37 レックスの過去③

 美来と一悶着あったその翌日。


 樹は登校直後の廊下で蒼龍にスマホの画面を突き付けられた。かつてない剣幕に直ぐに画面上に視線を走らせ、完全にフリーズする。そこには互いに目を閉じてキスしている自分と美来の姿があった。


「…………これは一体どういうことだ?」


「……えっ? はっ? なんで蒼龍がこの画像を持ってんだよ?」


 受け入れ難い事態に樹の思考は一時停止状態から中々復活しなかった。すると頭に浮かんだ疑問がそのまま口に出た。その考えなしの発言は悪い方に捉えられた。


「どうして俺がこの画像を持っているか、だって? そんな事より他に何か言う事はねぇのかよ!!」


 蒼龍の怒号と同時に頬にかつて感じたことのない程の衝撃と痛みが走る。樹は気がついた時には床に転がっていた。一瞬何が起こったのかが分からなかった。しかし、左頬の燃えるような痛みと口の中に広がる鉄の味で状況を理解した。


 殴られた。


 そう自覚した時には胸ぐらを掴まれ、血走った眼をした蒼龍に感情のままに詰め寄られていた。蒼龍は樹が美来に手を出したのだろうと問いただす。対して樹は突然殴られた事でつい感情的になって応じてしまった。とはいえ、真実を口にする以外の選択肢は無い。自分は何もしておらず、美来が突然キスをして来て、その瞬間を写真に撮られたのだと声を張った。ただ、冷静さを欠いたその説明を興奮した蒼龍は信じようとしなかった。


 それだけならまだよかった。しかし、事態はそこから思わぬ方向に向かう。


「どうせ、松田が誑かしたんだろ。顔が良くて女子ウケがいいからって親友の女にまで手を出すなんて、マジで最低だな」


 二人が言い争いながら揉み合っていると第三者の声が割って入った。何を言われたのか認識するとほぼ同時に他の方向からも次々と声が上がった。


「“熊”が可哀想だ。親友だって言ってた相手に裏切られるなんて……」


「アイツ、また人の女盗ったのかよっ」


「モテるからって誰彼構わず手ぇ出すとか引くわー」


 樹は自分の耳を疑った。それまで誰とでも仲良くやってきたつもりだった。にもかかわらず、蒼龍に勘違いされているだけなのに、いつの間にか四面楚歌。自分ばかりが悪者扱いされている。しかも、身に覚えがないような悪口まで囁かれている。外野の声とはいえ、流石に無視する事は出来なかった。


「何言ってんだよっ! 俺がいつ人の女を盗ったんだよ!?」


 蒼龍の身体を押しのけるようにして周囲をぐるりと見回せば、不安気に状況を見守っている生徒に混ざって複数の冷たい目が自らを見つめていた。それは誰も彼もが男子で、中には日常的に仲良くしていた仲間も混ざっていた。


「知らぬは本人だけってやつだな」


 ぼそりと吐き捨ているように言った声にはっとして視線を戻せば、蒼龍が淀んだ目で笑んでいた。


「お前の知らない所で俺はかれこれ二十人くらいの奴らから相談を受けたり愚痴を聞かされてきた。どんな内容だったと思う? ……全部が全部、好きな女をお前に盗られたって話だったよ」


「はぁっ!? 何だよそれっ!? 盗ったりなんてしてねぇ――――うぐっ」


 全身を力ませて否定をしようとした口元を蒼龍の硬い手が鷲掴み、発言を封じられる。


 口を封じる手が汗で湿っていた。がっちり掴んでくる指先は力んで震えていたが、痛みが伴う一歩手前で止まっている。そしてその手、腕、肩と順に視線を移していき、たどり着いた先にある親友の眉はこれでもかと言うほどつり上がり、眉間には何重にも皺が寄っていた。が、その下にある細められた双眸からボロボロと涙が零れ落ちていて、樹はこれでもかと言うほど目を見開く。


「俺だってそう思ってたっ! だから何度もお前を庇ってた!! なのにっ、何でっ、何で美来にっ」


 掴まれているシャツが千切れると思う程握りしめられて揺さぶられる。頭がガクガクと揺れたが、樹は蒼龍の顔から眼を離すことが出来なかった。


 そこに浮かぶ初めて見た泣き顔は本気で悲しんで苦しんでいた。おかしな事に樹は自分が責められている立場にもかかわらず、胸が締め付けられる程の切なさが込み上がってきた。


 しかし、見つめているうちに蒼龍の表情からは少しずつ感情の皺が減り、真顔に変化していった。それに連れ、樹の背には虫が這うような恐怖が競り上がった。


 無表情の蒼龍に周囲を囲む冷たい目をした男子達、現状を見ても何も言わず動かずただ野次馬に徹する同級生。


 何だこれ。おかしい。こんな空気絶対におかしい。


 恐怖と同時に膨れ上がった焦りから樹は蒼龍に対して必死に誤解を解こうと話しかけた。しかし、蒼龍が聞く耳を持ってくれる事はなかった。


 その後、騒ぎを聞きつけて駆け付けた教師の仲裁が入り、誤解は解けないままその場は治められてしまう。樹はじわじわと腫れてくる頬の熱と痛みに気を配る余裕なくその日一日を過ごす。蒼龍は当然として、誰もが樹を遠巻きにして話しかけてすら来なかった。


 美来には早い段階でスマホでメッセージを送り何故蒼龍があの画像を所持しているのかを問いただした。しかし、何の返信も来ない。蒼龍は美来の電話番号は知らなかったし、前日に会った時も結局公園で別れて家まで送って行かなかったため家の場所も分からなかった。どうにか連絡を取らなくてはと焦ったが、ダブルデートをしていた自身の彼女もメッセージのやり取りのみで他の連絡手段は知らないはずで、蒼龍に取り次いでもらう事など出来るはずもなかった。


 どうしたら良いのか、どうするべきなのか、どうやったら自分の誤解が溶けるのか。そんなことを悶々と考え、何度となく蒼龍に話しかけようと試みた。しかし、休み時間になる度に怒気を放ったままどこかへ行ってしまい、話しかける隙すら作ってはくれなかった。そうして、悩んでいる内にその日は終わってしまった。





 次の日の朝、昨日の事は悪い夢で何事もなく日常が始まる事を神に祈って登校した樹は現実に打ちのめされる。前日の悪夢は繰り返され、状況は悪化した。


 恐る恐る登校した教室で部活の朝練を終えてやって来る蒼龍を待った。昨日の今日で自分を遠巻きに見てくるクラスメイトに構う余裕はなく、ただただ蒼龍と冷静に話をする事だけを考えて身構えていた。朝のHRが始まる五分前、蒼龍はいつものようにスポーツバッグを肩に掛けて教室に入って来た。顔色など窺い見る余裕は無く、樹は周囲の空気が緊迫している事に気が付く事なく席を立った。


「蒼龍っ」


 声を掛けて近くに歩み寄る。そこではじめて蒼龍の顔を直視する。お世辞にもその顔色は良いとは言えなかった。朝、鏡の前で見た自分の顔つきとほぼ変わらない。自分のように眠れない夜を過ごしたのであろう事が推察出来た。蒼龍も自分と同じように悩み苦しんでくれた。そう思えば、まだ希望はあるのではないかと樹は思い切って喉を震わせた。


「昨日の話、ちゃんと落ち着いてしたいんだ。時間をくれないか?」


 声が震えそうになるのを堪えながら問えば、視線が合わないままぶっきらぼうな返事がきた。


「話したところで何になるんだよ」


 絞り出すように言い放たれた台詞に樹は身を乗り出した。


「何になるって、手遅れみたいな言い方するなよっ。謝るべき所があれば謝るし、そっちが納得出来るまで何度でも説明するから、一先ず俺の話をちゃんと聞いてくれっ」


「それで、最終的にお前は俺にどうしろって言うんだ? 殴った事を謝らせたいのか? それとも俺が殴った分殴り返したいのか?」


「はぁっ? そんなのどっちもどうでいいよっ。俺はただ、誤解を解いて今まで通りに蒼龍とつるみたいだけだ」


「………………どうでも、いい?」


 蒼龍が殊更ゆっくりと声を発した。樹は蒼龍が発する空気が変わったことに気がつかないまま思いの丈を語る。


「だって蒼龍が俺を殴ったのは美来ちゃんを盗られたと思ったからだろ? もしそれが本当なら俺は殴られても仕方ないって思う。お前がどれだけ美来ちゃんを好きか知ってるから、感情的になって手が出た気持ちも分かる。だから殴られたことに関しては気にしてない。俺は誤解を解ければそれで――――」


「誤解があって、俺が勘違いをして殴ったって言うんなら、殴り返せばいいだろ。お前は何も悪い事してないなら殴られた損じゃねぇか。殴られた時に痛くてイラッとしただろ? なら、やり返せよ」


 低く低く言って蒼龍がゆらりと一歩踏み出した。その時点で樹はやっと蒼龍の放つ空気の重さに気がついた。それでも、何がそうさせているのかは分からず、ただ自分なりに応じる事しか出来なかった。


「何でだよっ。そりゃ、痛かったけどイラッとなんかしなかった。俺はとにかく話を聞いて貰いたいだけ。だから、放課後に時間をくれないかっ?」


 もうすぐチャイムが鳴ってしまう。その焦りで自分の伝えたい事を優先した樹と蒼龍は噛み合わなかった。


「殴られたのに殴り返さないって事はやっぱりやましい事があるんだろう!? じゃなかったら殴り返せよっ! 殴り返さないんだったら、お前が美来を盗ったって事にすんぞ!!」


「だから何でだよっ!! 殴ったら互いに痛ぇじゃねぇか!! 俺は誤解とはいえ今傷付いてるお前に更に痛い思いなんてさせたくないんだよ!!」


 感情のままに叫ぶと同時にチャイムが鳴った。もうすぐ担任が来てしまう、そんな事に気を取られた瞬間だった。


 腹部に重い衝撃と同時に激痛が走った。体が一瞬浮いたかのように足裏が床から離れ、踵が床に戻るとそのまま脚に力が入らなくなって床に膝を突いていた。胃がひっくり返ったかのように体の中身が悲鳴を上げ、喉に迫り上がってきたものを出すまいと力むと噎せ返ってしまい、何度となく咳き込みながら前のめりに疼くまる。


 また、殴られた。


 そう自覚すると、目元に涙が浮かんできた。信じてもらえない事が悲しくて悔しかった。だから、樹は痛んでしょうがない腹部を手で押さえながら文句の一つも言ってやろうと顔を上げた。


「――――泥棒野郎っ」


 上げた顎を蒼龍の爪先が蹴り上げた。避けようと体を後方に倒して床に手を突いて尻餅をつくと、ガラ空きになった腹部が踏みつけられる。


 先ほど殴られた痛みが消える前に遠慮会釈の無い暴力の痛みが腹を貫くように走る。


 声を上げることすら出来ずにもんどり打って倒れた樹の耳に入ってきたのは、腹の痛みと同等に胸を痛ませる台詞だった。


「こんだけ言ったのにやり返さないって事は、悪い事をした自覚があるって事でいいんだなよな、色男ォ。――――顔がイイからって何でも許されると思うなよ」


 何でそうなる!? どうして話を聞いてくれないんだ!?


 そう叫びたくとも腹の痛みで声は出ず、声が出るようになってからも蒼龍は頑なに樹の話を聞こうとしなかった。


 前日とこの日の出来事で暴力とは無縁に生活をしてきたクラスメイトの大半は蒼龍の凶暴さに震えあがった。すると、恐怖故か蒼龍の事を擁護する者が増え、樹の事を庇い信じてくれる者がいなくなった。恋愛関係での逆恨みを持つ男子達は完全に蒼龍の肩を持った。


 そうして、その日から樹は男の敵認定されるようになり、所謂いじめが始まった。


 私物が毎日のように無くなり、クラスメイトに声を掛けても無視される。教師の視界に入らない場所で服に隠れる箇所を殴られ罵倒される。主犯は樹を逆恨みしていた男子が主で、蒼龍は後ろから暗い目付きで眺めているだけだった。


 とある日は鞄に煙草を仕込まれてわざと教師に見つけさせ、言い訳の出来ない濡れ衣を着せられた。登校したら急に校舎裏に引き摺り込まれ髪をヘアスプレーで拘束違反の茶髪に染められ、そのまま教室に押し込まれてまた教師に叱られる。ピアスの穴を開けられそうになって必死になって逃げる様を動画に撮られ、何日も何日も笑いのネタにされる。イケメンはどんな服装でもモテるんだろう嫌味を言われ、全裸に剥かれて女子の前に曝け出されそうになるのを下着一枚で必死に逃げた事もあった。


 好きな女を奪われたと思い込んでいる主犯達は常に樹のルックスに絡めて嫌味な発言を繰り返した。樹は生まれたくてこんな顔に生まれたんじゃないと何度も言い返したくなったが、火に油を注ぐだけだと唇を噛んで耐えた。


 主犯以外の生徒は明らかに蒼龍を恐れて樹を助けるという選択肢を取れないようだった。同情的な目付きで自分が見られている事に樹は気がついていたので、何度か声を掛けて助けを求めた事があったが、最初に蒼龍が見せた圧倒的な暴力が脳裏を過るのか、庇った事で自らも標的にされる事を恐れた彼らは手を差し伸べてはくれなかった。


 そして、無関係を装うよりもタチが悪かったのが何人かの女子だった。その中には当時の樹の彼女も含まれていた。


 その女子達は蒼龍と主犯の目に付かない場所で樹を甘い言葉で励まして同情し、自分だけは味方だと囁いた。しかし、いざ蒼龍や主犯の前で樹が助けを求めたり寂しさから声を掛けると、皆が皆無関係を装った。時には無視するだけでは無く、密かに掛けた甘い言葉を無かったことにして酷い言葉で罵られた事さえあった。


「イケメンだと思ってたから付き合ってただけ! 別に好きなんかじゃなかったし。顔がイイからって調子に乗らないでよ。キモイ」


 それは主犯の男子達が言わせたいと思っていた言葉そのものだった。引き攣った表情ながらも嘲るように言い放ったのは樹の彼女だった。


 男のプライドを捨て藁にも縋る思いで味方である事を信じて伸ばした手は保身の為に払い除けられ、樹の心に絶望の色を塗り込んだ。


 このタイミングで樹の心は完全に折れ、僅かな希望に縋って学校に登校する日々を止めた。


 梅雨に入る前の時期だった。

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