第2話 目覚めと出会い

【皇女の作り出したもうひとつの世界/オーストリア/ウィーン】


まだ幼いマリア・テレジアの部屋から飛び出すと、驚いた侍女を置き去りに、走って部屋から姿を消したのは、彼女の妹、マリアンナだった。


健康そのものだった賢く美しい自慢の姉が寝込んでから、はや数ヵ月、どんな名医をよんでも、理由は分からず、神聖ローマ帝国皇帝であり、オーストリア大公である、父のカール6世をはじめ、ウィーンには暗い空気が漂っていた。


自分を含めた家族は言うに及ばず、姉の教育係の『マミー』こと、シャルロッテ・フクス伯爵夫人をはじめ、オーストリア中のみなは姉の回復を神に祈る毎日であったが、それも今日で終わる。


やはり神はハプスブルク家を守護くださっているのだ。


マリアンナは強く思った。


「まあ、マリアンナさま、そのようにお行儀の悪いおふるまいをなさって!」

「聞いて! お姉さまが目を覚ましたのよ!」

「まあ! まあまあ!」


常に冷静沈着なシャルロッテ・フクス伯爵夫人は、常にない不躾なふるまいのマリアンナを見かけて、思わず注意したが、彼女の発した言葉に、両手で口元をおおうと、感動のあまりその場に立ちつくしていた。


知らせはすぐにカール6世にもたらされ、男子がおらぬどころか、娘まで……そんな風に、暗い気持ちになっていた皇帝は、皇后であり、マリア・テレジアの母、オーストリア大公妃、エリーザベト・クリスティーネと共に大いに喜び、知らせはすぐにウィーン中に広がる。


王宮から歩いてすぐ、コールマルクト通りに面した、首都でも有数の規模を誇る喫茶店『ドナウの夕焼け』では、王宮の暖房係が駆け込んできて、その知らせをもたらすと、葉巻をくゆらせながら、コーヒーを楽しんでいた客も、ビリヤードに夢中になっていた客も、みなが喜びに沸きたっていた。


皇帝に男子が産まれぬのが、国の行末に不安をもたらしているとはいえ、とかく聡明で美しいとうわさされている『マリア・テレジア大公女殿下』は、いまのところ、彼らの唯一の希望であった。


「これで心配はなくなったさ!」

「なあに、心配することはない! まだまだ皇帝陛下はご壮健、マリア・テレジアさまが、皇帝陛下がお元気なうちに、跡継ぎをお産みになれば、何の問題もない!」

「そうだそうだ! ハプスブルク万歳! オーストリア大公女殿下万歳!」


彼らは、口々にそう言い、ウィーンの、オーストリアに立ち込めていた重い空気は、安堵に包まれ、再び明るい希望が広がって行った。


「そして、現在に至る……」


「どうかなさいましたか?」

「いえ別に……」


マリア・テレジアと入れ替わり、この世界で目覚めて数年がたち、自分の記憶と現在の状況を照らし合わせながら、着々と女帝への道を歩むために努力をしていた弘子さんこと、弘徽殿女御こきでんのにょうご、『マリア・テレジア(改)』以後、『マリア・テレジア』は、美しいドレスを身にまとい、しごく上品に、今日初めて会った、婚約者のフランツこと、フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンに、非の打ちどころのない挨拶をしながら、心の中で品定めをしていた。


金髪碧眼で長身のフランツは、非の打ちどころのない王子様だった。凛々しい彼を、ひときわ引き立たせるように、金羊毛騎士団Order of the Golden Fleece( ゴールデン・フリース騎士団)団長である彼の胸元には、特別な勲章が輝いている。


異教徒からカトリックを守る目的で設立されたこの輝かしい騎士団は、実は、rightleftのふたつの組織があり、「rightは、いわゆる王侯貴族、名門出身者の名誉職的な表向きの騎士団であり、leftは、いわゆる荒事もこなす日の当たることのない隠されたハプスブルク家当主のためだけの騎士団である」そんな秘密を教えてくれたのは、娘に帝王学を教える気がまったくない父の皇帝ではなく、マリア・テレジアの祖父、レオポルト1世の代から、オーストリアに仕官している歴戦の英雄で、フランス王ルイ14世が実の父と、うわさされる有能な将軍であり、有能な政治家でもあるオイゲン公だった。


年齢から前線をしりぞいて、宮廷で政治家として過ごしていた彼は、皇帝とは違い、早くからマリア・テレジアの底知れぬ才能を見抜き、彼女に乞われるまま、『マミー』こと、シャルロッテ・フクス伯爵夫人の協力のもと、ひそかに、さまざまな後継者としての教育を、マリア・テレジアに施していた。


これが、生まれ変わったマリア・テレジアが踏み出した、のちに歴史を大きく変えることになる第一歩であった。


『これで、軍事関係にまったく向いていない……な――んて、お釈迦様でも気づかないわね』


完璧な礼儀作法で挨拶をしながら、自分を貴重な宝石か何かを見るように、眩しそうに見ているフランツに、愛想よくほほえんで、自分の未来の夫を見上げながら、マリア・テレジアは思った。


『あなたの御祖父君とチェンジできれば、少しは楽ができるのに!』


御祖父君というのは、さかのぼること半世紀、マリア・テレジアの祖父、レオポルト1世が、トルコとの戦いに窮地に陥っているその時、怒涛の猛攻でウィーンを救った英雄、ロートリンゲン公カールである。


そんなこんながあったりして、娘婿候補のフランツを大いに気に入って、期待している、マリア・テレジアの父、皇帝カール6世は、彼を名誉ある金羊毛騎士団Order of the Golden Fleece( ゴールデン・フリース騎士団)団長にえていたが、大体の彼の傾向を知っている、この時、彼に一目で恋に落ちるはずだったマリア・テレジアは、胸の内に、こんな感想をつらつらと並べていただけだった。


『名誉ある騎士団の騎士団長……担ぐ神輿は軽い方がいい、そんなところかしら?  映えるし? 今日、うしろにいる騎士団は、きっと“right”ね。早く“left”にツテを作りたいのだけれど、オイゲン公も難しいって言うし、団長ならできるかしら? それにしてもカールがいっぱいね。まあ、平安時代も似たような名前ばっかりだったわね。それにしても、マリアンナの視線が、カールに釘づけね!』


フランツと一緒にやってきた、彼のすぐ側にいる弟は、カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン、つまり、未来の妹の夫、彼もカールなのである。


マリア・テレジア6歳(改)、フランツ15歳、この出会いが、すべてのお伽話とぎばなしのはじまりであり、現実の世界から旅立って、いまもなお、女帝が天国へと旅立たずに、ひたすら夢見た新しい世界と、再び繰り広げられた戦記の幕開けであった。

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