第6節

『ああ、漏れちゃってますよね。ねえ、漏らしちゃいましたよね』

 サングラスを通じて白衣の男の声がする。が、トリカワポンズには聞こえていなかった。

『あちゃー。スーツに失禁対策はしてなかったなぁ。まあいいか』

 へたり込んだままのトリカワポンズには目もくれず、アルケウスは背を向けた。路地から現れた黒いミニバンを次の標的にしたのだ。

 トリカワポンズは胸を撫で下ろした。おそらくミニバンを破壊する間のわずかな時間を得られたはずだ。しかし次の光景が、彼を戦慄させた。停車したミニバンのスライドドアが開き、後部座席の女性の顔が見えたのだ。

「……うそだ」

 トリカワポンズは両手を地面についた。

『知り合いですか?』

「知り合いだなんてとんでもない。あなたは、日曜深夜一時から”美咲の真夜中メリーゴーランド”を聴いてないんですか?」

 抑揚のない動きで、アルケウスはミニバンに近づいていく。

『聴いたことないですね』

「彼女は、メインパーソナリティのエレオノーラ美咲ですよ」

 アルケウスがさらに距離を詰める。ミニバンの運転席から男が転がり出て、這うように逃げていった。

『なるほど。ラジオの収録でもあったんでしょうか。それにしても不運な』

「不運?」

 エレオノーラ美咲が恐怖の悲鳴をあげる。

『ええ。もう手遅れでしょう』

「……なんだと、クソガキ」

 トリカワポンズは立ち上がった。

『え? クソガキって私のことです?』

「ごちゃごちゃうるせぇんだよ! 白衣メガネ! 手遅れじゃねぇ!」

 トリカワポンズはその小さな身体をさらに丸めて、一気に跳躍した。スーツの補助を受け、弾丸のように加速した彼は、アルケウスの背中に右拳を叩き込んだ。

 トレーラーのタイヤを殴ったような硬い弾力だった。アルケウスの背中に取りついたトリカワポンズは続けて拳を繰り出した。左拳、右拳、左拳、右拳、そのたびにアルケウスは振動する。包んでいた黒い霧がざわめくように鳴動した。

『いいですよ! トリカワポンズ! その調子』

「うるせぇ! 白衣野郎! てめぇもこっちこいや!」

『その相手なら、三人いれば十分です』

「こっちはもう二人やられてんだよ!」

『やられてる?』

「見てねぇのか!」

『見てますよ。例の美咲ちゃんはすでに、アゲダシドウフとナンコツが確保しています』

 気づけばミニバンには誰もいなかった。トリカワポンズが打撃をやめ、背後に視線を送る。確かにそのとおりだった。愛するエレオノーラ美咲は、ブラックスーツのふたりに保護されていた。

『あ、打撃やめちゃダメですよ。せっかく優勢だったのに』

 連打から解放されたアルケウスはその体躯を一瞬震わせた。次の瞬間、アルケウスの背中に眼球のない顔面が現れた。それはちょうど、しがみついているトリカワポンズの眼前だった。

 アルケウスの背中は、正面になった。


つづく

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