32 古傷に火傷


 朝食に温野菜のコンソメスープとおにぎりを数種類作りながら、月は種田に炎上の切っ掛けになった状況の詳細を説明した。種田は仕事をするわけでもなく、ソファに凭れ掛かりながらスマホを睨みつけていた。


「つまり、傍から見たら、最初の投稿のような勘違いが起こったとしても仕方がない状況だったということか?」


「そんなことは言っていませんよ。投稿との相違点はあの女性が松田さんのファンではないこと。それから、松田さんはその女性に直接穢れると言ったわけじゃありません。私に声を掛ける形で間接的には言いましたけど…………」


「遠目にその状況を見ていたらレックスがファンを嫌悪して、邪険に扱っていたように見えたんじゃないか?」


「そんなことはないと思います」


 月は炎上のきっかけとなった最初のコメント内容に違和感を持っていた。どうにかこうにかその理由を自分の中で見つけ出そうと頭をフル回転させる。すると、いつの間にか唸りながらおにぎりを握っていた。


「おにぎりに怨念を込めるな」


「っ!? 怨念なんて込めてません!」


「じゃあ、気味の悪い低音で唸りながら握るな。折角の米が不味くなる。喋るならはっきり声に出せ」


 あまりの言われように月は反論しようと口を大きく開く。しかし、文句が声になる前に種田の発言に引っ掛かりを覚えた。思考すること数秒、月は違和感の正体に気がついた。


「やっぱり最初の投稿者のコメントは変です! だって、穢れるって言った松田さんの声は低くてとても小さかったです。当事者以外に聞こえていたとしたら相当近い距離にいた人です。けれど、この投稿者はあの女性の事を松田さんのファンだと言っています」


「それのどの辺か変なんだ?」


「あの女性はずっと松田さんに“松田くん”って呼びかけてました。ファンなら普通“レックス”って呼ぶはずです。しかもあの人は初めから泣いていたし追い縋って謝りたいって繰り返していました。穢れる云々が聞き取れる距離に居た人があの人の事をファンだと認識するのは変です。普通だったら訳ありの知人女性に見えるはずです」


「ということは、最初の投稿者は故意に情報を歪めて発信したと?」


「その可能性はあ――――」


 ありますね、と月が頷こうとした時だった。


「面白そうな話をしてるね」


 ドアが開く音とほぼ同時に低い声が響いた。月と種田は声のした方を勢いよく振り向く。そして二人とも返す言葉が見つからないまま、突然顔を出したレックスを前にして固まった。


 レックスは隈のある目で緩い笑みを浮かべ、その表情のまま月に視線を向けた。


「おはよう、ムーちゃん。朝ごはん、ちょーだい」


 声を掛けられた事によって、止まっていた手を月は慌てて動かした。


「おっおはようございます! 直ぐ出しますね」


「ありがと」


 レックスは言葉少なく歩き出すと、常はシャンと伸びている背中を丸くしたままダイニングチェアに腰掛けた。すると種田が滑り込むようにレックスの前に座る。


「腹が減ったのか? 体調はどうだ?」


 だらしなく背もたれに凭れ掛かるレックスは身を乗り出すように顔色をチェックしてくる種田に苦笑を向けた。


「お腹は空いた。体調は不明。ちょっとふわふわする。聞いてよ、明後日までにやろうと思ってた編集まで終わらせちゃった」


「……無理するな。そこまでやったんなら、今日はもう飯食ったら一度寝ろ」


 体調を慮った種田の指示に対し、レックスは乾いた笑いを零した。


「寝れる気がしねぇ~」


 顔を両手で覆って天井を仰いだレックス。少しの沈黙の後、レックスはその体勢のまま月と種田がギクリとすることを言い放った。


「とりあえず……ちょっと落ち着いたから、俺もさっきの話に混ぜてよ。どうせ、今後事務所に色々説明させられるんでしょ? 俺と種ちゃんは情報共有しておいた方がいいよね。コソコソ相談させるのも申し訳ないし?」


 隠れて話をしていたことを暗に指摘され、気まずさから月と種田は一瞬目を見合わせた後に俯く。月は当時の事を忘れてくれと電話で言われていたにもかかわらず、話してしまった事も含めて顔が上げられなくなった。


 ただ、レックスはさらりとさっきまで二人がしていた話を再開させた。


「アレは明らかに故意に情報弄って発信してるでしょ。それにしちゃ中途半端だけど」


「中途半端とは?」


 種田の遠慮がちな問いにレックスは皮肉っぼく笑った。


「俺を陥れる事が目的なら、態々嘘を吐かずに見聞きしたままを投稿すればいい。ファンを大切にしない男って事で俺の評価を落としたい可能性もゼロではないけど、今まで真面目にファンを大切に扱ってきた実績が俺にはあるからね。炎上しちゃったけど、それはごく一部で、炎上元のコメント内容に懐疑的な意見や端から信用しないと言っているファンの方が大多数だ。一方、“意味深に泣いて縋る女を邪険に扱ったYouTuberレックス”。これは俺にとって否定できない事実だから、より痛い。しかも、一見痴情のもつれっぽいからマスコミがより食いつきやすい。あれこれと面白おかしく詮索されて女性ファンも減るかもしれない。だから、俺が追い詰められる可能性が高い。しかも俺が動画内で吐いた嘘をより強気で非難出来る。泣いて縋る女を酔っ払い扱いした最低野郎って」


 月や種田が簡単に口には出来ない見解をレックスは明け透けに語った。


 月はレックスがこの事態に関して思考放棄せず、かなりしっかりと分析している事に驚いた。明後日までの編集を全てやり終えるくらい仕事に没頭していたはずのにどこにそんな時間があったのだろうかと一瞬考える。そして、考えずにはいられず、その思考を消す為に仕事に集中してはまた考えてを繰り返すレックスの姿が脳裏に浮かんだ。


 キッチンのカウンター越しに見たレックスの目は虚で、いつもの輝きがない。言葉にし難い痛々しさがその目から伝わってきて、月の胸はぎゅっと締め付けられた。


 そんな目と不意に目がかち合う。


「ねぇ、ムーちゃん。このコメントの目的が何か分かる?」


 突然の問いに月は戸惑う。その問いは教えを請われているのではなく、正解を知っている者が知らない者に考えさせるようなニュアンスだった。


 合った目は月を見ているようで見ていない。そんな気がして何故か背筋が寒くなる。


「目的ですか?……ちょっと、想像出来ませ――――」


 月が全てを言い終わる前にレックスが声を被せてきた。


「このコメントはね、注目を集めるのが一番の目的なんだ」


「注目ですか?」


「そう、注目を集めて、とあるメッセージをとある人物に伝える為に作為的に発信されたコメントなんだ」


 月はおにぎりを握り終えたので、シンクで手を洗ってレックスの話に集中する姿勢を取る。少し視線を逸らして手元を見ていた間もレックスの視線は月から逸れなかったようで、再び虚な目と目が合う。


「どういうことだ?」


 種田が問う声にレックスは視線は動かさずに答える。


「俺があの場で暴言を吐いた時、俺の声が聞こえる範囲に居たのはムーちゃんともう一人だけだった」


「えっ?」


 月は目を見張る。同時に種田が声を唸らせた。


「つまり、このコメント主はあの場にいたあの女で、レックスの注目を集めたいが為に仕出かした暴挙だと?」


「それは違う。このコメントをした人は恐らく赤の他人だ。あの女でも、勿論ムーちゃんでもない。どうやったかは分からないけれど、あの女が自ら非難される可能性がある立場に立つはずがないからね。どちらかといえば、裏で一番悪い事をしているのに表では綺麗事を並べて仲裁し、善人を装うのがアレの習性だから」


 語るレックスの視線が月から全く逸れない。いつしか月は自らの胸の前で手を組み、向けられる圧に一歩後退りたくなるのを必死に堪えていた。声を発っする余裕もない。そんな月の代わりに種田が慎重な声色でレックスに問いかける。


「あの女がこのコメント主に情報を与えて投稿させたというのか? ファンに非難される事を見越して、その対象になるのが嫌だから自分ではなく他の人間を矢面に立たせたと? そんな方法で注目を集めたところで何の意味がある?」


「まず、自分が善人だと思い込みたい人間だから、俺を非難するという行動自体がアレの糞みたいな美学からはみ出す行為だ。あと、俺が暴言を吐いた対象を知人の自分じゃなく不特定多数のファンだとしたのは、万が一にも個人が特定されて、俺の増悪の対象であることが周囲にバレるのを避けたかったんじゃないかな。要するに保身だ。でもって、俺の動画で騒ぎや炎上が起これば必ず注目する人間を釣り上げたかったんだろうね」


「……それはお前じゃないのか?」


 この問いに対してレックスは鼻で笑い、種田を横目で見やった。


「多分だけどね、アレは一連の企みが俺にバレてるなんて夢にも思ってないんじゃないかな。自分が企んでいる自覚もないかもね。そして、何食わぬ顔で善人の仮面を着けて釣り上げたい人間に必要な情報を発信している。最終的に釣り上げたいのは俺かもしれないけれど、俺が簡単には動かないって事はこの前の態度を見て馬鹿なりに分かっているみたいだから。まずは、俺に繋がりのある人間を引っ掛けようとしたんだろうね」


 そこまで言ってレックスの視線が月に戻って来る。


「ねぇ、ムーちゃんこっちに来て」


 感情の籠っていない笑顔で手招きをされる。月の背筋の悪寒は悪化し、深呼吸ではどうにもならない程鼓動が早くなる。


 それでも指示に従う他なく、月は黙ってキッチンから歩み出しダイニングテーブルの横に立った。レックスはスウェットのポケットからスマホを取り出して操作した。そしてそれを月に差し出す。レックスが自らの目を見ている事は分かったが、視線を合わすことが出来ず、スマホの方に気を取られている振りをして受け取る。


「如何にも善い人ぶって仲裁のコメントを入れているこのアカウントに何か心当たりはない?」


 とん、と指で示されたのは例の動画のコメント欄。そこには【ここはレックスさんの動画についてコメントをする場であって争う場ではないと思います。一度落ち着きませんか?】と、荒れる他者の投稿を仲裁するメッセージが綴られていた。


 初めは心当たりと言われても何もピンと来なかった。しかし、注意深く視線を走らせると、月はとある一点に目を奪われる。


 それはコメント主のアイコンだった。どこかで見た事がある、そう思って記憶を探ること数秒。それが美来と入った喫茶店で月が可愛いと褒めたフクロウの木製コースターだと気が付いた。そして円形のコースターの下に敷かれた紙に丸文字気味の可愛らしいアルファベットが並んでいた。


【RENRAKU MATTERU】――――連絡 待ってる、とそこには綴られていた。


 そして、アカウント名を目でなぞればそこには【T to G】とあった。


 ――――遠野から五島へ。


 アカウントに隠されたメッセージの存在に気が付いてしまった月。その瞬間全身の血の気が引いた。


 先程までのレックスの推理がもし正しいのなら、美来は月にこのメッセージを伝えるために一連の騒動を起こした事になる。美来は月をレックスの撮影関係者だと思っているから、レックスの動画で炎上が起これば必ず荒れたコメント欄をチェックするとでも考えたのかもしれない。月の目に付きやすいようにわざわざあの喫茶店にもう一度行き、コースターの写真をメッセージと共に撮影した。それから、自身ではない誰かに自分にとって都合の良い情報を提供して発信させた。


 本当にそんな事を? 私と連絡を取りたいが為に?


 謝りたいって言ってたのに、何でこんな形で?


 私が連絡をしなかったから、そのせいで今回の炎上は起こったの?


 そこまで考えた時だった。手元のスマホが音もなく月の手中からするりと抜き取られた。指先に伝わる感覚にハッとして顔を上げる。次の瞬間、月は完全に息を吸う事を忘れた。


「…………何もない、って、言ったよね?」


 いつの間にか立ち上がっていたレックスが月を空虚な目で見下ろしていた。それまで辛うじて上がっていた口角の筋力が働くことを止めてしまっている。


「あっ、あのっ――――」


「忘れて、とも言った」


 なんとか絞り出して訳を語ろうとした声は震えて擦れ、途中で遮られる。


 何か言わなくては、誤解をされている、私は裏切っていない、あの時は仕方がなく美来と少し話をしただけで疚しい事など何もない、私は貴方の味方――――。


 頭の中で色々な言葉がぐるぐると泳ぐがそれが声になって出て来ない。


 直前に見聞きしたレックスの表情と声がかつてないほど冷たくカサカサに乾いていた。それ以前は常に優しく穏やかで温かだったそれらの変化に月は完全にすくんだ。


 見放された。諦められた。信頼を失った。嫌われた。


 様々な負の意思を僅かな間に想像してしまった月は、過去に抱いた事のある自分の精神状態と今のレックスの胸中を重ねて考えてしまった。


 常識的な考え方や起こってしまった事象の背景などは関係ないのだ。レックスは月が美来とは何も無いと嘘を吐いたという一点にのみに重点を置き、ひたすらそれに傷ついている。それはレックスが過去に積み重ねてきた様々な傷がそうさせているもので、今この瞬間だけでフォロー出来るものではない。和司の前から逃げ出した月の抱いていた感情がそうだった。あの時の月は和司に何を言われても絶対に聞く耳を持たなかった。だから、月は下手に口を開けない。


 どうしよう、どうすれば。

 

 ただただ焦燥感に駆られる月の前でレックスが片手で前髪をぐしゃりと掴んで乱し、表情を歪めた。


「やっぱり、俺、無理だっ…………」


 歪んだ顔が苦しそうで、辛そうで、泣きそうで。月は思わず手を差し伸べそうになるが、指先が動き出す前に手が止まる。


「女の子、信用するとかやっぱ無理っ」


 ガラガラと、それまでに築いてきた信頼関係が崩れていく音が耳の奥で響いた気がした。


 そんなの嫌だ。だって私は貴方が好きなのにっ。裏切ってなんかいないのにっ!


「私っ――――」


 遠ざかっていくレックスの心に手を伸ばしたくて、有効な言い訳を何一つ思い付いていない状態で声帯を震わせる。すると、レックスが前髪を乱していた手で目元を覆った。その一動作に対しても月は怯えるようにビクッと震えて声を止めてしまう。


 レックスは深く長い息を吐きながら再び椅子に座る。そうして息を吐き切るとゆっくりと手を目元から下ろした。


「ごめんっ、ちょっと取り乱したわ。気にしないで。事情を聞かせてくれる?」


 優しい言葉と同時に優しい笑顔を向けられる。しかし、月はホッとするどころか絶望した。


 目が全く笑っていない。それが不思議なくらいよく分かった。


 本音を曝け出して、感情のままに罵ってくれた方がまだよかった。けれども、レックスは表面だけの大人の対応を選んだ。


 本音をぶつける価値も無い相手。表面上だけ穏やかにやり取りをして機嫌を取り、波風なんか立てずに無難にやり取りする価値しかない女。


 向けられた笑顔の裏でそう言われた気がした。


 月はレックスの心の傷の深さと自分にはそれを癒す力がない事を思い知る。


 胃に鉛を埋め込まれたかのように、全身が重く沈む感覚がした。

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