番外編 撮影旅行②


「つっ、疲れた…………」


 月は肌触りが良く程よい弾力のあるソファに体を丸くして横になりつつ、大理石のローテ―ブルの上に盛られた色とりどりのフルーツをぼんやりと見つめていた。場所は由緒ある旅館のプライベートスイートルーム。大きなガラス窓の向こうはいつの間にか紅から夜の闇に変わっている。


「大丈夫? ムーンとの撮影が楽し過ぎて、調子にのってかなり付き合わせちゃった。疲れたよね」


 上から降って来た声に視線を上げると、ソファの裏側から覗き込んできたレックスと目が合う。


「……楽しかったのなら良かったです。私も楽しかったし、今はちょっと休憩してるいだけなので直ぐに復活します」


 撮影旅行当日を迎えた月とレックス。昼過ぎに現地に到着し撮影を開始した。動画のコンセプトは『ビデオを離さない彼女との特別な旅行』。レックスの架空彼女シリーズの一つだ。月はコンセプトに沿った映像を撮るために、カメラを構えている間ずっとレックスのをさせられていた。


 シックだけど上品で高級感が漂うスイートルームは建物の中の一室ではなく、一棟の家。しかも、家の周囲を囲う広々とした日本庭園は塀で外界から目隠しされており、旅館のスタッフですらインターフォンを押した後に塀の中から客が解錠スイッチを押さないと入れない。そんな、完全なるプライベート空間が大きな魅力の一つのこのスイートルームは著名人御用達とのことだった。和洋折衷の客室には内風呂、露天風呂、サウナが完備。ベッドルームは三部屋。中でもキングサイズのベッドが鎮座している二階の部屋はは、山河と共に観光地を見下ろす事ができる絶景スポット。間違いなく月にとって人生で最も贅沢な空間であった。


 そんな空間で始めは旅館スタッフによる案内をレックスが撮影。それが終われば、月がカメラを持って二人きりで撮影。月がカメラを構えている間、甘い言葉を囁かれ、極上の笑顔を向けられ、宝物に触るかのように手を伸ばされる。YouTubeの演者であるが故に大袈裟で糖分多めなレックスの言動を撮影であることを忘れて真に受けてしまう事数回。その度に月は大きく手振れして、レックスに謝ることになった。


 夕食の動画まで撮り終わった現在、月は慣れない撮影のせいで疲労困憊になっていた。明日には確実にカメラを構えていた右腕が筋肉痛になる事を確信出来るほど腕はパンパン。精神力もガッツリ使ったので、夕食が済んで、もう旅館スタッフに会うことがないと分かると一気に気が抜けて今の状態が出来上がったのだった。


 レックスはソファの裏から回り込んで来ると月の頭のすぐ横に腰掛けた。手が伸びて来て頭を撫でられる。


「……折角二人きりの旅行だったのに、ほとんど撮影に付き合わせる事になっちゃったね。ごめん。仕事ばっかりしている上に、滅多に出来ない外出にも仕事を持ち込む恋人なんて嫌だよね」


 聞き捨てならない台詞に月は自らの頭を撫でるレックスの手を掴んで、少し強めに握った。


「そんな事は一ミリも思っていません。人を笑顔にする仕事を全力でしている樹さんを私は尊敬しています。こうして一緒に居られるだけで充分嬉しいし、楽しいです。私のために仕事を疎かにされたら逆に怒りますよ」


 きっぱりと自分の意見を主張する。


 月は仕事に一生懸命なレックスの事が好きなのだ。一緒に居られる時間は短くとも、レックスはその短い時間に充分好意を示してくれる。欲を出そうと思えば幾らでも出せたが、今の幸せを噛みしめて満足することも月にとって難しいことではなかった。


「今日もカメラの前で楽しそうにしている松田さんを見ていられて幸せでした。だから謝らないで下さい」


 掴んでいたレックスの手を自らの頬に寄せ、軽く頬ずりする。すると見上げていたレックスが一瞬だけ切なげに表情を歪めた後、優しく笑んだ。


「俺の彼女が優しくて理解があってヤバイ。その上メチャクチャ可愛いんだけど、俺はどうするべきかな?」


「そんなの知りませんよ。可愛くないし……」


「月は可愛いよ」


 嘘ばっかり。照れから言おうとした台詞は声にすることが出来なかった。視界に影が差したかと思った次の瞬間、レックスの唇が月の口を塞いでいたからだ。


 お互い触れ合いに難い体勢でいたため、落とされたキスはすぐに終わる。けれど、月は真っ赤になった。その顔を見下ろしたレックスがくすりと笑う。


「まだ慣れないの?」


「……慣れましぇん」


「俺、付き合うようになってから会う度にしてると思うけど」


「……だって」


 情けない声を上げた月の上体をソファから起こさせたレックス。月の口が言い訳めいた事を口走る前にもう一度体勢になった二人の唇が重なった。


「んんっ」


 体を硬くする月をレックスが緩く抱きしめた。大丈夫だ、リラックスして、と言い聞かせるように月の背中に回った腕が優しく上下する。早く慣れて、と言外で言い聞かせるように触れては離れ、触れては離れを繰り返していると、徐々に月の身体から力が抜けていく。その隙を狙っていたかのようなタイミングでレックスが僅かに唇を離し、ここ最近キスをする度に言う台詞を囁く。


「月、しよ」


 月の身体に抜けていた力が一気に戻ってくる。しかし、何を言う前にレックスの舌が月の唇の境をなぞった。


 何の練習か。それは軽くはない深いキスの練習だ。恋人同士の触れ合いに不慣れな月をステップアップさせるために、レックスが工夫した結果出て来た単語が“練習”で、実質は“本番”だった。練習という単語で触れ合いのハードルを下げる事に初回で成功したレックスは味を占め、それ以降キスする度にこの単語を持ち出して月を懐柔していた。


 今回もまんまとその作戦に引っ掛かった月はレックスにされるがまま。ソファの上でおずおずと開いた口は分厚くて長い舌に好きなようにされる。体温も息も上がって頭が恋人の事しか考えられなくなる。そんな時間がしばらく流れ、月の身体の力みが再び完全に消える。すると、レックスはゆっくりと唇を離し、互いの鼻先を付けた状態でとある提案をした。


「お風呂入った後、ベッドで撮影の続きしてくれる?」


「……えっ?」


 ぼんやりとしたままの頭はレックスの意図が酌めない。そんな月にレックスは軽くキスを落とし、今度はお互いの顔がしっかり見えるくらいの位置まで離れる。


「恋人同士が旅行中に違うベッドで眠る方がおかしいでしょ?」


「えっ? あの、それは」


 撮影の事を言っているのか、それとも、自分達の事を言っているのか。その点が分からずあたふたと戸惑う月の頬をレックスの指先がするりと撫でた。


「お風呂、好きな方使っていいから、ゆっくり休んできてね」


 にっこり微笑まれて、質問を挟む余地を奪われる。思考力がしっかり戻ってこない状態で風呂を選ばされ、月は気がついた時には露天風呂に浸かりながら夜空を見上げていた。

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