天に向かい広がる葉

 前日に、手術の下準備の処置をしていた。そこでざっくりと、どんな風に切って術後に身体がどう変化するのか説明を受けた。退院後の生活について姉が心配して、話を聞かせろと部屋まで来たのだ。寝巻や下着はどうするのかとか、高額医療費の申請とか、ベッドに貴重品ボックスは備えてあるのかとか、いちいち細かいことを確認しながら、退院後はしばらく姉の家に来いと言う。

「リハビリをしてからの退院なんだから、大丈夫だよ。義兄さんに悪いし」

「だって、何かあったときに呼ぶ人はいないのよ。それでなくても痩せてるのに」

「骨と皮にはならないよ。無理そうだったら助けてもらうさ」

 退院のときは必ず迎えに行くと、姉は言う。せめて病院から部屋に帰りつくのを見届けさせろと。肉親の情は濃く、有難い。ボストンバッグに詰めるものをリスト通りか確認して、持って行くつもりだったタオルにまで文句を言う。

「二週間もいるなら、トラベル用のシャンプーとボディソープじゃ足りない」

「そうかなあ。じゃ、そこのコンビニで買ってくるよ」

 そんな会話で姉を部屋に残して、外に出た。言われたものと缶コーヒーを二本買って部屋に戻ると、姉は不思議な顔をしていた。

「女の子がひとり、来たわ。まだその辺にいると思う」

「ここに来るような女の子なんて、いないよ」

「ファンだって言ってたよ。三十くらいかな、色の白い子」

 その言葉を聞いて、マンションの階段を駆け降りた。通りをキョロキョロしても、誰の姿もない。


 この住所を知っていて、三十くらいの色の白い女を、ひとりだけ思い浮かべることができる。スマートフォンを取りに部屋に戻り、慌てて彼女の番号を呼んだ。すぐに出た彼女に、マンションの前で待っていると告げる。

「姉はもう帰りますって? じゃ、お暇するね。夕方の家事しなくちゃなんないしね。手術の日に病院に行くわね」

「ごめん。義兄さんによろしく」

 姉を見送りながらマンションの外まで出たところで、スマートフォンを片手にキョロキョロしながら彼女が歩いてくるのが見えた。

「あんな若い子を家に呼ぶようじゃ、まだ枯れてないのね」

「まだバリバリの青年期なんだけど。でも彼女は、そういう間柄じゃない」

 薄ら笑いのまま姉は、彼女に軽く会釈をして帰って行った。


 彼女は座卓の向かい側で、恐縮した顔をしていた。ちょうど買ってきたばかりの缶コーヒーを差し出し、自分が先に飲んでみせた。

「お姉さん、まだ帰る予定ではなかったのでは」

「話は終わってましたよ。主婦だからね、夕方からは忙しいんです」

「ごめんなさい。急に思い立って、来てしまいました。ちゃんと連絡すれば良かったのに」

「それはお互いさまですよね。僕も突然行ったし」

 少しだけ落ち着いた彼女が、部屋の中をゆっくりと見回す。本棚とパソコンデスクと小物箪笥だけの殺風景な部屋だ。引き戸を開ければ背の低いベッドを置いた寝室があり、寝転がって見られるようにテレビが置いてある。

「ご実家の勉強部屋と、雰囲気が似てますね」

「年齢が倍になっても同じ人間だからね」

 そのとき彼女は、部屋の隅で口を開けたままになっているボストンバッグに気がついたようだ。

「どこか、ご旅行ですか」

 どう返事しようか迷った。旅行というには長い期間になるし、回復度合いの見当もつかない。

「旅行ではないのですが、しばらく留守します。あなたが来たのが今日で、タイミングが良かった」

 そうだ、彼女が来るのが来週ならば、会えないところだった。


 しばらく雑談していたが、年齢も性別も違うふたりには共通の話題は少ない。彼女が持ってきた和菓子を出し、あまり上等ではないお茶を淹れた。

「しばらくお留守では、花見はご一緒できなさそうですね。八重桜のころなら、戻ってみえるかしら」

「八重桜は、染井吉野の一週間くらいあとでしたか。それも難しいかも知れない」

「長いお出掛けなんですね。お電話くらいはいただけますか」

「通話はおそらく、こちらからなら。メールはできますよ」

 苦しい返事をした。 


「このあたりのことは、ご存知ですか」

 まだ帰すのは惜しくて、そんなふうに切り出した。

「大して見るものもない地方都市ですが、大きな公園があります。まだ日も高い。散歩しましょう」

 彼女も話の接ぎ穂に困っていたのだろう、すぐに賛成の返事が来た。


 十分ほど歩いて公園に到着すると、思いの外風が強い。濃い色の早咲きの桜がもう終わっていて、花の季節の中継ぎのように辛夷が咲き、背の低い木瓜の木が華やかな色を添え始めている。彼女の髪が風に靡き、コートの裾がはためく。

「この公園、桜の木が多いのですね。来週末くらいでしょうか」

 枝の先に一輪二輪と咲いている花を見上げて、彼女が言う。

「そうですね、咲きはじめるとぱあっと咲きますから。閉園になるまで、花見客がビニールシートで飲み食いしてますよ」

 幹から直接出ているような花を、スマートフォンで撮影する。本当は彼女を撮影したいと思ったが、どう言い出して良いのかわからなかった。横を歩く彼女の体温が、風に遮られて感じられない。

 この苦しさを抱えた人が、少しでも呼吸しやすくなるように。私は無力だが、祈ることはできるだろう。なんの救いにもなれなくとも、私は彼女を傷つけたり貶めたりしない。彼女を取り巻く事情の中に、こんな人間がひとりでも多くいることを、彼女が理解していればいい。

「その後、何か事件はありましたか」

「弁護士さんが頑張ってくれているようです。直接は何も」

「早く落ち着けると良いですね」

 そんな話をしただけで、黙りがちに公園の中を歩いた。


 風の冷える時間になった。

「そろそろ引き上げましょうか。駅のほうへ歩けば、軽い食事のできる店もあります」

 私を見上げた彼女の表情から、目が離せなくなった。まだ帰したくない。

「駅まで行ったら、帰らなくてはならなくなります」

 彼女の唇が、小さく動く。この言葉を、どう受け止めたら良いのだろう。

「あの閉じた部屋から、逃げ出してきたんです。どこにも行けなくて」

 それきり唇を結んだ彼女を、ただ見ていることしかできなかった。せめて私が彼女の感情の受け皿になれる状況であれば、いつでも逃げて来いと言ってやれるのに、今はそれすら難しい。

 しばらく合っていた視線を逸らし、彼女はやっと口を開いた。

「ごめんなさい、我儘を言いました。先生はお困りですね」

 細い道で迷子になったように、彼女は行き先を見失っている。その姿は、あまりにも小さくて痛々しい。

「僕の部屋に戻りましょうか。しばらく留守する理由と、予定が立たない理由をお話します」

 彼女の不安定さと自分の不安定さを天秤にかけて、結局は言い訳になってしまうような気がする。それでも私が彼女を疎んでいると誤解されるよりは、ずっと良いように思った。


 部屋の中が暗くなるまで、私と彼女は話をした。そんなに長い時間ではないが、とても密度の濃い時間だった。病院を訪ねたいと彼女は言い、それが可能になれば必ず連絡すると私は約束した。

「おそらくね、そんなにひどい状態ではないと思いますよ。実際、気がつかなかったのだし」

「大変な病気です。そんなときに私は、自分のことばかり……」

「言わないようにしていたのですよ。ネガティブなイメージのあることなので」

 彼女は心底申し訳なさそうに、向かい側に座っていた。そんな態度にさせた私も却って申し訳なくて、黙ってお茶を淹れ替えた。

「暗くなりましたね、カーテンを引かなくては」

 そう言って立ち上がると、彼女ははっとしたように視線を上げた。


 また絡まった視線を解くことができない。おそらく手を伸ばしたのは、私のほうが早かった。これを恋にはするまいと思っていたのに、私の腕は言うことを聞かず、それに委ねられる彼女の身体は柔らかかった。

 そうして私たちは、ふたたび体温を分け合ったのだ。



「今回は行きずりと言い訳できませんよ」

 重なった唇を離して、彼が言う。

「理由も言い訳も必要ないんです」

 弾む息を抑えて答えた。

「我々は、面倒なときを選んでこうなる運命のようだね」

「でも嬉しい。今なら地球が滅亡しても、笑って受け入れられる気がします」

「また物騒なことを言う」

 彼は小さく笑いながら、まだ汗の残る胸に私を抱き寄せた。こんなふうに男の胸に寄り添うのは、どれくらいぶりだろう。記憶よりも乾いた肌は季節のせいなのか、それとも年齢に拠るものか。私はまだ、彼の年齢も知らなかった。


 八時近くになり、もう出なければ終電に間に合わない時間になってしまった。

「駅まで送ります」

 車の鍵を持った彼と一緒に部屋を出た。

「夕食を食べ損ないましたね。腹は減っていませんか」

「駅のコンビニで、何か買います。電車は空いているでしょうし」

 助手席に座りシートベルトを締めると、帰らなくてはならない寂しさと離れる不安が、私を無口にする。

「泊まって行っても良いのですよ」

「いいえ、明日は祖母に顔を見せたいので。心配させていますから」

 現在の彼に、普段以上に気を遣わせたり体力を消耗させたりしてはいけない。慣れない人間が横にいたりすれば、誰だって気になるし無意識に緊張する。それは彼が病んでいる個所に、良いことではない。

「僕が順当に回復したら、どこかへ遠出しましょう。夏なら、涼しい場所にでも」

「楽しみに待っています」

 駅で彼の車を見送り、階段を昇った。缶コーヒーとサンドウィッチを買い求め、電車が空いているのを幸いにして、座席で口に入れる。まだ彼の体温が、身体に残っている気がする。痩せているのに意外に体温の高い身体、骨ばった指。


 ひどく言い難そうに、胃ガンだと言った。水曜日には入院して、金曜日に手術だと。梅を観に行ったとき、彼は何度か胃の辺りに手をやっていた。痛むのだろうか。

 自覚症状はないと言っていたけれど、あの体形ならもともと胃はあまり丈夫ではないだろう。そんな人ならば少々ムカムカしていても、今日は調子が悪いと納得して、格段に病気だとは思わないのではないか。そうならば、もしかすると。

 どうしよう。私はそんな人に、心を預けかけてしまっている。これから彼は、大変な戦いをしなくてはならないのではないだろうか。そうであれば、私が彼に傾くのは負担になる。

 入院するたびに、迷惑をかけるねと頭を低くする祖母を思い出す。病院に見舞うたびに、こんなところに来てもらってねえと。こちらが心配したくてしているのに、それを申し訳ないと言う。


 梅林からの帰りの車の中で、彼は私に幸せですかと問うた。幸せではないと私は答えた。けれど今日、彼に抱かれた私は確かに幸せだった。あの夏の雨の日のような、衝動的な激情ではなかった。こうしたくてこうしているのだと、自分の中にはっきりした感情があり、彼が私の中に入ってきたときには、身の内が震えあがるような歓びを感じた。

 彼の呼吸と自分の呼吸が絡まり、同じリズムで一つの方向へ向かっていく。男と女のことで、欲以外の何かの表現があるとするならば、それは愛か恋か、それとも情なのか。

 手に入りかけたものをしっかりと手に収めたくて、私は電車の座席で目を閉じる。確かなことは、私は彼が欲しいと思っていることだ。


 何故またこんなときに。何故私たちは、互いに憂いのない状態で出逢えないのか。背景もなく進みはじめてしまった関係は、修正できるものだろうか。自分のゴタゴタや、彼の病や―― それを乗り越えて尚、育んでいける間柄なのか。そもそも私は、彼と長く寄り添いたいのか。

 自分の行く先さえ見えない今は、そんなことを考えられない。ただ彼の体温が欲しくて、また同じ呼吸を繰り返したくて、それだけなのだ。あの蒸し暑い畳の上のように、つい先刻の外せない視線のように、私の感情は彼に帰結してゆく。


 やけに寒いと外を見ると、雨が降っていた。垂れこめた冬の重い雲は、今に霙交じりの雨を雪にするだろう。夏の雨とは違う、冬だけの匂い。

 あの日の叩きつけるような雨と、逃げるように帰宅する途中に見上げた真っ青な空。あのときの私は、何を考えていたろう。義母が在宅している時間は介護に追われ、昼の時間は片付けと家事に終わり、いろいろなものに絶望しているような余裕もなく。抱いていたのは確かに罪悪感だった気がするけれど、何に対しての罪悪感だったのだろうか。少なくとも夫に対してではなかった。

 身体の中に酔芙蓉の花を咲かせ、何度となく彼の実家の前を通った。一緒に行かないと言ったのは自分なのに、彼がもう一度手を指し伸ばしてくれるならと願った。彼の指輪を思い出し、ただの行きずりだと自分に言い聞かせ、芙蓉の花はもう枯れたのだと繰り返して。

 まさか、また彼が目の前に座る日が来るとは。私が上ずっていたことを、彼は気がついたろうか。そのままあの日の続きをしたいと思っていたなんて。

 身体の中に、芙蓉の花が咲く。彼が何故ここまで来たのか量ることもできないのに、勝手に白い花が奥底から開いていく。湿った薄暗い部屋、外の強い雨の音、合わさっていく呼吸音。忘れなかっただけだったのに、今の私はあの記憶を手繰り寄せて身体を満たそうとしている。


 こんなことを考えている場合ではない。別れた夫は警察を呼ぶほど騒いだと言っていた。祖母が怯えるようなことを怒鳴ったのだろうか。それでなくとも、成人男性の怒声は女には怖い。私のために、これ以上の負担をかけてはいけない。電話で両親にそれ以外の情報を尋ねようとしても、家に近づくなと言われるだけで、警察を呼ぶような決定的な言葉は教えてくれなかった。週が明けたら、父が弁護士に会いに行くと聞いただけだ。

 私のことなのに、私の外で物事が動いていく。考えてみれば、私は別れた夫と対峙していないのだ。父によって実家に連れ帰られ、話の内容はすべて人伝てで、何もこの目で確認していない。今度のことだって、実家で起きたこと。ただ伝えられたことに傷ついたり怯えたりして、私自身が矢を受けているわけじゃないのだ。

 散乱していく思考の中でファンヒーターの前に座り込み、自分を見失った気になる。きちんと仕事を得て独り立ちしているはずなのに、何もかも上滑りしているような焦りを感じる。何の実感が欲しいのか、自分ではわからない。


 義母を介護していたとき、確かに実感はあった。ひどく疲れてはいたけれど、私が手を引けば義母は死んでしまうし、私が私自身の動きを考えて行動していた。自分が生きているのか死んでいるのかわからないなんて、思わなかった。

 今の生活は穏やかで、日々の幸福は確かにある。主語を取り戻したし、自分以外の誰かの生活で思い煩うこともない。誰も私を傷つけたり裏切ったりしない。でもどこか空洞で、そこに何が詰まっているべきものなのか、それは自分で探さなくてはならないものか、それとも勝手に埋まっていくものなのか、見当もつかないのだ。

――会ってみようか。会って、夫にきちんと失望すれば、実感が湧くのではないだろうか。

 ふと浮かんだ自分のアイディアに怯えて、頭を抱えた。あれは元の夫ではないと、父が言っていたではないか。自分の責任から逃れて周囲に嘘を振り撒き、挙句の果てに金さえ払えば文句はないだろうと怒鳴ったという。そんなものに会って、私はどうしようというのだ。


 彼は、どうなのだろう。彼もまた、離婚したのだと言っていた。良い人のように見えるけれど、人は見た目や言葉や職業ではない。職業だって、私は著述業を生業としている知り合いはいない。何故離婚なんてしたのだろう? 不貞、暴力行為、収入、それから。

 私の場合私が動けずにいるうちに父が話を進めてくれたが、離婚は結婚の三倍以上のエネルギーを使うと聞く。そこまでして別れるのだから、何か強い理由があるはずだ。それが彼に由来するものでも、不思議じゃない。

 そう考えてもなお、私はもう一度彼に会いたい。そしてできれば、あの呼吸をもう一度私の上で感じたい。自分の肩を自分で抱き、窓の外を見る。気がつけば、建物はうっすらと白く化粧していた。

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