第7話

 慶応四年|(一八六八年)三月五日。

 新緑が眩しい上野寛永寺かんえいじの広い敷地を山岡鉄太郎と高橋精一郎は歩いていた。そして小さな建物にたどり着いた。

 ここに徳川慶喜とくがわよしのぶが謹慎蟄居している葵の間がある。

 二人は慶喜のいる十畳の広さの部屋に通された。

 ――江戸城に御座おわした将軍がこのような狭い部屋に。おいたわしいことだ。

 鉄太郎は平伏しながら考えていた。

「そなたが山岡鉄太郎であるな」

 意外にも涼やかな声であった。

「はは」

 さらに頭を下げる。

「おもてをあげよ」

 慶喜に向かって右に座っている精一郎をちらと見ると、頷いたので、顔をあげた。

 徳川慶喜の顔を間近に見る。聡明そうで、声とおなじく涼やかな印象の人であった。

 鉄太郎の歳は三十三。慶喜はひとつ下のはずだ。

 これまでの世であればお目通りもかなわないほどの雲の上の人である。

「そなたがわたくしの名代として駿府まで行ってくれるのだな」

「は。義兄と我が北辰一刀流の師たちの推挙ということであれば」

 慶喜が目を向けると、精一郎は頷いた。

塚田孔平つかだこうへい山内主馬やまうちしゅめ稲垣定之助いながきじょうのすけをこれへ」

 慶喜の声を受けて、部屋に三人の小坊主が入ってきた。それぞれが三方さんぽううやうやしく持っている。

 鉄太郎から向かって左に三つの三方を並べると、小坊主はした。

 鉄太郎は愕然として三方を凝視した。遺髪が乗っている。遺髪の下には紙が敷いてあり、名前が書いてある。

 塚田孔平。

 山内主馬。

 稲垣定之助。

 三つの三方にはそう書いてある。

 ――塚田先生。山内師範。稲垣師範。

 北辰一刀流の開祖であり剣聖千葉周作ちばしゅうさくが手づから指導した三人。自他共に認める三高弟である。

 千葉道場に入門した頃の暴れん坊の鉄太郎に、時に厳しく、時に優しく剣の道を教えてくれた三人だ。数々の思い出と共に胸に熱いものがこみ上げて来る。

 自然、鉄太郎は両手を合わせて拝んでいた。

「すまない。わたくしが江戸に逃げ帰りたい一心で、この者たちの命を奪ってしまった」

 慶喜の声にはまことの悔恨の念が滲んでいる。

 見れば、慶喜は落涙していた。

 鉄太郎は瞑目する。

 高弟の死への怒り、慶喜の無念が鉄太郎の心中でしばらく燃え盛った。

 日々修練している禅がその炎をゆっくりと消し去った。消し炭となったその想いは鉄太郎の心に沁み込んで行く。

 やがて明鏡止水めいきょうしすいの境地と呼ぶことができる状態にまで達した。

 鉄太郎はゆっくり目を開いた。

「慶喜さま。なにを弱いことを申される。謹慎とは偽りではありませぬか。官軍に一矢報いようと企んではおりませぬか」

「わたくしが……。官軍に一矢報いる……」

「そのために拙者を名代とするのではございませぬか」

「わたくしは……」

 慶喜は三つの遺髪に目を向けた。青白い顔が小刻みに震えている。

「この者たちの仇、官軍に殺された者たちの仇がとりたい――」

「よくぞ申されました! それでこそ武門の棟梁とうりょうです」

「山岡鉄太郎。そなたにできるか」

「さて……。塚田先生たちは拙者などは足元にも及ばぬ達人でしたので」

 鉄太郎が悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 精一郎がこちらを向いた。

「官軍が出してきた条件の委細は勝海舟どのが存じている。このあとそちらに向かう」

「では、さっそく」

 鉄太郎は慶喜に深く頭を下げてから立ち上がった。

「山岡鉄太郎。わたくしは朝命に背こうとは思わない。ただ幕府に仕える者たち、庶民たちを救いたい」

「ご安心なされませ。きっと官軍の大総督に申し伝えましょう」

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