八十八の言の葉

進藤歩

第1話

音。


 世界は音で溢れている。何かが動けば音が生まれ、耳をふさいだところで、より自分の呼吸や心音が鮮明になるだけ。音のない世界というのは凍り付き止まってしまったようで、ひどく寂しい世界なんだろうと思った。

 窓の外から聞こえてくる音に耳を澄ましてみれば多種多様な響きが耳朶を打った。金属バットが硬球をはじき返す小気味いい音。まるで怒鳴り声のように響いてくる指示を出す声。風に乗って運ばれてくるのは、様々な楽器の音色。しかし残念ながら届くのは高音を響かせる楽器ばかりで、屋台骨のような音を出す楽器は聞こえてこなかった。聞こえていればきっときれいなのだろうけど。


 目の前にあるのはかつての美しさは失ってしまった、少しさびれたピアノ。うっすらとほこりが積もり、指でなぞると本当の美しさを取り戻すがごとく黒い光沢が現れた。今日は掃除をしに来たんだけど別にいいか、そう思い鍵盤蓋をあけてみれば、規則正しく白と黒が並んでいた。

ひとつ鳴らしてみる。いい音がした、多分だけど。他の音を鳴らしてみてもきれいな柔らかい音が鳴った。こんなにほったらかしていてもきれいな音を鳴らしてくれる、多分こいつは優しいいいやつだ。

 意外と弾いてみれば手は覚えてくれているもので、自動的に動いてくれる。久しぶりだからきらきら星ぐらいがちょうどいい。

 噛みしめるようにゆっくり丁寧に。焦る必要はない。弾き終わるまでに一分と少し。集中していたのか隣に人がいることに気付かなかった。


 隣には女生徒、髪は肩のあたりまでの長さに切りそろえられており、顔立ちは比較的整っている。すっととおった鼻梁に、小さい口、ぱっちりとした二重の瞳。おそらく美人を構成するパーツが過不足なく並んでいて、人目を惹く顔立ちだった。タイの色を見てみれば青色で、どうやらおんなじ学年らしい。じろじろとぶしつけな視線を送っていても何も言われないのは、彼女が目を閉じて体を揺らしているからだろう。


「そのピアノ、少しだけ音がずれてる」


 彼女は目を閉じたまま、形のいい桜色の唇から、歌うような声が発せられる。


「まあ、そうだろうな。これだけほこりをかぶってたんだから、調律がくるっていてもなんもおかしくない」

「ふーん、そうなんだ。じゃあ、優秀だ、このコ」


 言うが早く、彼女は身をひるがえして教室から出て行った。まったく何が起こったのか、てんで理解が追いつかない。変な女もいるもんだ。多分音楽科のやつだろう。関わりがないから誰かはわからないけど。


「あ、言い忘れてた。きらきら星、よかったよ。私好きなんだ、きらきら星」


 教室のドアからひょっこりと顔を出した彼女はくすりと笑った。


「また聞かせてよ、じゃあ、ばい」


 変な女だ、やはり。ほこりが溜まっていることが示すとおりに、人なんかめったに来ない、廊下の隅にある教室なんだから用事がない限りは寄る事が無く、それもほとんど倉庫のように扱われている旧校舎の一室だ。ここに来る奴なんて言うまでもない。

 先ほどまで弾いていたピアノをいたわるようにそっとなでる。あの女に言われた通りだとするならどこかの音がずれているわけで、それを確かめるように一つ一つ音を鳴らしていく。けれどダメだ、わからない。アイツはいい耳を持っている、少しばかり羨ましさを覚えた。いいや少しじゃないな、だいぶ羨ましい。

 自分の欲求に正直になるのが最近のライフハック。まあ、手が届かないものを羨んでむなしくもなるが、自分が何を欲しているか明確にするのはずいぶんとすっきりとした気分にしてくれる。そう思えば、トントンといったところか。

 少しばかり考え事をしてたら、勢いよく教室の扉があけられた。


「悪い待ったか?」


 バケツやら雑巾やら、はたきなんかを抱えて、凌雅がせかせかと教室に入ってきた。オレがこの教室の鍵を職員室から借り、凌雅が用務員室から掃除道具を借りに行くことになっていた。抱えている道具を見るに思っていたよりも真面目に掃除するつもりらしい。

 今日は客人も多くてこの部屋も満足だろう。予定ではオレと新たに入ってきたこの男だけで、件の女は予定にはなかったのだけど。細かいことは気にしちゃいけない。


「十分と少しってところ、そんなに待ってない」


 椅子から立ち上がりながら答える。


「ピアノ、弾いてたのか?」

「まあ、少しだけね。意外とまだ弾けるもんだ」

「そうか、無理、してないか?」

「ちっとも、それに意味もなく音を鳴らすのは楽しい。生きている中に自分も含まれている感じがする」

「そいつはうん、よかった」


 そういって凌雅は少しだけ、笑った。


「いいからさっさと掃除してしまおう。早く終わらせないと朱里に怒られる」

「それもそうだな、怒らせると色々面倒だ」


 凌雅から道具を受け取ると手早くやっていくことにする。掃除のコツは上から下にやっていくのがいいんだったか。はたきでほこりを落としていくが、ほこりを吸ってしまい何度かむせてしまった。

 ほこりが積もった教室はなんだか悲しくて、むなしいものがある。何か目的があったはずなのに、その目的が果たされないままでいるのは悲しい。押し入れに詰め込まれたぬいぐるみとか、子供のおもちゃとか、栄枯盛衰を感じるものは総じて悲しい。思い出はいつだって、それが一番輝いていた時と比べてしまう。

 

 ほこりを落とした後は机やいすをどけ、床をモップでふき取っていく。簡単にではあるがこれぐらいでいいだろう。実際教師たちもそこまでのものは望んでいないだろうし、第一にこの教室は使われる予定などはないのだから。

 机やいすを元のように並べながら凌雅に尋ねる。


「凌雅、お前がこの教室に来るときに女子とすれ違わなかったか?」

「ああ、すれ違った。桜木奏だろ?かなりの美少女」

「いや名前は知らない、有名人?」

「お前は興味がないかもしれんが、ピアノコンクールで軒並み最優秀賞だとよ。卒業後に海外留学なんかも噂されてる」

「ふーん、すごいね」


 自分でも思ってもみないほど冷めた声が漏れた。


「質問しといて興味なさそうだな」


 怪訝な顔でこちらを見つめてくる。視線を適当に躱し話をつづけた。


「音楽科だとは思っていたけど、本当にそうならオレとは関係がないなと思って」

「なにかあったのか」

「さっきピアノを弾いていたら、声をかけられた。彼女、きらきら星が好きらしいよ」

「たったそれだけの情報で何をしろっていうんだよ」


 凌雅はふんと鼻で笑い、顔をしかめてみせた。

子供の頃に楽しかったものは思っているよりも深く覚えているもので。表立って口にはしないだけできっと今でも好きでいることが多いだろう。あくまで関わりが無くなってしまったというだけで、それはきっと思い出がきれいに保たれるのに一役買っている。


「何をしに来たんだろうね、彼女」

「わからないな」

「まあ、関係ないんだけどね」


 それにと続けた。


「ピアノやっている女の人は苦手なんだ。普段は周りを見下すようにしながら、舞台の上ではすました顔して立っている。一度ピアノを弾き始めると、激情に駆られたみたいに崩れるんだけどさ」

「お前のその偏見、相変わらずだな」

「ピアノをやっている奴はそういうもんさ。純粋無垢な奴なんていない」

「そうか?純粋な方がきれいな音を鳴らしそうじゃないか」

「綺麗な音だけじゃつまらないだろ。ずるかったり、優しかったり、時には激しい。音楽は音を楽しむなんてくだらないよ、音に楽しませられるといったほうが正しい。聞く方にとってはね。顔を一つしか持たない綺麗なだけの音はきっと退屈で、子守歌にぴったりだろう」

「厳しいな」

「そうかな、普通だよ」


 少しばかり吐き捨てるように言う。どうにも口が滑るような変な感じがした。


「これで掃除は終わりでいいか。こんだけやれば教師も文句はないだろ」

「そうだね、それがいい」

「じゃあ、俺は道具を片してくるから鍵を頼んだ。あとついでに朱里に帰るぞって言っておいてくれ」

「了解」


 オレの返事を聞くと凌雅は掃除道具を抱え、リノリウムの床をコツコツと鳴らしながら教室を出て行った。外は太陽が傾き始め、あたりは暗くなり始めている。部活動に精を出していた声も少なくなり、静寂が満ちていた。

 もう一度ピアノに向かう。外見はほこりを落としたことでだいぶ綺麗になった。蓋をあけ、鍵盤を再度叩いてみる。さっきよりもずっと音は響いた。しかし、それでも件の女が言った音がずれた鍵盤というのは分からなかった。


 職員室に寄り教室の鍵を返し、図書室へ向かう。朱里は真面目だから勉強でもしているのだろう。

 薄暗い廊下を進む。学校内は静かではあったが、図書室のドアは明確に内と外を分けるようで、少しばかり重たかった。

 図書室に入り、図書委員らしき学生に適当に会釈を交わす。音をたてないように注意を払いながら朱里を探す。探すなら隅の方、そして窓際の席。静かな場所にいるとき朱里は大抵そこにいる。予想通りに朱里は、参考書を開いて勉強していた。


「朱里、終わったよ。帰ろうか」


 朱里に声をかける。集中している彼女の横顔はとてもきれいなものだった。言わないけれど。


「美琴。分かった、片付けるからちょっと待ってて」


 参考書やら筆箱やらをいそいそとかばんに詰め込むと、椅子に掛けてあったダッフルコートを着込んだ。それから手袋にマフラーと、寒いのは勘弁とばかりに身に着けていった。


「うん、いいわよ。帰ろ」


 朱里に促されるまま、図書室を後にする。玄関ではすでにもう凌雅が僕たちのことを待っていた。


「待ったか?」

「いいや全然。この時間だと少し冷えるな。早く帰って温まりてえ」


 上履きから外靴に履き替える。靴の中はすっかり冷えていて、「そうだな、寒いのは嫌いだ」と小さな声でつぶやいた。

 時刻は五時半をまわったぐらい。辺りはすっかり日が落ちてしまい、ぽつぽつと街灯が灯り始める。民家から漏れてくる明りはどこか暖かくて、羨ましくもあった。


「ところで、なんであんたたちは掃除してたわけ?」


 信号を待っている間、朱里が口を開いた。その声はどこか苛立ちが混じっていて、できることなら続けたくはない。それでも朱里のおせっかいは昔からで、止めようがなかった。それに朱里はおせっかいというよりも、面倒見がいいというべきなのだろう。彼女のはきっと、好ましいものだ。


「いや、遅刻ばっかしてたから?その罰としてだっけ?」

「説教は話半分で聞いていたとしても、聞いた半分ぐらいは覚えておきなよ。説教した教師が浮かばれない」

「美琴が俺の分まで聞いてくれるから大丈夫。とりあえず今日は部活が無くてほんと助かった。じゃないと顧問に殺されてた」

「殺されてくればよかったじゃないの」

「ひでえ」


 朱里は凌雅に冷たい視線を浴びせ、凌雅は苦笑いを浮かべた。信号が青になる。車のヘッドライトがやけにまぶしい。少し目を伏せる。


「美琴も遅刻?珍しいわね。体調が悪かったのなら、そういえばよかったのに」

「俺も体調不良の可能性はないのか」

「あんたはただの寝坊でしょ。それで、どうなの?」

「オレも同じくただの寝坊だよ。別に大した理由があるわけじゃない」

「そう、ちゃんとしないとだめよ」

「俺との落差がひどいな」

「こういうのは日頃の行いがものをいうの」

「はあ、全くひどいねえ」


 やれやれと手を挙げてみせる。何度も見てきたやり取りだったなと思い返してみても、朱里は凌雅に厳しく、オレには甘かった。その甘さがどこか申し訳なかった。


「じゃあ、俺はこの辺で」


 凌雅と別れ、朱里と二人になる。凌雅がいた時よりも少しだけの歩くペースを下げた。これが精いっぱいのかっこつけなのだから世話ない。


「お父さんは、また海外?」


 おずおずといった調子で朱里が尋ねてくる。


「うん、あの人のマネージャーで」

「そっか、ごめん」

「謝るなよ、謝るようなことじゃないだろ」

「でも、」

「いいよ、気にしてないんだから」


 それでも、朱里は小さな声で「ごめん」とつぶやいた。謝られても朱里に非はない

のだから許しようがない。


「ごはんとかはどうしてるの?」

「出来合いのものを買ってくるのが主で、気まぐれに料理したりする」

「うちにご飯食べにくる?」

「迷惑だろ。やめておく」

「迷惑じゃないわよ、ママだって燈矢が大学行っちゃって三人分の料理がわかんないなんて言ってるし」

「そっか」

「そうよ」


 それはきっと嘘ではないのだろう。朱里のお母さんがご飯を多く作りすぎてしまうことも、オレが朱里の家に行くことを迷惑だと思わないということも。けどその優しさは甘い毒のようで、知らず知らずのうちにオレを蝕んでいくような気がした。


「うん、けどやめておく」

「どうして」

「朱里はオレに甘すぎるんだよ。このままだと一人で立つことすら出来なくなる」

「いいじゃない、それでも」

「ダメだよ。きっと煩わしく思うときがくる。オレは朱里に嫌われたくない」

「そんなの、わかんないじゃない」


 悲しい声色だった。こんな思いをさせたいはずがないのに、悲しませてしまう。少しだけ自分をまた嫌いになる。

 それきり朱里と話すことはなかった。朱里の顔を見るのも怖くて、連れ立って歩いていたのと変わり、二歩分ほど前に出る。この二歩はオレの臆病さそのものだ。

 そうこうしている合間に朱里の家に着いた。すりガラスの奥には柔らかい光が見える。入らずとも家の中が温かいことが分かった。


「本当にご飯いいの?」

「大丈夫だって、そんな心配するなよ」


 意地でも強がりでも何でもいい、諦めて、悟ったふりをして、身を流されるわけにはまだいかない。


「そう、困ったときには頼って」

「うん、ありがとう、朱里」

「寒くなってるから気を付けなさいよ」

「朱里も。じゃあ、また明日」

「ばいばい、また明日」


 朱里と別れ、自宅へと向かう。朱里の家から200mほど。それぐらいの距離は一人で歩かなければ。ようやく、また一人で歩けるようになったのだから。

 自宅に着く。周りの住宅よりも少し大きい家だ。しかし、大きな違いとして周りの家は光が漏れ出し、生活感が感じられるのに対し、我が家は明り一つなく住宅街には似つかわしくなかった。

 家に入ってみても外気温との違いは然したるものではなく、ひどく静かなことも変わらなかった。

 蛇口をひねって手を洗う。その水はひどく冷たくて、じんと痺れるように痛かった。

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