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 サクラが想像していたほど、岩場の道は険しくなかった。たしかに数メートルさきは断崖絶壁だんがいぜっぺきではあった。が、よほど下手に歩かないかぎり、落下することはないとわかった。


 それよりも、びたくさりを握る感覚の方がサクラには受け入れ難いものであった。手が汚れるし、錆び臭くなる。アルコールティッシュを大量に持参しておいて正解だった。


 ごつごつとした足裏の感触が終わり。

 青々と茂る野芝のしばを踏んだ。

 日光がまぶしい。

 肌が焼けるほどに強い日差し。

 しかし山頂の空気は冷たく。

 太陽の熱がむしろ心地よい。

 開けた視界。

 眼下に広がる、大絶景。

 サクラは疲れを忘れた。走りだした。


「着いた! すごい! 綺麗! 本当に綺麗!」

「着いたな」ソクラは微笑んだ。「みな、よくがんばった。昼食にしよう」



 昼食の準備となると、メイドたちの動きは手慣れたものであった。ドリシラが陣頭指揮じんとうしきをとるようにして、セリカとアイリーシャが火の準備を進める。サクラとタイガがレジャーシートを広げると、その上に、ソクラが運んできたアルミ製の折りたたみテーブルが置かれた。


 あとはそれぞれが分担して運んだ、おにぎり、ウィンナー、卵焼きなどが入っている弁当箱。そして現地で調理するための生野菜や、空の両手鍋などがシートの上に並べられた。


「ガスバーナーコンロ……。へぇ……」アイリーシャは物珍しそうに、手に取ったそれを眺める。「こんなに小さなコンロで、どこでも料理ができるなんて。すごい時代になったもんだね」

「たしかに」セリカもバーナーを見つめて、「かわいらしい反面、火力が心配になりますね……」

「爆発とかしないかな」

「日本製のコンロらしいですから。たぶん大丈夫でしょう」

「日本の物は安心安定だからねぇ」


 ふむふむ、と納得しながら、アイリーシャはコンロをテーブルの上に置いた。するとふたりの横にタイガが来た。その手には、もうひとつのガスバーナーコンロが。


「これは、どこに置いたらいい?」

「ここにどうぞ」セリカが指をさす。「あ、もうちょっと、ここのコンロから離して置いてもらえたら……」

「う、うん」タイガは位置を調整する。「ここらへんで大丈夫かな?」

「はい。ちょうど半々くらいで、別れて食べることができそうですね」

「にしても、わざわざコンロまで持ってきて。山頂でなにを食べるの?」


 冷めた弁当だけではだめだ! 

 絶対に現地で調理したものを食す! 

 それ以外認めん! 

 ソクラがそう言ったおかげで、全員の荷物がいくぶん増えたのである。


「水の重さと相まって、調理器具をここまで運ぶのは辛かった……。正直それほどの価値があるのかな? と僕は思ったよ」


 タイガは嫌味な小声で、つらつらと。


「あったかいものなら、家でいくらでも食べられるじゃないか。リュックが重くなるってことは、それだけ道中の苦労が増えるってことだよ。父上はいったいなにを考えているんだろう。よく社員が、父上の発想についていけないって言う、その感覚がわかる気がするよ。だって、そんな小さなコンロで作れるものなんて、たかが知れているじゃないか」


 胸に溜まっていた文句を吐き連ねてゆくタイガ。そんな彼の話を聞いているメイドのふたりは、首を横に振りつづけている。その表情は恐怖と相対あいたいしているときのものだ。まるで、死亡フラグが立ったホラー映画の登場人物を、見ているように。


 アイリーシャは黙して語る。

 タイガさま、だめ、それ以上言ってはいけない! 

 セリカもおなじく暗黙の中で訴える。

 タイガさま、後ろ、後ろをご覧になって!


「まったく。父上の思いつきも困ったものだよ。山頂からの景色が素晴らしかったから、まだ良かったものの……。メイドのみんなだって疲れているのに、料理が大変じゃないか。ねぇ、セリカ。そう思わ——」


 ついにタイガは殺気を感じた。

 背後だ。

 背後に誰かが立っている。

 ふんが、ふんが、と荒い鼻息の音が後頭部に触れる。

 この威圧感。

 見ずともわかる怒りの形相ぎょうそう

 ぎこちなく、タイガは後ろを振り返る。


「あ……、父上……。いつからそこに?」

「うむ」ソクラは腕組みをして、「水の重さと相まって。ここまで調理器具を運ぶのは大変だった——。おまえがそう言ったあたりから。だな」


 謝るまでもなく、ソクラの雷が落ちた。

 怒号の内容は、タイガ隊員、スープパスタ没収!



 ドリシラに教授をたまわりながら、タイガはせっせと昼食の準備を手伝った。本来であれば、メイドたち以外は休んでいてよかった。が、タイガは自身の失言を返上するために、自ら調理を手伝うことを申し出たのだ。いわば、贖罪しょくざいの機会を得るために。


「だー! タイガさま! 水をこぼさないで! 貴重なんです、水が!」

「すいませーん!」

「あー! タイガさま! 包丁は猫の手じゃないと指切ります!」

「はいぃ!」

「もー! タイガさま! ベーコンが全部くっついています! ちゃんと最後までお切りになって!」

「ごめんなさーい!」


 ドリシラに叱られながら、わたわたと慣れない様子で料理を手伝うタイガ。そんな我が子を見たソクラは、これはこれでい経験ではないか、と思えた。セリカとアイリーシャも賑やかな調理を楽しんでいるようだ。


 一方のサクラは、奥にある展望スペースにただひとり、ぽつんと立っていた。山頂からの景色を目に焼きつけているのだろうか。その後ろ姿に、亡き妻の面影を、ソクラは感じた。


「やはり、似ているな……」


 ゆっくりとサクラのもとへ歩きだした。片方のつま先を立てて、木製のフェンスに両腕を置いているサクラの様子は、亡き妻の立ち姿と、まったくおなじであった。


 一歩ずつ娘の背中に近づくたび、様々な思い出がフラッシュバックした。ソクラの目頭が、ほんのりと熱くなる。


「どうだ。来てよかったか?」


 フェンスに両手を乗せながらソクラが言った。腰ほどの高さしかなかったので、中腰のような姿勢になった。


 するとサクラは横に一歩ずれた。

 かなり、わざとらしい動きで。


 負けじとソクラも躰を寄せる。さらにサクラがずれる。ソクラは追いかける。またずれる。追いかける。ずれる、追いかける——。


「もう!」ついにフェンスの端まで、サクラは追いこまれた。「ついてこないでよ!」

「いいではないか。これでも加齢臭には気をつけているぞ?」

「存在がもう臭いの!」

「そこまで言うか」


 この気の強さも亡き妻そっくりだな、とソクラは思う。


「なぁサクラ」

「なに?」

「すこし、話をしよう」

「もうしてるし。したくないけど」

「私の、大好きな人の話だ」


 いままでまっすぐに景色を見ていたサクラの視線が、すこし沈んでしまった。


「父さんの恋愛になんか興味ありません」

「だが、母さんには興味があるだろう?」

「……」サクラは沈黙してから、「あるけど。いまさらなにを聞いたって、母さんは帰ってこない。私が殺したようなものじゃない」

「それは違うよ。サクラ」


 ソクラは、サクラの横顔を見た。


「おまえを身ごもるまえから。カレンの病状は悪化していた。余命は二年と医者には言われていた。サクラなら、もうわかるよな? 人が子供を産むには、約一年の時間が必要だ」

「それくらい知ってます」

「だから、サクラは関係ないんだよ。サクラが産まれたから、母さんが死んだのではない。母さんは自分の命が尽きるまでに、サクラを身ごもること。そして産むことを決めたんだ。それをげたんだよ」


 がっ、とサクラの視線がソクラを突き刺した。


「なんで言わなかったの」

「すまない。時期が、あると思っていた」

「子供あつかいしないでよ……」

「すまない……」

「でも、私を産まなかったら。お母さんはもっと長生きしていたんじゃないの?」

「それについては、因果を完全に否定することは難しい。たしかに、子供をひとり産むというのは、女性の肉体に相当の負担がかかる。だが、お母さん——カレンは言っていたんだ」


 ——なにかを恐れて。その場でうずくまって。ただ時間が過ぎるのを感じていても、生きている気がしないの。生きた証を残したいの。誰がののしったとしても。ばかにしたとしても。結果が悲しいものだとしても。やらなかった、やろうとしなかった、その後悔に苦しむよりは何倍もましだと思うの。きっとそうよね、ソクラ。そう思わない?——


「サクラ。見てほしいものがある」


 そう言ってソクラは、登山着の内ポケットから一枚の写真を取りだした。まだ、サクラには見せようとしない。



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