7‐11

『“母親”として行動しろ』


 人生最大の汚点、そして人生最大の僥倖を同時に与えたあの男の声がした。

 事の始まりは、幼少期から持て余していた背徳感からだろう。ヤブイヌとの関係に、一片の愛もなかった。リンドウが彼を追放したときも、そして、彼が死んだ今も、そうである。

 


「お前は順風満帆な人生を送っていながら、いつも不服そうだ」


 二十年以上前になる。ユズリハを抱きながら、彼は笑った。


「そうね」


 そう返事をすると、意外な表情を見せた。いつも張り付けたような笑みを浮かべる彼は、淋しそうに笑っていたのだ。


「俺はたぶん、消される。その前に、一矢報いたいんだよ」


 恐らく、リンドウの愛玩動物(プロトタイプ)がその場にいた職員数十人を虐殺し、逃亡した件についてだろう。


「アレの逃亡に関与したっていう噂は本当なの」


「まさか、そんなわけないだろ」


「そうよね」


 彼は始終嘘くさい表情を浮かべてはいるが、これは嘘ではないのだろう。


「リンドウはやり過ぎだ。あの趣味は、見ていて気持ちのいいものじゃない。お前もそう思うだろ?」


「そうね」


 一方で、ユズリハの相槌は嘘を孕んでいた。リンドウをそうさせたのは、自分である。共犯ではないが、幇助ではある。

 ところで、自分は何故、こんなことをしたのだろうか。ブレインに支配される人生が不満? 嘘塗れの職場に抱いた嫌悪? 絶対的で不条理な“理想”に抗いたかった? いや、どれも“ニアリーイコール”ではあるが“イコール”ではない。

 ブレインの意図に抗ってヤブイヌと一夜の関係を結んだのも、オオゼリの内部告発の計画に名を連ねたのも、そんな高尚な理由ではないのである。

 答えは至ってシンプルだ。

 快楽とは程遠い、苦痛と不快感が体を貫く。しかし、ユズリハは高らかに笑った。中央室の真っ白な台の上で、喉を鳴らして笑うのだ。今晩は、ホログラフィックな姿ではない。実像だ。


(どう? こんな回りくどい方法じゃなくて、私を直接止めてみなさい)


 ヤブイヌの背の向こう、ガラスケースに浮かぶ脳に目を向ける。脳だけの“彼女”に挑戦的な視線を投げかけた。


(その姿じゃあ、無理ね)


 そして、この狂った世界でまともだったオオゼリは、死んだ。まともだったヤブイヌも、この言葉通り、失脚したのだった。

 自分だけは生き残ってしまった。それはきっと、自分も頭がおかしいからなのだろう。この世界似つかわしいのだ。

 初めて妊娠が分かった時、言いようのない真っ白な幸福感に包まれてしまった。エコー写真に写るわが子を見たとき、自ずと涙が出た。

 

「リンドウ、お願いがある」


 ユズリハは、堕胎するはずだった子を、産むことにした。その条件が、一つだけあった。


「私と、籍を入れて欲しいのだ」


 彼女はアゲハを産むために交際をひと時も経ずして、この男と籍を入れたのだった。


『ねぇ、お母さん。私を産んでよかったって……、少しはそう思ったことはある?』


 初めて抱いたわが子は、誰よりも、何よりも、狂おしいほどに愛おしかった。何もかもが嘘っぱちの狂った世界で、たった一つの確固たる真実の愛が、そこにはあったのだ。


「最期まで、お母さんを困らせないで」


 愛娘が引き金を引くその瞬間を見つめ、笑った。狂った自分にはお似合いな最期だ、そう思ったのだった。



 すべての電源が落ち、真っ暗になった部屋で、アゲハは涙を人知れず拭った。そして、母の亡骸を横にする。彼女の肩からぶら下がったネームプレートを外す。

 名前と顔写真、生年月日、血液型など簡単な個人情報が載ったICカードになっていた。それをギュッと握りしめて、アゲハは立ち上がった。状況に悲観するのは、後だ。

 ライトを灯すと、酸素室の扉を開けた。

 入るとすぐに、右手を掴まれる。冷たい掌が、手首に当たる。顔色がよく、平気そうな姿に安堵する。違和感が残るほどだった。


「ヘーキですか?」


 彼の顔を覗き込むと、コクコクと頷くのが見える。何かを言いかけては口を閉ざし、そしてまた、口を開こうとする。


「私は大丈夫です!」


 彼の気持ちは痛いほど伝わった。そのため、彼女はその気持ちに応えようと、力強くそう言った。

 そして、急いでジガバチの顔の横に跪(ひざまず)く。口のすぐ上に手を当て、呼吸を確認した。続いて、手首で脈を確認する。二酸化炭素中毒は、酸素吸入と輸液の点滴が一番良い。しかし、主電源から落とされたここでは無理な話だ。

 アゲハは、彼の額を抑えながら顎先を持ち上げた。気道を確保するのだ。顔が仰け反るような姿勢になったのを確認し、彼女は腰を上げた。

 その時、パッと手を取られる。


「……遅ェんだよ、馬鹿」


「すみません」


 一安心からか、アゲハはクスクスと笑った。

 自分の選択に、悔いがないと言えばウソになるかもしれない。しかし、間違った選択ではなかったと、言える状況に康寧(こうねい)の念を抱いた。


「いいんですか?」


 壁際でぐったりとしている壮年の男に、アゲハは光を向ける。「生きてますよね」と、続ける。


「どうして殺さなかったんですか」


 ひょっとして、自分に遠慮したのではないか? という念を抱いた。そのため、間髪入れずに彼女は、「私なら、構いませんよ」と言った。


「ようやく気付いたんだ。復讐に囚われることの、虚しさと愚かさに」


「でも……、ヤブイヌさんは――」


「アイツがそう言った。復讐のために生きるなんて、愚の骨頂だと。他に有意義な時間の使い方をしろと常々言っていた。その時は、戯言だと思って聞き流していた」


「じゃあ、今は……」


 ヒヤリとした彼の手が、彼女の頬に当たる。


「何がおかしい」


 そう言われて初めて、自分が酷い顔でニヤついていたことに気付く。必死に笑みを噛み締めるが、ふふっと言う笑い声が漏れた。

 恥ずかしそうに頬を掻く彼が、何とも人間らしく目に映り、笑いをこらえることが出来なかったのだ。以前のような損得勘定や合理的な思考で動く、非道な彼はもういないのだ。それが、彼女にとっては何よりも嬉しかった。

 アゲハは、リンドウの傍らに立ち竦んだ。どうするべきか、迷った。あれだけ気になっていた父親も、会ってみれば大したことはなかった。何の思い入れもなければ、思い出もない。ナナホシが言った通り、ただの飾りだ。

 しかし、ICカードは何かの役に立つかもしれない。そう思い、彼のネームプレートに手を伸ばした。

 名前、生年月日に続き、血液型に目を走らせる。そして、彼女はそこで思考が止まった。


【A-型】


 この文字に凍り付いた。

 握っていた、ユズリハの血液型の表記を確認する。


【O-型】


 つまり、二人のRh血液型はマイナスなのだ。ヒイラギも同様にそうである。そして、アゲハのRh血液型はプラスである。

 この事実が示唆することは――。


「……私の父親は、この人じゃない」


 サーっと血の気が引く思いがした。当てはあった。本人にも確認したことがある。違う、と撥ね退けられた、彼だ。


「そうだ。本人から口留めされていたが、お前の父親は……」


 ここで初めて、アゲハは泣き崩れた。

 決壊したダムのように、涙が止まらなかった。

 こんなところで立ち止まっていはいけないのに、彼女の心は打ちひしがれてしまったのである。地に根が張ったように、体が動かない。先に進まなければいけないのに、あの時に戻りたい、やり直したい、と過去を振り返ってしまう。


「じゃあ……、お母さんも、お父さんも、ひーちゃんも……。私、私は――」


「アゲハ、聞け」


 その時、不意に肩を掴まれた。乱暴に肩を揺さぶられる。ジガバチが、重そうに体を引きずり、力なく笑いかける。


「喪ったモンばっか、数えんな。掬えたモンもあるんだぜ」


 そう言って、震える彼女の手に自分の手を乗せ、握らせた。


「お前が、何度も救ってくれた命だ。俺を使え。必ず、役に立ってやっから」


 顔を上げ、目が合うと、彼はハイエナを指さした。


「お前が大好きな、アイツだっている。俺らは、目的を果たした。さっさと帰ろうぜ。なァ?」


 アゲハは涙を拭うと、いっぺん大きく頷いた。重い腰をようやく上げると、立ち上がった。


「ごめんなさい! もう、泣かない!!」


「そう来なくっちゃなァ!!」


 何人でも、屍を超えていく。そして、幸せな未来を生きていく。アゲハはこの言葉を思い出しながら、再び歩き始めた。

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