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「いいのだよ、セリカ」腕組みをしたまま、学習椅子に座るソクラがなだめる。「あれはタイガが悪い。正気を失っていたとは言っても。女性を襲っちゃったのが、悪い」

「お兄ちゃん、今日拐われてたんでしょう?」テレビのリモコンを操作しながら、サクラの冷たい口調だ。「それなのに普段どおりに生活させるから、こんなことになったのよ。元をたどれば、お父さんが悪い」


 慣れた手つきで録画予約を完了したサクラは、ふわぁ……、とあくびをして、部屋の出口に向かう。


「寝るのか?」


 娘の背中に向かって、ソクラが言った。


「うん。寝る」

「さっき、この部屋のドアの前で、私たちがなにをしていたのか、訊かないのか?」


 ぴたりと立ち止まって、サクラは振り返った。


「お兄ちゃんの精神が壊れた。お兄ちゃんは羊を数えた。それがジンギスカンになった。それから不気味に笑い出した。その声をお父さんが偶然耳にした。怖くなって、メイドに助けを求めた。以上」


 テンポ良く言ってから、くるりと踵を返し。再びサクラは部屋の出入り口の方を向いた。普段はツインテールに結んでいる金色の髪はいま、ストレートに下ろされている。天使の輪がよく見える。最近はシャンプーやヘアオイルなどに拘るようになってきた。こうして大人びてゆくのだな……、とソクラは、娘の背を見る度に感じていた。


「愛犬のラッセルが死んだときとおんなじ。それと、たぶん、お母さんが私を産んだその日に死んじゃったときも。ジンギスカン症候群を発症していたに決まっている。タイガ、弱いのよ。すぐに騙される。意気地なし。お父さんよりもさきに死んじゃうかも」


 言い捨てて、サクラは部屋を後にしようとした。


「サクラ」


 いつになく鋭い声色で、ソクラが呼び止める。


「なに?」サクラは足を止めた。

「いくら家族とはいえ、言っていいことと悪いことはある。人の死を軽々しく話すのは、つつしみなさい」


 しん……、と空気が止まった。緊張が走る。親子喧嘩に発展しそうな、張り詰めた空気が漂いだした。


 アイリーシャがここにいなくてよかった、とセリカは思った。彼女はいま、雷に起こされたマーカスと共に、屋敷内のブレーカーを確認してまわっている。


 ああ見えてアイリーシャは、周囲の雰囲気に感化されやすいのだ。だからこそ、妙なリズムで会話をするくせがある。一見、自己中心的に感じられることもあるが、それは彼女が自身の心を守っている副作用のようなもの。


 ただでさえ感受性が強いため、あえて場の空気を読まないようにしている。それによって彼女は、心の消費をなるべく抑えているのだ。しかし明らかに険悪なムードが漂った場合。アイリーシャの心は完全にフリーズしてしまう。膝を抱え、肩をガタガタと振るわせ。焦点の合わない視界は、足元の床を凝視する。


 その点も考慮して、ソクラは発言したのである。

 いま、ここにアイリーシャがいないからこそ。

 父として、強めの口調で、サクラをいましめた。


「お兄ちゃんは、まだいいよ」サクラは唇を噛み、「お母さんと話したことがあるんだから。私なんか、なにも覚えてない。羊水の温度も、お腹越しに聞いていたであろう、お母さんの笑い声も。鼻歌も、おならの音も。お腹から出てきて、すぐに細長い音が鳴って医者や看護婦が大慌てして、私だけ別のカプセルに入れられて。その二、三日後にお母さんは棺桶に入って、みんなが泣いてさよならしてたのに、私だけなにもわかんない顔で笑ってたのかもしれない! なにも、なにも……、覚えていないっ!」

「サクラ……」


 ソクラは椅子から立ち上がった。

 その表情は、申し訳なさと不甲斐なさで破裂しそうだ。


「すまない、余計なことを言った」

「いい……。おやすみ」


 ずかずか、と乱暴な足取りで。

 サクラは自室へと戻った。


「はぁ……」ソクラは頭を抱え、椅子に座りこむ。「今日、二度だな」


 これは平手打ちで気絶したタイガ・ジンギスカンどころではない……。そう思ったセリカは、迷わずソクラのそばに寄った。


「二度目、といいますと?」

「さきほどもだ。マーカスに余計なことを言った。彼を意気消沈させてしまった。どうして私はこう、正論で相手を苦しめてしまうのだろうな……」


 ため息を交えながら、ソクラは肩を大きく落とした。


「正論だからこそ、ではないですか?」セリカは主人を見つめる。「人間、自分を正そうとするのも、されるのも……、嫌なものです。しかしながら、磨かれて、さらに美しくなるには痛みが伴います。心を削られて、人との摩擦に耐えて。はじめて本当の自分に気づけるのでは? ソクラさまは、みなに笑顔でいてほしいという思いが人一倍強いのです。だから厳しいのです。真剣、なのです……」


 そしてセリカは、優しく微笑んだ。


「その後のケアは任せてください」

「すまない……。頼ってもいいか」

「もちろんです」

「サクラは、このまま寝付けないだろう。彼女が眠るまで、そばにいてやってくれ」

「はい、そういたします」

「タイガにも悪いことをしたな……。伝統や格式に囚われるマーカスをさとしておきながら、私こそが古き考えに固執していた。せめて拐われたその日くらいは、鍛錬を休ませることにしよう。時として、文武両道よりも大切なものはある。いまさら、だがな……」


 丸まってしまった背中を正しく直して。ソクラは、寝ているタイガを見た。


「……生きているか?」

「はい。急所は外して叩いたので、大丈夫かと」


 すや、すや、とタイガの寝息が聞こえる。


「くそオヤジ……、本の角で、殴れば、一撃、で……」


 寝言も聞こえた。


「四の字固めをしてもいいか?」ソクラの全身から慈悲じひが消えた。

「今日は、堪えてください」セリカは真顔で言った。「タイガさまの明日のスケジュールに、四の字固めの時間を入れておきますから」



「サクラさま?」セリカはドアを優しくノックして、「入ってもいいですか?」


 返事はない。もうサクラは寝ているのでは、とセリカは一度考えた。しかしサクラが感情を乱してから、一〇分と経っていない。こちらの声に気づいてはいるが、あえて無視をしている。そう考えるのが妥当ではないだろうか。


「入りますよ……?」


 そっと声をかけてみる。ドア越しの返事がないというだけで、サクラとの距離がずいぶんと遠く感じた。自分でさえそう思うのだから、実際にサクラと言い合いをしたソクラは、どれだけの距離を感じているだろうか。


 明日の朝、普段どおり一家全員で朝食を摂られるように、心のわだかまりをすこしでも解消する。家族の距離をすこしでも縮める。それもメイドとしての勤めであろう。もとい、ひとりの人間としての勤めでもある。


 おそるおそるドアを開けると、部屋の照明はベッドサイドランプひとつであるとわかった。ほんのりとしたオレンジ色の光が、ドアの隙間から溢れてくる。天蓋てんがいカーテン付きのプリンセスベッドの上に、サクラの姿があった。


 身体を横にして、ふわりと膨らんだ羽毛布団にくるまっている。ドアに背を向ける方向で寝ているため、セリカからは彼女の後頭部しか見えない。どのような顔をしているか、まぶたは開いているか……。想像するしかない。


 ただ、サクラは真っ暗な部屋でないと眠れないのだ。すこしの明かりでも目が覚めてしまう、と彼女は言う。ランプの明かりが見えるいまは、おそらく起きているはずである。


「失礼しますね」


 部屋に入ったセリカは、余計な足音を立てぬよう、くるりと踵を返しながらドアを閉めた。ドアノブの音も鳴らないように、優しく手を離す……。すり足でべッドの側まで歩き、ピンク色のカーペットの上に正座をした。

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