第3.5話

13 五島家のいつもと違う朝の風景


「えっ、嘘っ、えぇっ!? なっ、えっ、ちょっと、えぇっ!? なんでぇぇぇえええ!?」


 早朝の五島家に千穂の絶叫が轟いたのは夏の始めの頃だった。


 朝でも暑い外気を窓が遮り、エアコンの冷風が部屋中を快適にしてくれている中、月は冷や汗をかいていた。


 今さっき、レックスガチファンの千穂は例の大食い企画動画を見始めた。事前にレックスに公開日を教えられていた月は態々この日のために休みを取っていた。中途半端な説明しか出来ない状態で仕事に出るのは得策では無いと判断したからだ。


 動画が始まって数分はレックスが一人で企画内容を説明しているだけだったので何の問題もなかった。しかし、月の家事代行会社の名前が出てきたところで「ちょっと、また月の会社が協力したの!?」と朝食の味噌汁をよそっている最中に興奮した声で問われる。それには曖昧に答えて、二人分の味噌汁をダイニングテーブルに配膳する。そうして朝食が整ったところで、映像がキッチンに切り替わった。


 顔と声出しNGに関して適当な理由がテロップにて説明され、月がスタッフAさんとして紹介される。顔には表情に合わせて切り変わる可愛らしいイラストが貼り付けられ、声は完全に字幕にされていた。


 千穂は「ん?」と目を眇めて画面を凝視。次いで調理が始まり、月がキッチンに立って野菜を刻んでいるその手元がアップで映った。その瞬間、千穂の視線が画面から離れる。味噌汁を啜っていた月の両手がこれでもかという程凝視され、千穂が画面と月を交互に見る。


 その眼力が強すぎて、月は気まずさに耐えられず一言「えへっ」と頬を引き攣らせた。その後、絶叫。


 当然朝食を呑気に食べていられるような状況ではなくなり、椅子から立ち上がった千穂に月はガクガク肩を揺さぶられ、どういうことだと問い詰められた。となれば話せる範囲で説明をする他はない。


 定期的に家事代行を任されている事は口にせず、今回の動画撮影時のみ派遣された事にして、後は撮影時の事を差し障りのない程度に話す。すると、予想していた通り、千穂は大興奮状態になった。


 椅子に座る事など到底出来ず、千穂は部屋中をあちらこちらに動き回ってはあれやこれやとレックスについて聞いて来た。話し始めに個人情報はレックスの為にも絶対に流さないと言い置けば、よい子なファンである千穂は聞きたそうにしつつも、レックスに迷惑は掛けまいと月に対しても律義に余計な質問はしてこなかった。


 しかし、そんなよい子な千穂もサインを貰ってこなかったと話すと、この世の終わりかの様に床に膝を突いた。その後また月の肩をガクガク揺さぶりながら何故だ何故だと涙を流して悔しがられ、流石の月も千穂に出演がバレる可能性があると分かった時点でそのくらいお願いしてくればよかったと少し後悔する。


 申し訳なく思いつつ、撮影当時のことを思い返す。何処かにサインを貰えるタイミングはなかったかと回想し、そんな時間は全くなかったことに気が付く。


「レックスさんは常に忙しそうだったし、マネージャーさんの前だとサインとか言い出せる雰囲気でもなくて……。ごめんね、お母さん」


 素直に謝ると千穂は嘆き顔をパリッと切り替えた。


「マネージャーさんってことは“種ちゃん”にも会ったの!? いいなぁ~」


「えっ、種田さんって視聴者に知られてるの? ……でもって羨ましいの?」


 意外な事実と俄かには信じ難い発想に月は驚きを隠せなかった。千穂は月の問いにあっさりと頷き、スマホを操作した後に画面をひっくり返して見せて来た。映っていたのは過去のレックスの動画。他のYouTuberがレックスにドッキリを仕掛けようとするのに種田がにこやかに協力しているシーンだった。


「種ちゃんはファンの間では結構有名だよ。初めて顔出しした時はマネージャーもイケメンだって話題になってさ。それから時々だけど動画に顔出すようになったんだよね。真面目でしっかり者のイメージなんだけど、レックスが絡むと恥ずかしそうにしつつも楽しそうで、見ててなんか和むのよ。実物はどうだった? やっぱり二人で仲良く撮影してるの?」


 月は種田の新情報に頬を引き攣らせつつ、どう答えたら良いものかと思考を巡らせた。


 真面目でしっかり者なのは間違いない。レックスが絡むと恥ずかしそうにしつつ楽しそうなのも大いに頷ける。ただ、月は二人の絡みを見て和んだ事はない。何故なら、種田は月に対して超が付くほど攻撃的だからだ。


 大食い企画の動画を撮影したあの日、月は種田がレックスに対してマネージャーとしての親愛だけではなく、恋愛的な好意を向けていることをその言動から知った。始めは驚いた。しかし、昨今の世の中では同性に好意を抱く話などありふれており、その驚きは徐々に治まっていった。


 そして、驚きが治まると自分が種田にライバル認定されているという不可解な事実に気が付いた。


 何故自分が、と月は内心で大いに嘆いたが、理由が不明でも種田が月に向ける目つきの冷たさと鋭さに敵意が篭っていたのは純然たる事実だった。恋愛経験が少ない月でも、その敵意が生半可な感情から生まれたものではないということは肌で感じ取れた。


 そんな種田に「直ぐに契約解除してやる」と追放を宣言された月。撮影から数週間が経過した現在、毎週しっかりレックスの部屋に通って家事代行をすることを許されている。自らの契約に関してレックスと種田の間でどんなやり取りがあったのかは月の預かり知るところではなかった。ただ、契約解除をされない代わりに種田の圧は顔を合わす度に増し、レックスの部屋での仕事も以前と何も変わらずというわけにはいかなかった。


 種田と出会う前は家事代行に三回行けば二回はレックスが居た。しかし、今ではレックスは三回に一回会えれば良い方で、レックスが在宅の時は必ず種田も一緒にマンションに居るようになった。そしてレックスは基本的に編集部屋で仕事、種田はレックスと同じ部屋で過ごすか、キッチンで料理をする月を鋭い目で見張りながらダイニングテーブルで仕事をするようになった。


 要するに、レックスと顔を合わす機会がぐっと減り、その分種田に睨まれながら作業する時間が増えたということだ。


 月はかなりのやりづらさを感じていた。前の環境が恋しくなる程に。種田から投げかけられる厳しい言動と鋭い視線を思い出すと、胃がキリキリと痛み出しそうだった。


「ちょっと、どうしたの月?」


 種田のことを思い出してげんなりした月の意識は対応すべき千穂から離してしまっていた。声を掛けられ、はっとする。


「えっ、あっ、ちょっとぼーっとしちゃって。種田さんね。えーと、そうだね、まっ……レックスさんとは確かに仲が良さそうだったよ。大食い企画も種田さんと二人で撮影してくれたし」


 見切り発車で喋ったため、危うくレックスを本名の“松田”で呼びそうになってしまう。ヤバイと思って千穂の顔色を窺い見ると、気にした様子がない代わりに「へぇ」と顎を擦っていた。


「他の撮影スタッフは居なかったんだ。珍しいわね」


「えっ? 珍しいの?」


 今まで気にしてもいなかった事を珍しいと言われ、首を傾げると千穂は頷いた。


「レックス様レベルのYouTuberならマネージャー以外のスタッフを複数雇っているのが普通だよ。前に動画内で言ってたけど、同じマンション内にもう一部屋借りてて、そこに撮影スタッフや編集スタッフが寝泊まりして仕事の手伝いをしてるらしいわよ。でもって、レックス様一人の動画とかは未だに一人で撮ることもあるけど、ゲストや業者がいるような撮影にはそのスタッフを手伝いに呼ぶのが普通だと思うわ」


「へぇ、そうなんだ。知らなかった。流石ファンだね」


「私は演者として動画に映るレックス様だけじゃなくて、レックス様の全てを崇拝してるからね」


 ぐっとサムズアップされ、種田とは違う種類のレックスに対する執念を千穂に感じた。とはいえそれは以前から十二分に知っていたので、種田が与えてきた衝撃と比べたらミジンコ程度の驚きしかない。


 しかし、この間まで種田の存在すら知らなかった月にとって、同じマンション内に他にも仕事関係のスタッフが居たという事実はそれなりに驚きだった。何度となくレックスの部屋に仕事に行ったが、そこにはいつもご機嫌なレックスが居るだけで他に誰かが居たのは種田が初めてだった。

 

 思い返してみれば、レックスは時々ふらりと玄関から出て行って割と直ぐに戻って来た事が何度もあった。あれはマンション内の他の部屋に行っていたのかもしれない。


 そう考えて月は憮然とした。スタッフの部屋でしか出来ない仕事があるのかもしれなが、いつもこれでもかっていうくらい働いているんだから、偶にはスタッフの方を呼び出して、自分の負担を減らせばいいのに、と。


 レックスは月の前では基本的に笑顔だったけれど、いつもどことなく疲れていた。身近に居るスタッフの存在を知ってしまうと、その人達にもっと頼ればよいのに、とどうしても考えてしまう。


「あーあー、もう一回月の会社とタイアップして月を使ってくれないかなぁ。そしたら次は絶対にサイン貰ってもらうのにぃ」


「もし、その機会があってもサインを確実に貰えるかどうかなんて分からないからね」


 動画の撮影に貪欲なレックスなら再び家事代行業務を利用した動画を思いつくかもしれない。その際は月に協力を要請してくる可能性は高い。そのタイミングでサインを頼めば千穂の願いが叶う可能性はそれなりにある。ただ、レックスが快くサインをしてくれる姿が想像できると同時に、種田がサインにNGを出す姿も容易に想像出来た。よって期待をさせるような事は口にしないのが吉だ。


「えー、サインが駄目ならせめて、レックス様が触ったものに触れたい。紙でもペンでも何でもいいからっ。なんか無いの!?」


 マニアというより変態っぽい発言をする親に若干引き気味で苦笑いをする。


「そんなのな――――あっ」


 無いと言いかけて頭の中に浮かんだのはウサギのぬいぐるみだった。あれは元々レックスの私物だ。ただ、思い浮かんで直ぐに駄目だと判断する。その日限りの撮影協力者に毎度のようにレックスがプレゼントを渡していると思われたら困る。それにあの中にはレックスの声が録音してある。しかも、録音内容が意味深過ぎる。とてもじゃ無いが千穂には聞かせられない。


「えっ!? 何かあるの!? レックス様が触ったものが!?」


 リアクションを失敗したと自覚した時には既に遅し。千穂は目が血走る一歩手前の顔で詰め寄ってきた。


「えっ、いや、そのっ」


 何か良い言い訳の方法を探しても直ぐには浮かんでこず、あたふたしてしまう。すると千穂はさらに月との距離を詰めてきた。肩がガシッと強く掴まれる。瞬間月の脳内にとある記憶がはじけ出た。


 ――あっ、私、松田さんに肩組まれた。


 それは紛れもない接触で、その記憶から数珠繋ぎで他の記憶が呼び起こされる。


 調子の悪いレックスの背を摩り、睫毛を取るからと至近距離から頬に指を伸ばされ、その手が唇や顎のラインに…………。しかもそれ以前には不可抗力とはいえその広い胸に縋りついた事さえあった。


「なに? ちょっと、どうしたの?」


「へっ?」


 目の前の千穂の顔が不可解そうに片眉を上げ、首を傾げている。


「急に固まって、顔も赤いわよ」


「えっ、赤い?」


「うん、赤い」


 自分がレックスとの触れ合いを思い出して赤面していた事実を唐突に突きつけられ、月の顔はより熱を持った。


 かつて感じた事のない類の羞恥が全身を駆け巡り、月をどうしようもないほど落ち着かなくさせた。出来る事なら全身のむず痒さに身を任せ叫び出したいような心持ちだったが、千穂が目の前に陣取って肩を掴まれている状態では無理だった。


 月はそんな中、千穂を御す為に小さな嘘を思い付いた。


「手っ、手に触った! 握手して貰った!」


「まぁっ!!」


 月が右手を千穂の眼前に開いて晒せば、千穂は目を輝かせて自らの娘の手に飛びついた。


「羨ましいぃ!! この手にレックス様が触れたのね!?」


 千穂はレックスの手の大きさや体温、果ては触感まで聞いてきたが、月はそれには全て覚えてないと返すしかなかった。実際に触れたのは手ではなく背中なのだ。自然と背中を摩った時に感覚を思い出してしまう。広くて硬い背中や背骨の凹凸に、温い体温。手で触れられる範囲にいたため嗅ぎ取れたレックスが常時付けている香水の淡い香りまでがしっかりと脳裏に浮かんできた。


 思い起こしたリアルな記憶に月は顔面どころか全身まで熱くさせた。


 そんな月を見た千穂がニヤニヤと笑った。


「やだぁ、ちょっと月。散々興味なさそうにしてたくせに。握手をしてもらった事を思い出すだけで真っ赤になっちゃって。とうとうファンになっちゃった?」


 手に頬擦りしながらニヤニヤとからかってくる千穂。月は頬を膨らませた。


「別にファンになった訳じゃないし……」


 言葉にしてファンじゃないと言った途端、月は言いようの無い違和感を覚えた。


 月がレックスのファンじゃないのは今でも変わらない。別にレックスを目の当たりにしてキャーキャーと騒いだり、動画を全てチェックしたいと思ったりするわけじゃない。


 なのに、何故、自分はレックスの事を思い返しただけで体を熱くし、ソワソワしているのだろうか?


 レックスの見た目の良さには慣れたはずだった。異様に整った容姿を目の当たりにしてドキドキする事はもう無い。となれば今自らが感じているこの感覚と感情はなんだ?


 月は違和感の正体が何か分からない。


 男慣れしてないから、ボディタッチが多いレックスに翻弄されてしまっているのかな?


 無難なところに違和感の落としどころにした月は自分の手に頬擦りする千穂にそろそろちゃんと朝食を食べろと言うために息を吸い込んだ。


 五島家の二人はその後あれやこれやとレックスの話で盛り上がりながら、常より少し遅めの朝食を食べる。


 いつもと同じようで、いつもと違う朝が平和に過ぎていった。





 月が自ら定めた落としどころが誤りである事を自覚するまで、もう少し――――。

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