七着目「捨てる神あれば拾う神もなし」

 あれから、茫然としたまま時が過ぎ、気が付いた時には、僕はベンチに腰かけていた。

 彼女に振られ、絶望に打ちひしがれる僕の気持ちとは裏腹に、穏やかな川の流れの音が聞こえ、健やかな朝陽は、水面に照らされキラキラと輝いていた。

 こんなにも清々しい朝が、こんなにも恨めしい気持ちになるとは思いもよらなかった。

 それほど、僕の心は荒んでいた。


 辺りを見渡すと、犬の散歩やランニングしている人、サラリーマン達が早歩きで出社してる様子がみえた。

 僕以外はいつもと変わらない日常だった。

 もう出社しなきゃいけない時間だ。


 でも、汗と涙で体中ドロドロ。さすがにこの状態では会社には行けないと思った。


 僕は携帯を取り出し、会社に電話した。

「すみません、ちょっと体調が悪くて午前半休をお願いします。ハイ、午後には必ず出社します。失礼します」

 会社の受付に遅刻する旨を伝えた。


 近場のネカフェでシャワーを浴び、仮眠を取った。

 学生のグループなのだろうか?うるさくて全然眠れなかった。

 いや、昨日の事が頭から離れず、彼らがいなくてもどうせ一睡も出来なかったであろう。

 他人のせいにするのはやめよう。

 どちらにせよ、もうここを出なきゃいけない時間だ。


 会社に着くや否や、受付の人から伝言を承った。

「おはようございます。着いたばかりで申し訳ないんですが、社長がいつものカフェでお待ちです」


「?!えっ!本当ですか!わかりました。すぐに行きます」


「社長もついさっき出られた所ですよ」


「ああ、良かった。じゃぁ、そんなにお待たせしないって事ですね。ありがとうございます」


 もしや?!これは、もしや!!

 遂に新しい仕事の契約か!


 ウチの会社は、新しい仕事の契約が決まると、“いつものカフェ”で社長から直々に通達される習慣なのだ。

 いつも仕事に厳しい社長が、その時だけは、これまでの仕事の成果をほんの少しだけ褒めてくれる。

 その瞬間、「今までの苦労が報われた……」と、皆口を揃えて言う。そして、皆社長の背中に着いていくのだ。

 典型的なダメリーマンの僕でさえ、社長からお褒めの言葉を頂ける唯一のイベントなのだ!!


 ちなみに……奢りだ(笑)

 まぁ、そこは経費だから当たり前か……。



 やっと、独りぼっちの追い出し部屋から解放される……。

 そう思うと、足取りも自然と軽くなった。


 捨てる神あれば拾う神あり、人生楽あれば苦もあるさ、そんな言葉が次々を浮かんだ。

 さすがに、ここ最近、苦労が多過ぎた……。そろそろ、報われたって罰が当たらないだろう……。


 いつものカフェに到着すると、社長は既に席に着いて僕を待っていた。

 僕は、眠気覚ましに濃い目のエスプレッソを注文して、社長のいる席に向かった。


「お待たせして、すみません……」

 僕は軽く頭を下げ、椅子に腰かけた。


「おっ、おう……」

 昨日からほぼ寝てない、変なハイテンション状態の僕に対して、向かい側に座ってる社長は神妙な面持ちだった。


 アレッ、何だ?空気を読み間違えたか?……

 そう、僕は会社に到着した時から大幅に空気を読み間違えていたのだった。


 社長は押し黙り、おもむろに茶封筒から、一枚の書類を取り出した。そして、それをテーブルの上に置いた。

 社長の動作が余りにも丁寧で慎重な動きだった為、僕も黙って、その様子をじっと眺めていた。


 社長が黙って僕に差し出した一枚の書類。


 僕は恐る恐る書類に目を通した。

 やっと、この状況を理解すると、同時に、僕の脳と心がストレスの限界を越えてしまった。

 僕の視界は、見るもの全ての輪郭が徐々に歪んで見え始め、境界線のあやふやな、ぼかし絵のような世界になった。


 そんな、何もかもがボヤけた世界なのに、書類に書かれた文字だけは、はっきりとした輪郭のまま僕の視界に太々しく居座った。


 書類に一際大きく書かれた文字。

 それを、僕はゆっくりと読み上げた。

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