第10話 奈良散策*浄瑠璃寺

 小一時間経っても、私達は興福寺宝物館のベンチにいた。

 漸く落ち着いたと思ったのに、また涙が頬を伝って落ちていった。

 

 和樹はただ黙って、私の背中をずっと撫でてくれている。

 「大丈夫か?ほんま俺が悪かった。ごめんな」とずっと謝ってばかりの和樹。


 もっと慰めて欲しい……。

 そんな気持ちが心の暗闇からすっと頭を出す。だけど、私は、それを必死で押さえ込む。

 

 悪いのは和樹ではない、、、私、、、私なんだ。


 自分の気持ちを伝えることができず、勝手に焼き餅を焼いて、会社で仲良くしている田中君まで引き合いに出した私は、本当に、本当に最低だと思う。

 それに、気持ちを整理出来ないからって、泣いて逃げている自分がとにかく腹立たしい……。


 だけど、その涙のおかげで、心の奥の何処かにずっと引っかかっていたものが、全部綺麗に洗い流されたような気がする。


 だからだろうか?

 私は、素直な気持ちを言葉にすることができたのだ。


「和樹、ごめんな。もう大丈夫。私、本当に自分で自分が嫌になったわ。こんなんじゃ駄目やんね。ごめん……。ごめんなさい」


 和樹は、私の頭を数回撫でると、「いや、俺が悪かった。今日一日、お前をむっちゃ楽しませたるって思っとったのに……。やっぱ、俺、ほんまあかんわ」といつになく落ち込んだ表情で私に呟く。


「違う。私が悪いんや。和樹はなんも悪くない。悪く無い……」


『だから、、、このまま奈良散策を続けようよ』


 声に出したいけど、、、その一言が出ない。

 その時、、、私の顔を見つめていた和樹が、語りかけるように呟いた。


「今日は、俺の考えているプランで、最後までお前と回りたいんや。だから、このまま続けたいんやけど。お前、大丈夫か?」


 私が言いたいことを和樹が言ってくれた……。

 以心伝心とはこんなことを言うのだろうか?

 差し出された右手を握って立ち上がった私は、「うん」と小さく頷いた。




 車は、奈良公園を抜け、大きな交差点を左へ曲がると『奈良街道』と呼ばれる道路に入っていく。

 右手に東大寺の転害門が見えて来た。すごくひっそりと建っているが、ここにも『国宝』と書いた看板が立っている。

 本当に、奈良は凄い。右も左も凄く大事なものばかりあるような気がする。


 そうしているうちに、白いヴィッツは、『奈良坂』と呼ばれる坂道を勢いよく登っていく。確か、ここら辺に『般若寺』という素晴らしいお寺があったっけ。だけど、今日は、そこには寄らないみたいだ。

 

 坂を登り切った所で、車は、柳生街道の方へ右折した。


 しばらく行くと、道はどんどん細くなり、カーブばかりの山道になっていく。ぼんやりと眺める私にさっきよりも長閑な情景が流れていく。

 

 カーブの度に右に左にと体を揺らしている私は、和樹の顔を見上げる。

 何を思っているのだろうか?さっき泣いてしまった私のことをどう思っているのだろうか?

 聞きたいと思った。すぐに聞いてしまいたいと思った。

 だけど、今は、まだその時ではないともう一人の私が呟いている。


 今日、これまで交わしてきた二人のかけ合いのような言葉は、息を潜めるように消えている。それでも私は、何一つ不安を感じなかった。

 それは、和樹と一緒にいるこの時間がとても心地いいから……。




 車は、さらに険しい山道を登っていく。すると、右や左に、無人の野菜売り場が見えてきた。そこには、取れたばかりなのであろう土の付いたネギや里芋、ミニトマトなどが置かれていた。


 「ん?これっ、、、」


 この景色に見覚えがあった私は、思わず和樹に声を掛けていた。


「なぁ、和樹?もしかして?」

「そうや!!そのもしかしてやで!じゃあ、二人で言ってみようか!今から行くお寺はどこでしょうか?いっ、せーのーで!」


「「浄瑠璃寺——!!」」



 私達は、学生時代に、奈良にあるほぼ全てのお寺を回ったと思う。その中でも二人が共に一番と上げる場所が、ここ浄瑠璃寺だった。

 実は、ここは、住所でいうと奈良ではなく、奈良と京都の県境の京都府木津川市の山の中にあるお寺なのだが、私達にとっては『奈良の素敵なお寺』という認識なのだ。


 浄瑠璃寺の最大の見所は、なんと言っても九体の阿弥陀如来だろう。

 山深い場所にあるからか、とにかく保存状態が良く、平安時代に作られた九体の仏像は、まだ薄らと金色に輝いている。その九体が横一列に並んでる姿、しかもそれらは全て国宝に指定されているなど、とにかく全てにおいて規格外の場所だった。

 しかも、市内からは結構離れていることもあり、訪れる観光客もそうはおらず、まさに奈良観光においての穴場の一つなのだ。



 一台も停まってない有料駐車場に車を止めた私達は、小さな参道を歩いて行く。

 左手には、年季の入った渋いお土産屋が有り、ここでも地元で採れた野菜や自家製の漬物、そしてお菓子などを売っている。帰りに、ゆっくりと見ていこう。



 拝観料を払った私達は、靴を脱ぐと並んで本堂に入っていく。

 敷居をまたいで部屋の中に入ると、九体の阿弥陀如来が今日も静かに整然と並んでいる。

 和樹と私は並んで正座をすると、仏様の優しいお顔をじっと見つめた。


 

 ただ、ただ、静かな時間が過ぎていく……。


 もう、言葉は要らなかった。


 私達は、過去に何度もこのお寺を訪ねていたが、多分、初めて来た時から、ここに座るとお互い一言も話さなかったと思う。この本堂に入れば、言葉なんか必要無かった。

 私達の心は繋がっていて、二人とも同じ事を感じているような気がしたから……。

 ただ、『どうしてそうなるのか?』を今までの私は、理解出来てなかったのかもしれない。


 だけど、今、私は、全てを知った。

 私にとって和樹という一人の人間がこんなにも大きなものだということを……。


 大学を卒業して三年。

 興福寺国宝館で和樹が言ったように、社会人となった私達には、それぞれの生活があり、もしかしたら、もう違う人生を歩んでいるのかもしれない。

 だけど、私はやっぱり和樹がいいんだ。ただ、和樹がいれば私は幸せなんだ。


 明確になった感情は、私の乾いた心にゆっくりと降り注ぎ、そして潤していく。

 なんて温かいんだろう……。


 もう逃げない。逃げちゃ駄目なんだ……。

 もう一度、仏様の目を見て強く祈る。


「今日、私は、素直にありのままの言葉を紡ぎます」


『大丈夫ですよ。頑張りなさい』


 九体の阿弥陀如来が声を揃えて私に勇気をくれた気がした。


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