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「私の気持ちが、許さないのだ」

「気持ち……?」

「さきにも言ったが、おまえには感謝している。誰よりも早くタイガを救ってくれた。自分のからだよりも重い金棒を振りまわして、たったひとりで。タイガを無傷で、連れ戻してくれた」


 どう返したらよいかわからず、セリカは赤らめた顔を伏せてしまった。嬉しさが半分、自分がゴリラのような猛獣に思えてしまった、そんな恥ずかしさが半分……。


「ひとり部屋のことを、マーカスに言うのはこれからだ。どうにか理解をしてもらうよ。心配はいらない」

「本当に、よいのですか?」

「ぜひ、そうしてくれ。おまえには広い部屋とベッドで、ゆっくりと躰を休めてほしい。アイリーシャにも、そろそろひとりで寝てもらわないとな。マーカスのことは私に任せろ。カタログを二冊渡すから、アイリーシャと一緒に好きな壁紙と、好きな床板を選びなさい。来週には施工をはじめられるように、みなで準備をしていこう」

「……本当に、本当に。感謝いたします、ご主人さま」


 九〇度の角度で上体を曲げ、セリカはふかぶかと頭を下げた。そんな彼女を見たソクラは、より一層に優しい笑みを浮かべた。それは間違いなく、我が娘に対する笑顔とおなじものであった。


「感謝しているのはこちらだよ、セリカ。息子を助けてくれて、本当にありがとう」



「ぬあーんですとお!」


 四〇畳のリビングルームで、七〇歳のタキシード姿の男がアゴを外す勢いで叫ぶ——。この家ではよくあることだ。


 執事のマーカスは、ソクラが産まれる前からこの家で生活をしている。そして彼には、少々口うるさい部分がある。


 タイガが産まれた、ちょうどそのころ。ソクラは口うるさい執事のことを、あまり良く思っていなかった。マーカスという本来の名を呼ばず、老害ろうがい、老害、とばかり呼んでいた。


 そしてその影響をいちばんに受けたのは、言語を習得している最中にあった、赤子のタイガである。


 マーカスの顔を見るや否や、赤子のタイガは、ろうがい、ろうがい、と言って彼の顔を指差すようになってしまった。マーカスは、必死に自身の名前を教えようとした。ろうがいじゃないですぞぉ、おぼっちゃま。わたくしめは、執事のマーカスちゃんだよぉ。


 しかし最初に覚えたこそが本名であると、幼いタイガの純真無垢な心は信じてやまなかった。幼少のタイガが彼を呼んだなかで、いちばんに本名に近かったのは、「ろうがいちゃん」であった。


 つまり、マーカス自身がマーカスですぞぉ、と言っていたことが仇となったのだ。マーカスの部分を無視してのところだけを、幼き日のタイガは拾ってしまったのである。


 四歳でと呼ぶようになってから、小学一年の夏ごろまで、タイガはマーカスの本名を言えなかった。すくなくとも二年間は、ろうがいちゃんと呼んでいた。


 この、ろうがいちゃん事件に関して。

 ソクラはいまもこう言っている。


「あのときのタイガは天才だった」



「わたくしめは六〇年以上、屋根裏部屋の六畳間で暮らしております。それなのに、ついこのあいだイヴァンツデールのお抱えになった年端としはも行かないメイドが……。わたくしよりも豪勢なお部屋で暮らすなど……」


 腕組みをして、片足のつま先をカスタネットのように上げ下げしながら、マーカスはぐちぐちと文句を言っている。黒い革靴の底がコツコツと一定のリズムを刻んでいる。


「おまえはよくそう言うがな、マーカス」ソファに深々と座り、新聞を広げながら、ソクラは冷静な口調で話す。「なにも屋根裏部屋で一生を過ごせと命令したわけではない。おまえが十代のころは、この家の住みこみメイドは大勢だった。部屋の数は限られていた。男であり、雑用係だったおまえが屋根裏部屋で暮らすことになったのは、致し方ないことではあったが……」


 新聞のページを一枚めくって、ぱん、と紙面を鳴らし。ソクラは新聞のしわを整えた。


「それは祖父の代の話だろう? 父の代にもなれば、屋根裏ではない一室を提供すると言われたことが、一度や二度、あったはずだ」


 それをかたくなに断ったのは、マーカス自身なのだ。ある意味、身分不相応な屋根裏で暮らすことをいま現在も選んでいるのは、他でもない。マーカス自身なのである。


「我が家のメイドはいま、たったの三人だ」ソクラは口調を変えずに、「時代の流れというものもあるが、自らの意思でメイドになろうと考える娘は、めっきりと減ってしまった」


 男が外に出て、女は家を守る。そのような既成概念きせいがいねんは女性の社会進出と共に薄れていった。住みこみのメイド業に従事しようと考える女性は、よほどの理由がないかぎり現れない。


 両親を亡くして身寄りがない。あるいは、心身にハンデを抱えていて、普通の仕事に就くのが難しく、頼るべき親類もいない……。そう言った事情を抱える未成年の女子を、行政から紹介してもらうなどして、やっと専属のメイドを雇える。それが現代貴族の現状なのだ。


「つまり、本物のメイドは貴重なのだよ、マーカス。たとえば、この時勢に、メイドになろうと考える娘がいたとする。彼女たちが向かうのは、日本の秋葉原という街だ」


 メイドの語源は「Maiden」である。

 もちろん、これは日本語ではない。


「一時的にメイドの服を着て、一時的に大勢のご主人さまに従事する。それが日本のメイドだ。それに憧れる女子が、日本はもとい、諸外国にもいるらしい」

「なんですかそれは」マーカスは顔を硬直させ、「一時的なメイドなど聞いたことがありません。住みこみではないのですか?」

「住む場所は別にある。彼女らのほとんどは、一般の民だ。自宅で寝泊まりをしている。メイド喫茶という名の飲食店に出勤した途端に、メイド服を着て、話し方も丁寧になる。そういう仕事があるのだ」

「飲食店!?」マーカスは白目をいた。


 それどころか、ツンとデレという、二種類の態度を使い分けるメイドもすこし前の日本にはいたらしい。と、ソクラはつづけた。


 客のオムライスに、とんでもない量のケチャップをかける。アイスコーヒーを注文すると、差し出されたグラスには、氷の浮いたカレールーが入っている。さらには終始暴言とモラルハラスメントで客の精神を痛めつける。などの暴挙を働いておきながら、客が帰るその刹那。ま、また来てくれないと許さないんだから……。などと甘えてくる。そして客は喜ぶ。


 そのような現象が日本であったらしい、と。ソクラは口調を変えず淡々と説明をした。そしてその現象は、妹系のメイド喫茶で発生していたらしい、とも付け加える。


「そこに来る客人が、全員ご主人さまどでも言うのですか!? そんなおかしな話が……」

「あるのだよ、マーカス。時間と共におまえの頭が白くなって、頭頂部の肌が常時確認できるようになったのと、おなじように。時代は粛々しゅくしゅくと流れてる。さまざまな変化があろう。なにも、貴族に一生を捧げるばかりがメイドではない」


 住みこみで従事するのはまっぴらごめんだが、一時的にでも、メイドになってみたい女子はいる。貴族ではないが、一時的にご主人になりたいと切望する男がいても、おかしくはない。


「セリカにも、アイリーシャにも。もちろん、執事であるおまえにも。この家から出てゆく権利はある。奴隷どれいではないのだから。しかしマーカス。おまえは自分を含め、彼女らのことを奴隷のように考えているのではないか」


 はっきりと、意図的にそう考えていたわけではない。が、マーカスの心臓はぎくりとした。戦争孤児であったマーカスは、イヴァンツデール家がなければ、成人を迎えることなく死んでいた。それか、人ならざる道を歩んでいただろう。


 マーカスにとっては、この家こそが命綱だった。万が一、主人に捨てられてしまえば最後。商店街の路地裏に投げ捨てられたゴミ袋のかたわらで、残飯を握りしめながら、野垂れ死ぬしかないと思っていた。


 学も特技もない自分を置いてくれるイヴァンツデール家こそが、自分の人生そのものだった。だからこそ必死に仕えてきた。雑用係から、使用人フットマンを経て、最後は執事になった。


 お見合い結婚や就職を理由に、メイドがひとりふたりと家を出てゆくと、マーカスはその度に、恩知らずめ、と。心のどこかで思っていた。それは単にマーカス自身が時流に取り残されていただけであった。


「どうだ。そろそろ、屋根裏部屋から降りてこないか」


 そう言ってソクラは新聞紙を綺麗に畳み、あでのある木製テーブルの上に置いた。空になった手を組んで、左側に立っているマーカスに目をやった。

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