第35話 真緒のお悩み相談室

 真緒はリビングの床を雑巾代わりの古着の切端で乾拭きしていた。敷いているキリムの赤を基調としたラグはベランダに干し、ぽかぽかの陽気に当てている。掃除は普段、お掃除ロボットに頼っているが、どうしても角や端にホコリが残ってしまうことがある。なのでときどき、人力で綺麗にしているのだ。

 窓を開けて、玄関の廊下からリビングまで黙々と拭き続ける。2人暮らしだが、それなりに広い部屋なので、けっこう時間がかかった。

 真緒はレオンの部屋を見た。今日は2人の休みが重なった日だ。いつもならショッピングモールの本屋に行っている時間なのだが、部下の田代から電話が入ったのだ。休みだと言うのに客から連絡がきて、面倒なことになっているらしい。うっかり会社用の携帯に出てしまった田代も田代だが、定休日に連絡を入れる客も客だ。

 ぼそぼそと漏れてくる声から、まだ当分かかりそうだと思った真緒は、次に窓の桟の掃除に取り掛かった。ぼろ切れを割り箸に巻きつけて、少々の水と洗剤をつける。それで桟の隙間をすーっとなぞると、真っ黒な土埃がついてきた。ここは5階建てマンションの5階だが、風で土埃が飛んできているようだ。少し力を入れて桟を磨いていく。他にも窓はあるが、1番出入りの多いここを今日は重点的にやろうと決めた。

 レオンが部屋から出てきたのは、真緒が桟を新品同様に磨き終えて満足しきった顔をしたときだった。

「終わったの? お疲れ様」

「全くよそもんの客は言いたい事だけ言ってこっちの言うことなんざひとつも聞かねぇ。業者とその道のプロがその素材じゃ耐久性がないつってんのにこの素材でやりたがってるんだからなぁ。警告は何度もしたけど注文者の強い要望でこの素材にしましたってウチと工事請負社に一切責はないって念書をつけることになった。こりゃ手数料も値引かれそうだぞ、誰だこの客引っ張ってきたの」

「滅多に現地に来ないでメールでやり取りしてる人? お札はお店の中でしか効果ないから……」

 真緒は疲労の濃い夫の顔を優しく撫でた。悪客避けの札はレオンの会社にも貼ってあるが、メールなど物理的に距離があると効かない。レオンは心なしか今朝見たよりやつれている気がする。

「今日は出かけないで家でのんびりする?」

「んにゃ、気晴らしに出かける方がいい。ちょっと遅くなったがモールに行こう」

「うん」

 真緒は割烹着を脱いで身支度を整えた。


「真緒さま、レオンさま」

 ショッピングモールで、真緒たちは、ばったり工藤と琴音に出会った。モノトーンで統一された琴音の服装は、色が溢れたショッピングモールの中で、凛とした存在感を醸し出していた。隣に立っている工藤も、今日は色味を抑えたコーディネートだ。手にはいくつか紙袋を下げている。琴音の買ったものだろう。

 真緒たちはというと、真緒は濃紺に生成のよろけ縞が入った紬に、たまご色に桜が抽象的に描かれている半幅帯を締めていた。リバーシブルの帯で、裏面の朱色をチラリと見せる結び方をしている。レオンはデニムシャツにチノパン姿で、カーキ色のジャケットを手に持っている。靴は焦茶の革靴だが、靴下を朱色にして真緒に合わせていた。

「お二人ともお似合いですね」

「ありがとうございます。真緒さまたちも素敵ですよ」

 お互い褒め合い、にこやかな雰囲気の中、そうだわ、と琴音が手をたたいた。

「真緒さまにご相談したいことがございますの。お時間いただいてもよろしゅうございますか?」

「此処で聞かずとも良いだろう。お二人とも買い物にいらしているのだぞ」

「でも、ここなら商店街の方たちは少ないですし……」

 つまり、身近な人たちには言いにくいことを相談したがっているのだ。真緒はレオンを見た。レオンは一瞬むう、と悩んだが、まぁ良い機会だ、じっくり話し合え、と真緒の背中を押した。


 1時間後に、と時間を決めて、真緒と琴音、レオンと工藤は別行動をとった。真緒はまず、落ち着く場所をと、フードコートエリアから離れて出店している甘味屋に入った。

 メニューを見て、真緒は抹茶と白玉あんみつのセットを頼んだ。琴音は抹茶パフェを注文した。パフェか〜、若いな〜と真緒は思ったが、人狼の年齢は人間の約2倍だと聞いて、人間換算で今年19の琴音が、自分より年上だということを思い出した。でも実質19才だし。若いよね。

「ええと、相談事が二つほどあるのですが」

 置かれた甘味を目の前にして、琴音はキョロキョロと周囲を気にした。真緒はそれならばと、四角にちょんと、人避けの術を施した。

「これで大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。まず、ひとつめのご相談なのですが、私、何年か働こうと思いまして」

「あら、どうして?」

 真緒はこのまま琴音は工藤と結婚して、子どもを産み、専業主婦になるのだと思っていた。琴音なら良い母、良いパートナーになること間違いないと思っていたので、働きたいと告げられ、意外に感じた。

「人間社会では、私の年齢で結婚出産はやや早いと聞き及んでおります。だいたい社会に出て数年働いて、職場やその他のコミュニティから結婚相手を見つけるのだと」

「そうですねぇ、東京だと大学を出て社会人になって、20代後半から30代後半に結婚して出産するのが主流ですかね。まぁ、ここは東京より結婚も出産も少々早いと思いますけど」

 地方の女性の結婚は早い。とある地方では26才を過ぎると行き遅れと言われ、後妻か歳の離れたワケあり男性しか地元に男性が残っておらず、そんな男としか結婚できなくなるという。ここは陰口も風習もあまりないが、全くないとは言わない。子どものいない真緒たち夫婦に向かって「まだ子ども作らないの?」と何度か言われたことがある。


「結婚や出産があまり早いと、その、総一郎さまが、悪く言われるのではないかと思ったのと、少しは社会に出てみたらどうだと総一郎さまに言われまして」

「なるほどねぇ」

 20歳前の琴音とこのまま結婚し、妊娠させ

たら、若い娘に手を出した中年男、と工藤が言われかねない。琴音はそれを危惧しているらしい。結婚は一族の総意なので確定事項だが、婚期としては確かに少々早い。

 そこはおいておいて、真緒にできることといえば琴音の就職先を探すのを手伝うことだ。ひとつ、案が真緒にはあった。

「琴音さんは、接客はできそうですか?」

「花嫁修行で旅館の女将について回っていたので、多分大丈夫かと思います」

「私に決定権はないので、後でレオンにお願いしようと思うのですが、不動産屋の方で受付の女の子がひとり寿退社を予定していまして。受付とかいかがでしょう」

「それはつまり、総一郎さまと同じ職場で働けるということですか?」

 前のめりになって琴音の瞳が輝いた。

「レオンと工藤さんがいいと言えばの話になりますが」

 人事権限のある社長と社長代理のOKがなければ、この話は成立しない。しかし琴音は乗り気のようで、履歴書には何て書けば有利でしょうか? と尋ねてきた。だからまだ早いですってば。真緒は苦笑した。


「もうひとつの相談事は?」

 真緒は白玉を口に運びながら尋ねた。琴音は顔を赤らめ、もじもじしながら小さな声で

「総一郎さまが一線を超えてくださらないのです。家にいさせてくれるというのを、好意を抱いてくださっていると私は勘違いをしているのでしょうか」

と答えた。真緒は思わず白玉を丸呑みしてしまい、慌てて抹茶で流し込んだ。

 以前真緒は、ガードの固い工藤の心身を解きほぐすのに、琴音にいくつかのスキンシップを伝授した。それは真緒がレオンにやられたことであり、お陰で恥ずかしながらもそのスキンシップを受け入れることができている。琴音も工藤にいくつか試し、効果を実感できているのであろう。それでも、工藤は手を出さない。据え膳食わぬは男の恥というけれど、おそらく式が終わるまでは嫁入り前の娘を預かっているという認識なのだろう。律儀な男なのである。

「それは、先ほどの話にも通じますが、琴音さんがまだお若いこと、一族の総意で結婚することが決まっていますが、まだ嫁入り前のお嬢さんには変わらないから、手を出していないのだと思います。工藤さんはおそらく結婚式が終わるまで、そういうことを控えていらっしゃるのかと」

「そうでしょうか」

「私もレオンも、工藤さんは琴音さんを気に入っていると感じています。私たちも工藤さんと知り合って4年しか経っていませんが、それでも、多少の感情の機微はわかるようになってきています。結婚式が終われば、何かしらのアクションを返してくれると思いますよ」

 それが一線を越えるものかはともかくとして。

 琴音は真緒の言葉を噛み砕くように聞き入った。自分は嫌われてはいないことがわかり、ほうと息を吐く。

「琴音さんの一族……というか人狼の考え方は古風だと思います。式の前に子どもができてしまったら、きっと工藤さんは陰口を言われてしまうのではないでしょうか」

 そうですね、と琴音は答えた。同棲を実行したときも、古老たちが琴音の両親に詰め寄ってきたらしい。嫁入り前のくせにはしたない、と。

 琴音の両親は、それだけ相手を好いた娘の情熱を、妨げる方が可哀想だ、どっちにしろいずれ夫婦となるのだからいいではないか、と反論して古老たちを黙らせたという。

 両親にも真緒にも感謝をせねば。琴音は両手を胸に添えて目を瞑った。

「ありがとうございます。それで真緒さまにお願いがあるのですが」

「今度はなぁに?」

「日取りはまだ未定ですが、私たちの式にご夫婦で出席していただきたいのです」

 真緒はえ、と思わず声を上げた。人狼だらけの結婚式に、吸血鬼の自分たちが参加していいものなのだろうか。それこそ両親一族の許可が必要ではないか?

「新郎の上司としてご参加していただきたいなと。私の方も、花嫁修行をした旅館の女将夫婦をお呼びするので」

「ちなみに女将夫婦は」

「お二人とも人間です」

「琴音さんが人狼だということは」

「存じております」

 なら大丈夫か。狸ではないが、酔って正体をあらわすものもいなくはないだろう。異種族にいい顔をしないものもいるだろうが、真緒はそれ以上に、人狼の結婚式に興味を持った。ヒトとどこが違うだろうか。それを確認するだけでも面白そうだ。

 レオンと相談して返事をしますね、と答え、術を解除して、めいめい会計を済ます。足取り軽く、琴音が先を歩く。


「あ、訪問着……」

 真緒は色留袖も訪問着も持っていなかった。もちろん、そんなフォーマルな着物に合わせる帯も。式に出るのはいいとして、こっちの方にレオンが首を縦に振るか。

 宝くじでも当たらないかなぁ、と真緒は小さくため息をついた。

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