを考えるといろいろと辛い]


 そう義脛が命じたので、片岡は承ってすぐに御前を立ち、小袖と直垂を脱ぎ、二本の手綱をより合わせて胴体に巻き付け、髻を解きほぐして襟元に押し込み、烏帽子の額に鉢巻きでしっかりと固定した。

 そして鋭い薙鎌を手にして腰の綱に差し込み、大勢の人をかき分けて柱に上った。


 帆柱に手をかけてみたところ、大の男が両手で抱き着いても指が届かないぐらいの太さで、高さは四、五丈(約12~15メートル)もあるかと思われる。


 武庫山から吹き下ろす風にさらされて雪と雨で濡れて凍り付き、まるで銀箔を伸ばしたかのようであった。

 そのため、どうやっても上れるとは思えない。

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