26 やっぱり実物の貴方がいい


 走っていた足はいつの間にか速度を落とし、月はとぼとぼと都心の喧騒の中を歩いていた。


 やってしまった。


 和司が最後に見せた表情を思い出すとそう思えた。言いたい事とは全く関係ない、思ってもいなかった相手を傷つけるための言葉を投げつけた自覚があった。


 自分は傷つけられたからこのくらい言っても良いだろう。


 そんな精神が自らの中にあったことに月は激しい嫌悪感を覚えた。


 駅には直ぐに着いてしまったが、どうにも直ぐに家に帰る気持ちにはなれなかった。月曜日は千穂のスナックは定休日。よって家に帰ればほぼ確実に千穂がいる。となれば、帰ってすぐに和司との面会はどうだったと聞かれるのはいつもの事。今の精神状態でその問いを投げかけられたら、何もかもぶちまけてしまいそうで、縋って泣いてしまいそうで、千穂とはまだ顔を合わせられそうになかった。


 そう思った瞬間、月はもの凄くレックスに会いたくなった。


 レックスに優しく笑って貰えたら、底辺まで沈み込んだ気分が上昇しそうな気がする。そう考えると自然と足が行きに立ち寄ったあの場所に向かった。

 

 辿り着いた駅前広場は食事時が過ぎてもそれなりに賑わっていた。大抵が待ち合わせをしている人のようで、スマホ片手にぼんやりと時間を過ごしている。ただそんな中にちらほらレックスの広告に向かってスマホを向けたり、黄色い声を上げて盛り上がっている女子が存在した。


「ヤバイ~、マジ聖地なんだけどぉ。レックス様に囲まれ過ぎぃ! 視線で蒸発しそう!!」


「ぎゃはははっ、ヤバいのはアンタの方でしょ! どんだけ好きなのよ、レックス」


「えぇ、だってカッコイイしぃ。イケメンだしぃ。やっぱりカッコイイしぃ」


 恐らく既に酔っているのであろう女子大生らしき二人組のやり取りを聞き、月は思わず苦笑を浮かべる。「結局顔かぁ?」とツッコミを入れるファンではない方の女子に対してレックスのファンであろう女子が「それだけじゃないっ」と焦った様子で他の良さについて熱弁を始めた。その声に耳を傾けながら月は植え込みを囲むように設置されているベンチに空きを見つけて腰掛けた。自然と視線は上がってレックスの広告を見上げる。


「……確かにかっこいいよねぇ」


 レックスの良さを熱弁する女子の声が少しずつ遠ざかる中、月は一人呟いた。そして、目に見える範囲に居るレックスを一人一人確認していく。


 どれもこれも色っぽくてかっこよくて、とても魅力的な男がそこに写っていた。けれども、行きには胸が高鳴るほど素敵に見えたソレらに、今の月は高揚しなかった。代わりに生まれてくる感情は、寂しさに近い焦がれだ。


 レックスの顔を見たら少しは気分が晴れると思ってその場に赴いたのに、実際に広告を見たらより実物に会いたくなってしまった。


 今の月が求めているのは完璧にキメて、誰もを魅了する有名人の男ではなかった。焦がれたのは身近で、笑ったり馬鹿やったりだらしなかったりして、画面やポスターからは伝わってこない思いやりと優しさを持った松田樹という男だった。


 レックスは月と同じ月曜日の夜にこの場に撮影しに来ると言っていた。しかし、まだ広場内に人が多い時分を選んでやって来ることはないはず。


 有名人だから仕方ない。こんな沢山の大型広告になってしまうような人だからそんな簡単に会えなくて当たり前。水曜日と土曜日になれば会えるなんて事の方が奇跡みたいなものだと、自分に言い聞かせた月はベンチの上で膝を折って俯いた。


「……今、会いたいよぉ」


 じゅん、と目が急激に潤んで、自らの目元を膝に擦り付けようとしたその時だった。


「そこの可愛いお姉さん。俺と一緒にイケメン鑑賞しない?」

  

 突然月の真横にドサっと何者かが座る気配がした。次いで、もの凄く軽い口調で声を掛けられる。


 いやいや何を言っているだと思ったのは一瞬で、直ぐにその声に聞き覚えがある気がして勢いよく顔を上げた。


「コラコラ、こんな所で女の子が一人で何してるの。危ないから、明らかに落ち込んだ様子を曝け出して、周囲に隙を見せるんじゃありません」


「ま、つださん……」


 顔を上げて振り返った先に黒キャップに黒縁眼鏡のレックスが居た。ふざけているような、叱っているような口調で話しかけてくる。その癖とても優しい笑顔を浮かべているのが暗がりでも分かったから、月は驚きで引っ込み掛けた涙を唇を噛んで溢れないように我慢する羽目になった。


「こっ、こんな人が多い時間帯に来ちゃって大丈夫だったんですか?」


 月はレックスから顔を背けて、自分の崩れてしまっているであろう表情を隠した。そして、どうにかこうにその場に相応しい話題を絞り出す。


「んー、まぁ、今はこの広場にどのくらいの人が居るのかと、撮影するポジションを車の中から確認するだけのために来たんだけどね。会えたら良いなーとか考えてた女の子を見つけちゃったからついつい車から出て来ちゃった」


 つまりそれは、元々は車内からの下見のだけつもりだったのに、私を見つけたからわざわざ声を掛けてくれたという事ですか?


 月はそれを口に出すのは自意識過剰のような気がして出来なかったが、事実レックスはほぼそう言っているわけで、顔やら首やら胸やらがぐんぐん熱くなった。喜びと切なさが乱気流を生み出して体内が大変な事になる。


 その動転した心をどうにか落ち着かせるために月は深呼吸を繰り返し、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。


 不意に気になって周囲をぐるりと見渡すと、以前に乗った事がある種田の車が路駐しているのが目に入った。角度的に運転席は見えない。しかし、さっさとレックスを解放しろという圧が車中の種田から放たれているような気がした。


「種田さんご一緒ですよね? 今はあまりここに長居しない方がいいんじゃないですか? 今の今まで松田さんのファンの女の子が――――」


 気を遣ったつもりで発した声が続かなくなる。何故なら月の頬ををレックスが無遠慮に摘んだからだ。


「俺の事を気遣ってくれるのは有難いんだけど、その前に、この大丈夫じゃなさそうな落ち込み顔を引っ込めようか」


「ふぇっ……」


 笑顔を浮かべているつもりだった月は思わぬ事を言われて固まる。すると月の頬にあったレックスの指が緩み、肌の表面を撫でるようにした後にゆっくりと離れていった。それからすぐに覗き込むように下から顔を見上げられる。


「俺に何か出来ることはある?」


 無遠慮に踏み込んで来ないけれど、どこまでも優しい声を掛けられて月の涙腺はさらに刺激されてしまう。それを隠すために、顔を両手で覆い、さらにその手を自らの膝に押し当てる。


 しかし、視界が暗くなると頭は勝手に直前にあった嫌な出来事を思い出させてくる。今近くにいるレックスの事より、和司の事で頭が一杯になってしまう。


 甘えちゃダメだ。


 そう一瞬考えたのに、レックスの直前の声掛けと、自らが名前のコンプレックスに関して唯一吐露して甘えた過去が月に一歩を踏み出させる。


「お父さんがっ……」


「うん」


「私の名前っ、変ってっ……可哀想って……昔言って、……今も、きっと、そう思ってて…………」


「うん」


「今日は、ちょっと……、会う前から、今まで聞けなかった事、聞けるような気がしててっ、でもっ、やっぱり無理でぇっ……。今日も、名前呼んでくれなかったから、私っ、傷つける事わざと言って、もう会わないって言っちゃってっ」


 頭の中に浮かんだ事をただただ溢すように言っている内に、とうとう堪えられなくなって出て来た涙をジーンズに染み込ませる。


「でもっ、なんかっ、変でっ……どうでもいいって思って言ったのにっ、なんか凄くっ……」


 そこまで言って言葉が出て来なくなる。自分の感情の整理が出来ない。頭の中にぐるぐるとさっきまでの光景とそれまでの経験やそこから生じた苦悩が渦巻く。


 頭の中の冷静な部分がこの場に仕事に来たレックスの前で自分はうじうじと何を言っているんだと、高ぶった感情を必死に抑えようとする。しかし、それと同時にどうしようもないくらい誰かに甘えて縋りたいという欲求が生まれて、タイミングよく現れてくれたレックスを解放することが出来ない。


 ごめんなさい、こんなところで泣いて、迷惑ですよね。


 そんな台詞を口にしようとしては出来ないを繰り返す。すると、不意に肩を叩かれる。僅かに顔を上げると月の眼前にレックスがスマホを翳していた。


「仕事用のスマホ持ってる?」


 突然何を、と思いつつ頷く。仕事で急な予定変更の連絡が来る事があるので、月はプライベート用とは別に仕事用のスマホを常に持ち歩いている。レックスは月が頷いたのを確認すると、膝が触れ合いそうな程の真横から腰を浮かせてベンチの端に移動してしまう。


 それまでレックスが居た側の空気が急に冷たくなる。同時に離れられてしまった事への寂しさとショックが生じそうになる。しかし、そんな負の感情が生まれる前に月のショルダーバッグの中でスマホが震えだした。


 離れて行ったレックスを一瞥すると、ベンチの端で遠くを見るように座りながらスマホを耳に当てている。月の方を見る気配はなく、まるで他人の距離感だ。そう思いつつも月はバッグから手探りでスマホを取り出し、画面に表示されている文字を見た。


『松田 樹 様』


 月は躊躇することなく通話ボタンを押した。


『ごめんね。ここまで人目がある所だと、ちょっと全力出せないからさ。伝える言葉だけでも全力でいこうと思って電話かけちゃった。だから、今の俺の事は急にムーちゃんに声を掛けて来たナンパヤローで、断られたにもかかわらず図太く隣に座る変な奴扱いして、こっちはなるべく見ないようにして』


「えっ? あっ、はいっ」


 突然の指令に反射で返事をして、レックスに向けていた視線を正面に向ける。するとレックスは受話器越しにしか聞こえない小さな声でポツリと言った。


『――――寂しかったね』


 その声が鼓膜を通って脳に辿り着いた瞬間、レックスの突然の行動にほんの少し冷静になりかけていた心身がぶるりと震えた。胸の内で表面張力ぎりぎりまで溜まっていた感情がまた溢れ出し、慌ててまた目元を膝に押し付ける。そうすると、レックスの声だけが静かに耳元から聞こえてくる。


『自分の一部を否定されるのはただでさえ辛いのに、それが実の父親からだったらもの凄く悲しいのと同時に寂しい気持ちに俺ならなるかな』


 “寂しい”という言葉が月の胸に途轍もなく響いた。


 和司の事を考える時にその単語を用いたことはなかった。名前の事を和司がどう考えているのかばかりが気になって、自分の感情に焦点を置いてじっくり考えたことなどなかった。そして、今、“寂しい”という単語と自分と和司の関係を重ねると、過去の様々な思い出の内にある言葉に表し辛かった感情が悉くそれに当てはまっているような気がした。


 私は寂しかったのだろうか?


 そう思った月にレックスの声がまた届く。


『細かい事情は知らないけど、今のムーちゃんはお父さんと一緒に暮らしていないのに、今日はわざわざ時間作って会いに行ったんでしょ? 色々な想いを抱えて頑張って会ったにもかかわらず、期待していた事が叶わず、思わず感情的になっちゃったわけだ。でもって、ムーちゃんは優しいからさ……それで相手を傷つけたかもしれないって思うと自分が傷つくよりも悲しい気持ちになっちゃうんじゃないかな。だから今、少し混乱してる』


 そうなのだろうか?


 月は自分の感情の整理が出来ず、目を膝に押し付けたままスマホを持っていない方の手で頭を抱えた。


「……自分の事が自分でよくわかりません」


 レックスに言われたことは不思議なくらい胸に響くから、実際に月の心を言い当てているのかもしれない。けれど、それは恋心故にそう感じてしまうだけかもしれない。それを冷静に判断出来るような精神状態ではない月には答えが出せなかった。


『そりゃそうだ。人の感情なんてそんな単純なもんじゃない』


 レックスは笑い飛ばすように言い放った。


『分からなくて当然。感情なんて言葉に出来なくて当然でいいんだよ。好きも嫌いも、楽しいも辛いも同時に存在して何らおかしくないんだ。だから人は思い悩むし判断を間違えたりする。当然だ。俺達はそんな単純じゃないからね。間違えて当然。それは俺も、ムーちゃんも、そしてムーちゃんのお父さんも一緒だ』


「私と、お父さんも?」


『うん。言ってはいけない事を言ってしまうこともあるだろうし、思ってもいない事をつい口に出してしまうこともあるかもしれない。逆に言いたいことがあるのにそれが全く伝えられない事もある。それが原因で後悔したり絶望したり、人生踏んだり蹴ったりだ。……でも、生きている限りはね、次に何をするかの決定は自分で出来るんだ』


「次に何をするか……」


『そう。嫌いなもの、自分にとって不必要なものだと過去を切り捨てて、すっきりして前を向くことも出来る。逆に切り捨てないで少しでも自分が受け入れられるように手を加える事も出来る。だからお父さんのことを切り捨てるのも拾い上げるのもムーちゃん次第だ』


 レックスに語り掛けられることによって、月はナチュラルに心の整理をさせられた。そして、自分は今後和司とどうなりたいのかという選択をしなくてはならない事に気が付いた。


 切り捨てるか拾い上げるか。もう会わないのかまた会うのか。名前の事を割り切るのかそれとも和司の真意を聞き出すのか。


 考えれば考えるほど胃がキリキリと痛くなりそうな選択の数々に眩暈を起こしそうになったが、そんな月にレックスが残酷であると同時に温かい声を掛けた。


『沢山考えて悩めばいいと思うよ。答えなんかそう簡単に出ないだろうからね。誰かに相談したくなったら俺で良かったらいつでも話は聞いてあげるから』


 まるで子供に語り掛けるかのように穏やかな口調だった。月はほんの僅かに顔を上げて、唇を尖らせる。


「そんなこと気軽に言ったら、私、毎日松田さんに会いに行っちゃいますよ……」


 話を聞いてくれると言われることは純粋に嬉しかったが、レックスの忙しさを思い浮かべるとそう簡単に自分と話す時間が取れるとは思えない。となれば社交辞令で言われているのだと考えるのは自然な流れで、月は恋心も相まって意地の悪い事をつい言ってしまう。


 すると、レックスがベンチの端で身じろぎする気配がした。その途端、折角真剣に話を聞いてくれたレックスに対する返事として不適切だったと前言を後悔しかける。そんなタイミングでまた受話器越しに声が届いた。


『……ムーちゃんなら毎日来てくれてもいいよ』


「えっ?」


 レックスにしては珍しいぼそぼそとした喋り声で語られた台詞に月は思わず隣に座っている本人に直接視線を向けてしまった。その視線に気が付いているのかいないのかレックスはスマホを耳にあてたまま、前方斜め下辺りを見ながらさらにぼそぼそと喋った。


『ムーちゃんなら別にいつ部屋に入ってくれても構わないし、どこの部屋をうろうろしてくれても抵抗ない。でもって、俺が仕事している間にちょっと家の片付けしてご飯とか作ってもらって、家事代行とかじゃないから一緒にそれを食べながら話をすると。うん、悪くない』


「松田さん?」


 それはつまりどういうことだと、月が自分で考えることを放棄して名前を呼ぶと、レックスはずっと逸らしていた視線を月に向けた。


『俺さ、なんかムーちゃんの事どうしても放っておけないみたいなんだよね。今もこうしてリスキーなところでなんだかんだ顔見ちゃうし。余所で一人で悩んで泣いてるのとか想像したくない。だから、本気で俺んとこ来て』


 目付きも声もとても優し気なのにどこか艶めいていて深い。


 月はレックスの視線に射抜かれたかのようにスマホを耳に押し当てたまま動けなくなった。何か返事をしなくてはと思いはしても、適切な言葉が一切思い浮かんで来なかった。


 さっきまで和司の事で落ち込んで冷え切っていた体の底から沸々と熱が生まれて、全身を巡る。それが頬や首や耳にまで回ってきたと自覚したところで、月は心の中ではっきりとこの瞬間に沸き上がってきた自らの感情を唱えた


 ――――やっぱり、私、松田さんのこと凄く好きだ。


 そう思った直後に、月の喉はほぼ無意識に言葉を選び出して発していた。


「……私も松田さんが辛いときは、幾らでもお話聞きますね」


 自分がされたら嬉しいことを人に返す。


 そんな単純な衝動から何を深く考えることなく発した言葉に、レックスは一瞬大きく目を見開いた。そしてその直後に片膝を折ってベンチに踵をのせ、その膝にさっきまでの月と同じように額をのせて顔を隠してしまった。それでもすぐに受話器越しに声が聞こえてくる。


「……ありがと」


 その声が僅かに震えているような気がしたが、レックスはしばらくの間黙ってしまったので確認のしようがなかった。


 ――――私、いざという時に松田さんを頼ってもいいんだ。


 沈黙の中そう思うと、心は少しばかり軽くなった。そんな心の浮上に釣られるように月は背筋を伸ばして視線を上げた。


 相変わらずレックスの真っ赤な看板がライトに照らされてもの凄い存在感を放っている。


 ただ、どんなに綺麗で格好良く撮影されたレックスよりも、隣で黙って座っている男の方が何倍も魅力的で大切に思えた。


「私の方こそ、ありがとうございます」


 月は素直に人に礼を言おうと思える自分に安心しつつ、心からの言葉を受話器越しに送った。

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