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「こんなおむつを一週間も履いてないといけないわけ!?」

「わたくしも、毎月履いておりますから……」

「え、セリカもなの?」

「はい、アイリーシャも、他の女性たちも。みなおなじです」

「そういうもんなの……」


 腕組みをしながら片方のつまさきをとん、とん……。それから深い呼吸をひとつして、やっとサクラの心が落ち着きはじめた。


 すると、がばっと勢いよく目を覚ましたのはソクラであった。


「ああ! 生きているのか、私は!」

「おお、ソクラさま」クルーゲンは両手のひらをソクラに向け、「そんな急に起き上がられると逆に不安になりますわぁ。もうすこし寝ていてください」

「なにか……、夢を見た」ソクラは片手をこめかみに当て、「タイガ……。そう、タイガだ。あいつが私にプロレスの技を仕掛けるという、夢を……」


 クルーゲンとセリカは目を合わせた。そしておなじ事を考えた。ソクラの記憶があいまいになっている、という事実を暗黙で確認しあった。


「ソクラさま、疲れておられるのですなぁ。さっき廊下にあったバナナの皮を踏んで、転んでしまったのですがぁ。それくらいに注意力が欠けております。今日は早よぉ、寝てください」


 明らかな嘘だ。クルーゲンはなに食わぬ顔で言った。それを黙って聞いていたサクラは、横に顔をそむけた。なんとか笑いを堪えている様子だ。


 セリカはポカンと口を開けて、表情のやりばに困っている。ソクラをぶっ倒してしまったのは他でもない、自分セリカである。


「ああ、そうだ、サクラ!」


 ソクラはキョロキョロと視線を振りまわし、ソファに座っているサクラをすぐに見つけた。


「なんだったか、そうだ、ノロウイルスだ!」

「そんなもの罹ってないわよ」サクラは半目で父をにらむ。

「吐けない……、と言っていなかったか?」

「パンツを履けない、って言ったの」

「パンツ!?」


 ソクラの大声が広いリビングに響き渡る。


「そんな単語を三回も室内にこだまさせないでよ……」サクラは呆れたような口調とともに立ちあがり、「寝る。もう一〇時半だよ」


 すたすたとその場を去ったサクラであったが、その歩き姿は若干ぎこちなかった。初めて着用したナプキンに違和感を感じている様子だった。


 そんな我が娘の後ろ姿を見たソクラは、ここにきて、初めてなにかに気がついたような顔をしている。


「ああ……、おお。もしや、あれか。生理か?」


 なぜだろう。いつもは威厳いげん凛々りりしさを振りまくソクラの顔が、いまはひどくマヌケに見えて仕方がない。


「歩き姿で察するほどの洞察力をお持ちなら、もっと早く察してくださいまし……」セリカは低めの声で、「それと、サクラさまはお父上に知られたくない様子でした。そのあたりもご留意いただけると助かります」

「すまない。取り乱したな……。そうか、サクラもいよいよ大人になってゆくのだな……」


 ソクラは遠い目をした。我が娘の成長を喜ぶ微笑ましい顔を見せた。


「ところで、セリカ」

「はい」

「バナナの皮は処理してくれたか?」

「はい、もちろんです」

「うむ。取り乱していたとはいえ、バナナの皮で転ぶなど羞恥しゅうちこの上ない。もっと体幹を鍛えねばな」


 そしてソクラは、そういえば……、という顔をした。


「セリカに羽交い締めをされていたような記憶があるのだが……」

「いえ。気のせいです」セリカはキッパリを答える。「我が主人を拘束してからのバックドロップをするようなメイドは、メイドとして失格でございます。ありえません」

「そうさな……」


 ソクラは不思議そうな表情に変えた。

 しかし、納得はしている様子だ。


「セリカが、そんなことをするわけがないな」ソクラは顎に指を当てて、「しかし、バナナの皮というものは実に恐ろしい。しばらくバナナの購入は禁止しよう」


 ぷふっ、と床の方から音がした。音を出したのはアイリーシャだ。すこし前に目を覚ましていたが、空気を読み過ぎてしまい、起きるに起きられず。目をつむったまま会話を聞いていたのだ。そして笑いが堪えられなくなって、吹きだしてしまった。


「アイリーシャ、起きていたの?」セリカが顔を覗きこむ。

「痛いところは、ありませんかぁ?」クルーゲンが言った。

「おお、アイリーシャ。おまえもバナナの皮にやられたのか?」


 むくっと上体を起こして、アイリーシャはセリカの顔を見た。無表情かつ、冷徹な視線をまっすぐに送っている。


「な、なに、アイリーシャ」


 もしや、バックドロップの事実を言ってしまうのでは……! セリカは心臓に汗をかきはじめた。ゴクリ、と唾を飲む。


「セリカさん、ご主人さま」


 一人ずつ、視線をずらし、見つめながら。

 アイリーシャはそれぞれ名を呼んだ。


「私、この家に来て本当によかった」


 意外な一言であった。


「それは、どうゆう?」


 セリカが尋ねると、アイリーシャは数秒考えこんだ。


「この家にいるだけで、いろんなことが起きるでしょう? 私、心に病気を持ってるから。静かな環境とか、なにもない日常とか。たぶんだめなんだと思うの。色んなことが起きてしているうちに、自分の病気のことを忘れてしまう。だからね、それでね、そう思った」


 それを聞いた他の三人は、安心したような笑みを浮かべた。


「好きなだけここにいていいのだぞ、アイリーシャ。もしもここの生活が嫌になったり、自分らしく歩める道を見つけたのなら。そのときは、いつでも言いなさい。我が娘とおなじように、おまえの旅路をできるかぎり応援する。そしてまた帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきなさい。そのつもりでいなさい」

「ありがとうございます」アイリーシャは、胸にこみ上げるものを感じた。「身に余るお言葉です。ご主人さま……」


 うむ、と頷いてからソクラは立ち上がった。


 下半身を隠していたタオルケットが、はらりと床に落ちる。全員の視線が彼を見上げた。やはりこの家の主人は大きい。心も、躰も。


「なにもない日常などつまらない。安穏あんのんにばかり浸っていると魂が死んでしまう。その点、この家はトラブルが多い。それを乗り越える楽しみもまた一興であろう。その都度に、一家全員の成長があろう」


 逞しい声でソクラが言った。

 拳をぐっ、と握りしめてガッツポーズ。

 ——そして下半身に寒気を感じた。


「……ところでクルーゲン」

「はい」

「なぜ私はパンツ一丁なのだ?」

「ああ、ええとねぇ。ご主人が倒れましたでしょう。そんで気を失っているあいだに失禁をしてしまったのですがぁ。セリカお嬢がズボンとパンツを洗濯して、わたくしが替えのトランクスを履かせましたぁ」

「そうか……」


 かっ、こっ、と柱時計の音が耳に響く。

 それくらいに静かな空気が流れた。

 気まずい。実に気まずい。


「サクラさまの様子が気になるあまり、おトイレを我慢してたのでは?」


 気を遣う声でセリカが言った。


「そうさな……」ソクラはガッツポーズを下ろし、「イヴァンツデールたるもの、失禁を恐れていては娘を守れないからな……。自分のことながら、おそらくは我慢をしていたのだろう。すまない、アイリーシャ。粋なことを言っておきながら、早速主人らしからぬ無様ぶざまを見せてしまった」

「いえ、いえいえ。ほんと、この家にいるだけで楽しいです。飽きないです」

「うむ。飽きてしまうような、つまらない人生は良くない」


 少々考えたソクラは、はたと思いついた。


「そうだセリカ! これから私は、突然パンツ一丁でリビングに現れる時間を、週に何度か設けようと思う。それでこの家が明るくなるならば、素晴らしいことではないか? みなの生活にも刺激が加わるだろう!」

「まったく、素晴らしくないです」セリカは、いまだかつてないほどに冷たい口調で、「主人としての威厳をどうかお守りください。そんなことをしたら、誰も言うことを聞かなくなります」

「そうさな……」


 空気を抜いた風船のように。

 ソクラは消沈してしまった。


「いい案に、思えたのだがな……」

「本気で落ちこまないでください。なんだか、こちらが悲しくなります」


 ふたりのやりとりを聞いて、アイリーシャはほっこりとした。心の底からの笑みを浮かべた。

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