49 その後、喫茶店にて


「やばいっ、情緒が乱れ過ぎた」


 精神的な安定を取り戻した月は和司の背中を無理矢理押すようにして喫茶店から見送った。別に予定も無いからもう少しゆっくりして行きたいと和司は帰宅を渋ったが、を取り付けると、これでもかというほど嬉しそうな顔をして素直に帰っていった。


 そして月は一人座席に戻り直し、顔にハンドタオルを押し当てて天井を仰いでいる。


「……恥ずかしい。最近こんな風に泣いてばっか」


「まぁ、それだけ感情が激しくアップダウンするような出来事が多かったって事だよ」


 突然、先程まで和司が座っていた席に流れる様な動作で人が座った。対して月は驚きもしなければ顔を確認しようともしない。


「お疲れ様。頑張ったね」


 優しさを存分に含ませた声はもう聞き慣れたもの。深い深い溜息を吐いた後、月はハンドタオルを下ろして正面に向き直り、赤い目元を曝して唇を尖らせた。


「こんな顔にはなりはしましたけど、やっぱり一人で大丈夫だったじゃないですか。心配し過ぎですよ、松田さん。忙しい癖に」


 レックスは色付きの伊達眼鏡を掛け、ギャップを目深に被った顔で頬杖をついた。


「しょうがないじゃん。急に自分も父親に会いに行って本音ぶち撒けてくるって宣言してくるんだもん。お父さんに会った直後の落ち込み用を知っているこっちとしては、呑気にいってらっしゃいなんて言えなかったよ。そっちだって俺の超プライベート現場に付いてきたんだからお相子だよ」


 そう、実は今回レックスは和司が到着する前から月の背面の席に座り、二人の会話をずっと聞いていたのだ。というのも、美来との面会を終え、自らの抱えている問題と正面から向き合ったレックスの姿に触発された月は自分も同じ様に勇気を出してみようと考えた。レックス同様思い立ったが吉日、心が委縮する前に行動を起こそうと即刻和司に連絡を取り、会う日取りを決めた。ただ、直ぐに会うのは難しく、面会まで日が空いてしまった。決心が鈍る未来を予想した月は当日に逃げ出さないように、精神的な戒めを作ろうと試みた。それで事情をそれとなく知っているレックスに和司とぶつかってくると宣言したのだ。余計な心配は掛けまいと出来る限り明るい調子を心掛け、物のついでの様に話を振ったつもりだった。にもかかわらず、何故かレックスに月はめちゃくちゃ心配された。挙句の果てに話し合いの場を設けるなら自分も一緒に付いて行くと言い出され、あれよあれよという間にレックスが所属している事務所の近くの喫茶店を面会場所にされてしまう。勿論最初は丁寧に断った。けれども、レックスは一歩も引いてくれない。それに対して何故だと問えば強烈な台詞が飛んできた。


「一人だと心細いと思うから、少しでも傍に居たい。俺にとってムーちゃんが心の支えであるのと同じように、俺もムーちゃんの心の支えになりたい。不安になったり辛くなる可能性のある場所で、必要な時に直ぐ手が差し伸べられるようにしたいんだ。ムーちゃんが俺にそうしてくれた様に」


 以前に和司の事で心細くなった時、レックスの顔が見たくなった月はこの懇願を跳ね除ける事など到底出来なかった。それでも甘えたくはないからと、他人を装い、月か和司が席を立つまで声を掛けない事を条件に出した。そうして、レックスを密かに同伴しての和司との面会は始まった。


 実際、レックスが背中の後ろに控えてくれていると思うと心強く、和司を前に逃げ出したい衝動に駆られても踏みとどまる事が出来た。自分のコンプレックスにまつわる過去を全て知られる事に対しても不思議なくらい抵抗が無かった。


 多少の切なさはまだ胸にある。悲しい気持ちが無いわけではない。けれども、和司の愛情を自覚出来た今、月は予想を遥かに上回るすっきりした心持ちでいられた。


「ごめんなさい。さっきの言葉は照れ隠しです。松田さんが近くにい居てくれると思うだけで勇気が湧きました。忙しい中来てくれてありがとうございます」


 出来る限りの感謝を込めて笑顔を向けると色付きレンズ越しの目が大きく見開く。そのままじっと見つめられる事数秒、レックスの驚きの表情を認識した月は自身の泣き顔の乱れ具合の酷さにドン引きされたのだと思い込む。


「もしかしなくても、今の私の顔ってすんごい事になってますか!?」


「んっ? いや、そんな事無いよ。ムーちゃんいつもナチュラルメイクだから化粧も殆ど落ちてないし、目元が少し赤いだけ。いつも通り可愛いよ」


 さらりとレックスが歯の浮くような台詞を放ち、月は瞬間的に頬を熱くさせる。しかし、どうせお世辞だろうと、自分と同じように赤く染まっているレックスの頬の色には気が付かないまま華麗なるスルーを決めた。


「松田さん、事務所での打ち合わせや撮影の合間に来てくれたんですよね。時間大丈夫ですか?」


「もう少し大丈夫。戻らなくちゃいけない時間になったら鬼電が種ちゃんから掛かってくるから」


 げんなりと肩を落とすレックスに月はくすりと笑う。


「ここ最近種田さん、前にも増して張り切ってお仕事に取り組んでいますもんね。その分松田さんも忙しそうですけど、顔色は悪くはありませんね」


「これが不思議な事に、以前と比べて種ちゃんは厳しくて怖いし仕事の量は増えてるんだけど、何故か休息を取る事も仕事の一部になっててさ。徹夜を禁止されるわ、上手にスケジュールを調整した上で快適な環境を整備されるわで、俺は以前に増して健康になりました」


「おおっ、流石は敏腕マネージャー。仕事の出来る男」


 お道化れば何故かレックスが軽く眉を顰める。


「種ちゃんの組むハードスケジュールを熟して、主たる活動をしてお金を稼いでいるのは俺なんだけど?」


 そんな事は言われなくても知っているがと思った月だったが、すぐにレックスの言わんとする事に検討がつく。


「ふふっ、勿論松田さんだって仕事の出来る男ですよ」


 月が褒めるとレックスの眉間にあった皺が見る間に消え、代わりに眉が力なくハの字に下がる。そのまま、和司が帰り際に飲んで空になったコーヒーカップにぶつかるギリギリの位置に突っ伏す。


「…………ゴメン。今の無し。俺超ダサい事言った。忘レテ下サイ」


「別にダサくはないですよ。ただ、松田さんが仕事の出来る男だって事は自他共に認める事実だと思っていたので、今更そんな事を気にするのは意外でしたけど」


 普段あまり見ることがない旋毛を見下ろすと、顔だけがむくりと起き上がる。そして、これでもかというほど真っ直ぐに上目遣いで見つめられる。


「最近、種ちゃんとムーちゃんって前にも増して仲良いじゃん。だからちょっと種ちゃんにヤキモチ焼いた。どうせなら俺が一番出来る男でイイ男だって思われて、仲良くなりたいもん」


 自分が褒められなくて拗ねている子どもを相手にしている気分になっていた月は思わぬ事を言われ、今度こそしっかりと赤面した。


 ここ最近の種田は以前と比べて月に対する当たりが柔らかくなり、気軽な会話も増えていた。月が家事代行作業をしている時に必ずレックスの部屋に居るということもなくなり、とても自然体になった。その変化の原因が何なのかは月にはよく分からなかったが、何にせよ接しやすくなったのだから悪く思う訳がない。仲良くなったかどうかと問われれば仲良くなったと答えるのが正解だ。


 ただ、それは意識するような変化ではなかった。だから月はレックスに指摘されるまでそんな事はこれっぽっちも気にしていなかった。にもかかわらず、レックスがヤキモチなどと言うパワーワードを口にしてくるものだから、恋愛初心者の月は真に受けざるを得ない。ただの冗談もしくはリップサービスかもしれないと自分に言い聞かせつつも、平静な態度を取れなくなる。


「別にヤキモチを焼いて貰うほどの事ではないかと……」


 俯き加減にぼそぼそ言えば、レックスは「そうかなぁ」と軽く頬を膨らませた。視界に入ったその頬がカッコイイくせに可愛過ぎて目の毒だからやめて欲しいと、月は半ば本気で何かに願った。


 照れ臭さでいたたまれなくなり、話題を変えようとアレコレと頭の中の引き出しを開ける。ただ、めぼしいものが見つからずあたふたしていると、いつの間にか元の姿勢に戻ったレックスによって新しい話題は提供された。


「ねぇ、ムーちゃん。お疲れ様会しない?」


「お疲れ様会、ですか?」


 火照った頬を誤魔化すために耳に掛かっていた髪を意味もなく下ろして手櫛で頬に掛かるように梳かす。提案された内容がピンと来るものではなかったので、素直にどういう会なのかを尋ねる。


「俺とムーちゃんのお疲れ様会。お互い色々慣れない事をして頑張ったしね。ちょっとはご褒美企画があっても良いかなって思って。つきまして、次に俺の家に来てくれる水曜日の家事代行作業後の時間って予定空いてる?」


 水曜日の作業は十八時までなのでその後は毎回直帰している。特に深く考える事無く頷けばレックスは嬉しそうにはにかんだ。


「じゃあ、一緒にご飯食べよ」

 

 ナチュラルに食事に誘われ、危うく簡単に頷きそうになったがギリギリのところで踏みとどまる。


「ご飯ですか? どこで?」


「んー、外食でもいいかと思ってたんだけど、人目があると落ち着かないでしょ? となるとプライベートが守れるそれなりの高級店が候補に上がるけど、ムーちゃんってそういう店に行ってみたい?」


 レックスが言う高級店など未知の世界過ぎて落ち着いて食事が出来る気が全くしない。月は首をブンブン横に振った。すると、レックスは「そっか」と軽く応じ、自らも堅苦しい店はあまり好まないと庶民派を主張した。


「だから、ムーちゃんが嫌でなければ仕事終わりにそのまま俺の部屋がいいかなって思っておりまして。つきましては我が家の優秀な家事代行スタッフ様に美味しい料理を作って貰おうとか考えていたりします」


「それは勿論構いませんけど。本当に私もご一緒してもいいんですか?」


 レックスと一緒に過ごす時間が増える事に関しては喜びしかないが、込み入った事情抜きでプライベートな時間を一緒に過ごした経験は一度もなく、素直に誘いを受けてしまって良いのかどうかを迷ってしまう。家事代行業者とその利用者。二人の関係を口頭で表すのならば仕事上の関係でしかないのだ。レックスの表情から純粋な好意で誘ってくれているのは分かる。しかし、プライベートな誘いとなれば否応なしに自身の中にある恋心を月は意識してしまう。


 好きな人とプライベートで会う。それは男女交際経験人数が人生で零の月には中々にハードルが高かった。


「本当にご一緒していいんです。ムーちゃんの手料理を一緒に食べてみたいって前から思ってたんだ。二人でゆっくり話をする機会も欲しいし」


「えっ?」


 聞き捨てならない単語が聞こえてきて月は思わず声を上げる。その声に反応したレックスが「どうしたの?」と首を傾げる。


「二人、なんですか? 種田さんは一緒じゃないんですか?」


「二人のつもりで話してたけど。…………種ちゃんも一緒じゃなきゃ嫌?」


 食事をするなら種田も一緒だろう。月は勝手にそう予想していた。悪気は当然無かったが、レックスは種田というワードが出てきて不安そうな顔付きになる。それでも、月は確認せずにはいられなかった。


「嫌ではないんですけど、種田さんが私と松田さんが二人でご飯食べるなんてイベントを許してくれますかね?」


 ここ最近態度が軟化したとはいえ、以前は強火なレックス愛で月を牽制しまくっていた種田が二人っきりでの食事会を許す想像が出来なかった。秘密にしておいたとしてもレックスのスケジュール管理をしている種田にはすぐにバレる未来しか見えない。そう主張すればレックスの表情は苦笑に転じた。


「前はそうだったろうけどね。まぁ、今はそんな事はないと思うよ。てか、そこはムーちゃんが気にする事じゃないから。とにかく、俺と二人でご飯。これは決定。種ちゃんは不参加で」


「そう、なん、です、か」


 間の抜けた返事をすると、レックスは捨てられた子犬のような表情で見つめてくる。


「勿論俺と二人っきりが嫌なら、断ってくれても構わないんだよ?」


 月の真意を見極めようとする視線は真剣そのものだった。その視線には強制力はないが、言葉では言い表せないような圧はある。その圧を感じ取った月は頭で考える前に声を出していた。


「さっきも言いましたけど、嫌ではありません! 一緒にご飯嬉しいです! 全力で美味しい料理を作ります!!」


 腕まくりまでしてやる気を見せる。すると目の前のイケメンは花が綻ぶかのように甘く笑った。


「そっか。なら、よかった」


 心底ほっとしているかのように肩を下ろされ、月は急に落ち着かなくなる。自分との食事にはとても価値があると言われているような気分になって、舞い上がりそうになるこを必死に抑え込んだ。


 そんなタイミングでレックスの電話が鳴る。


「種ちゃんだった。タイムオーバー。今すぐ戻って来いってさ」


 電話に出たレックスは少しばかり残念そうに肩を竦め、すぐにでも席を立とうとする。月はそこではっとし、口を開いた。


「あのっ、今日は本当にわざわざ私の為に有難うございました。松田さんが傍にいるって思うだけで心強くて、逃げ出さずに父としっかり向き合って話が出来きました。父を嫌いにならずに済みました」


 勢いよく頭を下げ改めて感謝を伝える。すると、その頭に和司の時よりも遠慮がちな指先が触れた。


「お礼を言われるような事は何もしてないよ。俺はムーちゃんが頑張るのを近くで応援したかっただけ。全部が全部ムーちゃんが自分でやった事だ」


「でもっ、私は松田さんから沢山の勇気を貰いました。松田さんと出会っていなかったら今日みたいな日は絶対に迎えられなかったと思います!」


 勢いよく頭を上げれば一瞬だけ指先が離れて行き、それが今度はさらりと月の頬を撫でた。


「そっか。じゃあ、水曜日に美味しい料理食べさせて」


 否定も肯定もされず、穏やかに目を細められる。月は頬にある指先のくすぐったさに鼓動を早めつつも笑顔で応じた。


「何かお料理のリクエストはありますか?」


 尋ねると同時にレックスのスマホがまた震え、頬の指先が離れていく。レックスは電話に出る事無く立ち上がり、荷物を持ってテーブルの横に立った。


「そりゃ当然、クリスマスメニューでよろしく。あっ、ケーキはこっちで用意するから」


 じゃあね、とウィンクと同時に手を振ったレックスはすぐに背を向けてスマホに耳を当てながら出入り口に向かってしまう。月はそんな背中を見つめたまま、口をあんぐりと開けて固まっていた。


「…………次の水曜の夜ってクリスマス・イブじゃん!!」


 すっかり忘れていた世間の一大イベントは、自らの一大イベントとなって目前に迫っていた。

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