第35話冴えない大学生はその名を呼ぶ

 やけに暑いと思って目を開けるとその先には知らない天井が待ち受けていた。

 暑いのは夏の夕暮れ時に分厚い羽毛布団をかぶっていたからのようで、そいつをバサッと取っ払いつつ体を起こす。

 寝ぼけ眼で視線を巡らせるも、いまだに自分がどこにいるか分からない。


 ......保健室じゃ、ないよな。

 というか、もはや大学の中でさえないのかもしれない。学校内にこんな生活感あふれる部屋があるとは思えない。

 でもさっきまで俺は大学にいたはずで、そこで木村と喧嘩する流れになって、それでたしか――


「――お、佐伯起きてるじゃん」


 と、不意に透き通るような美声が耳朶を打った。

 俺はなんとはなしにボケっとした頭のまま声の方向へ首を回し、


「小幡......?」


「おはよ、よく寝てたね」


 外から来たのか汗で前髪がぺたりと額にくっつき、その頬はほんのり紅潮している。

 そのおかげか滴る汗をぬぐう仕草ひとつ取ってもどこか色気がにじみ出て、なんというかこう、色々と刺激的だ。

 思わずその様子に見とれてしまいそうになるが、ハッとして視線を小幡からそらした。


「な、なんでいるんだよ......」


「なんでって、佐伯がタックルの勢いで気絶しちゃったから、そのお世話しなきゃいけないでしょ?」


 こともなげにそう言うと、小幡は手に持っていたビニール袋をカサリと持ち上げて見せた。おそらく中身は冷えピタとかなのだろう。


「気遣いはありがたいけど、もう大丈夫だ」


「そう?」


「ああ、ぐっすり寝たしな。だから帰っていいぞ」


 正直に言うとまだもう少し寝ていたい気分なのだが、小幡の前で寝顔をさらすのは何となくいやだ。

 べ、べつに自分の無防備な寝顔が見られるのがいやとか、そんな乙女チックな理由じゃないんだからね! ......なに言ってんだ俺。

 しかし小幡は俺の言葉を無視してその場から動こうとしないどころか、近くにあった椅子にちょこんと腰かけた。

 そしてきょとんと首をかしげる。


「帰るも何も、ここ私の部屋なんだけど?」


 ............。

 え?


「え?」


「アメフト部の人たちに運んでもらったんだけど、学校から一番近いのが私の部屋でさ」


 その説明を聞いて、ゆっくりと状況を理解し始める。

 ......つまり、いま俺が寝転んでるこのベッドは、


「なんか、自分のベッドに自分以外の人が寝転んでるのって不思議な気分だね」


 瞬間、俺はベッドからはね起きようとして、しかし腕に全く力が入らないことに気付いた。

 すると当然、毎晩小幡の頭を乗っけている枕に顔面から突っ込んでいくわけで、


「あらら、大丈夫? まだ寝といたほうがいいって、ほら」


「......っす」


 小幡に手を借りてまたもやベッドに寝転ばされる。ぐう情けない。

 しかもそのせいでさっきの『大丈夫』発言が嘘だとばれてしまった。

 すると、気味が悪いくらい優し気な表情で小幡が俺の隣へやってくる。


「まあさっきは頑張ったしね。ゆっくり休むといいよ」


 聖母のような微笑をたたえながら俺の頭に手を伸ばしてくるのをやんわり拒絶すると、すこし不満げな表情を見せるが、すぐに今度はいたずらっぽい表情に変化する。


「ところで、さっきの佐伯のうめき声すっごい良かったよ~」


「さっきの?」


「そうそう。――うぐあっ! ってやつ」


「......バカにしてんだろ」


 俺の言葉を小幡は半笑いで『してないしてない! あっはっは!』と否定するが、うん、いまバカにしたね。

 しかもモノマネちょっとリアルっぽいのなんなんだよ、俺めっちゃ恥ずかしいじゃん......。


「ごめんごめんっ! ホントにあんな声出す人見るの初めてだったから、良いもの見たなぁって」


 目の端に浮かんだ涙をぬぐいつつ小幡は深呼吸して呼吸を整える。


「で、今頃だけどどっか痛いところとかある?」


「......」


 それはうめき声をバカにする前にやってもらいたいところだったが、今いちいち言っても仕方ないだろう。

 俺は少し体を起こしつつ応じる。


「強いて言えば首がちょっと痛いかな。でもたぶんすぐ良くなる」


「そっか。まあとはいっても一応湿布だけ貼っとこっか。――どのへん?」


 言われるがままに痛む箇所を教えると、コンビニ袋から取り出した湿布をべたんっと貼り付けられた。

 じんわりと冷たい刺激が浸透してきて、痛みが和らぐのと同時に少しずつに心に余裕が生まれ始める。


「......てか、なんで俺もタックル食らわなきゃなら無かったんだよ。木村だけでよかっただろ」


「喧嘩両成敗だよ。流石に気絶させる気まではなかったんだけどね。だから優馬はあのあとさっさと帰ってったよ」


「なんで俺のほうが当たり強いの? 普通逆じゃない?」


 アメフト部ということは、おそらくあそこにいたのは小幡のファンクラブ(的なやつ)のメンバーってことだろう。

 そうなれば小幡の悪口を言ったやつは許せないはずで、となると必然、俺よりも木村のほうに強く当たってしかるべきだ。


「佐伯が軟弱なだけじゃないの? 実際、気絶させちゃった子すっごい焦ってたし」


「知りたくなかったその事実......」


 手加減されて気絶したってこと? 俺その時木村からどんな目で見られてたんだ......。


「でもまあ、そんなこと気になら無いくらいにはさっきの佐伯はすごかったよ。優馬のことバカ呼ばわりする人、初めて見た」


 そう言って目を細める小幡は、後ろから差し込む夕日も相まって本物の女神のように見えた。

 しかし、一つ確認しておかなくてはならないことがある。


「やっぱり、さっきの話聞いてたのか」


 一応事前の予定では、万全を期するため木村を呼び出してもらった後、小幡には近くのファミレスで待機してもらうことになっていた。

 だからこそ俺はあんな、いま思い返せばこっぱずかしいことも言えたわけで。そこが狂うとちょっと気まずい......。

 でも、今の懸念はそれだけではない。


「はは......」


 その力ない愛想笑いで、俺は小幡がはじめからあそこで待機していたことを悟る。


「......じゃあ、木村の話も」


「うん、聞いてたよ。すっごい悪いことしてる気になった......」


 あまりにあっさりと答えられて、返す言葉が見つからなかった。小幡はぎこちない笑顔の仮面を張り付けたまま続ける。


「まあ、優馬にあんなこと思われてたのかって考えると、ちょっと......ううん、かなりショックかな」


「......」


「でもね、これでよかったのかもって思ってるよ。もし今日優馬の気持ち聞いてなかったら、今後きっとすごくつらい思いしてたと思うから」


「小幡......」


「なにそんなに弱気になってるの? 私は大丈夫だよ。――それに」


 小幡はそこで言葉を止めると、ゆっくりと顔を上げた。

 そしてまっすぐ俺の目を見て、


「それに、佐伯が代わりに怒ってくれたから」


『まあ、暴力は良くないと思うけど』などと冗談めかして続ける。


「でも、ありがと......」


 そういって向けてくる笑顔があまりに綺麗で、俺は思わず顔を背ける。

 ......ルールわかんねえけど、反則だろ、それ。

 ふと訪れた静寂が無性に居心地悪くて、痒くもないのにガシガシ頭を掻く。


「......それで、今後はどうしてくつもりなんだ?」


 木村がピンピンしていたということを考えると、きっとあいつは小幡とも顔を合わせているはずだ。

 そしてあんな場面を見られた手前、木村も小幡を素通りというわけにはいかない。いくはずがない。

 今はまだ夏休みだからごまかしがきくが、それもずっと続くわけじゃない。

 俺が尋ねると、小幡は難しい顔をして顎に手をあてがった。


「そうだねぇ、そういえばどうしよう」


「んな、他人事じゃないんだから......」


 あまりにすっぱりとした答えに肩透かしを食らった気分だ。

 もはやこっちが心配になるくらい軽い返事だった。


「まあでも、たぶん大丈夫なんじゃない?」


 そう言うと小幡は椅子からパッと立ち上がり、まるでハリウッド映画のワンシーンみたいに、俺の額に人差し指を突き立てる。

 そしてにこりと、今度はいたずらをする幼女のように明るい笑顔で、


「――なんたって、私にはたいせーがいるんだし」


 途端、窓から入り込む風がやみ、工事現場の騒音が止まる。

 ............。

 ......小幡の顔が今まで見たことないくらい、みるみるうちに赤く染まっていく。


「何とか言ってよ......」


 無理をおっしゃる。

 小幡のセリフを境にまた風が強くなり、工事現場がにわかに活気づく。

 ......なんてタイミングが悪いんだ。


「......まあ、なんだ。それは小幡の今後のことが決まってからでも、遅くはないんじゃないか?」


「ふーん、私にだけ恥かかせておいてよく言うね」


「お前が勝手に恥かいたんだろーが......」


 こんな感じだと木村にバカ呼ばわりされても仕方ないのかもしれないな、なんて考えていると、小幡の目がまっすぐじっと俺の目を見ていることに気が付いた。

 もしや今の自分の発言におかしなことがあったのだろうか。いま一度顧みてみても、特に気になる点は――


「――お前じゃないよ」


 ......そういえばこういうのもあったな。

 久々の指摘に若干の懐かしさを覚えつつ、謝ってからやり直そうとすると、小幡はめっとでもいうように人差し指を立てた。


「小幡、でもないよね?」


「......いや、だからそれはまだ――」


「――よね?」


 どうしてこういう時のプレッシャーだけは迫力満点なんだよ。

 木村もこいつを食らったら、きっと評価が激変するに違いない。

 ......いや、そうじゃなきゃ困るな。じゃなきゃ俺がただこういうのに弱いってことになってしまう訳で。

 ちょうどいいタイミングで風がやみ、工事現場はいったん休憩。

 俺は少し体の向きを変え、まっすぐ小幡と向き合った。



 そして――


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