7‐6

「ライラックさぁん、そんなの決まってるじゃないですか。啼かすんですよぉ、この獣を」


「汚いわ。病気持ちかもしれないのよ」


 壁の外の人間を、人間と思わない言動の数々にユウガオは頭を抱えた。やりとりは、目下で繰り広げられているはずなのに、彼女は自分だけ世界から弾き出されたような気分になった。

 モクレンのいつもの蛮行が始まると、まるでディスプレイの前でそれを観ているような不思議な感覚になる。狂っているのは、自分か、彼女らか、分からなくなっていた。

 表向きは市民の安全、警備隊の発足、ヒューマノイド製造廃止の代替、として始まったエデン計画。だが、実態は、人権のない壁の外の人間を調教し、ロボットの代わりにする。そして、市民にも応用し、感情を支配するのだ。

 犯罪率をゼロにすることは、すなわち、人間の心を支配することに等しかった。オオゼリは、このことに気付き葛藤していた。結局、エデナゾシンは微量ではを完全に支配することはできなかった。犯罪率も、四割減程度の現実的な数字にとどまった。

 しかし、ユウガオは密かに彼女は敢えて不完全にしたのではないか、と思っている。


「姉さんが大切に“育てた”子、なんだからぁ、大丈夫ですよお。……キャハハッ!」


「……いいぜェ。姉妹で可愛がって貰えるなんてよォ! てめェは少々オオゼリより外見は劣ってっけどな、こっちはどうだろうなア!?」


 如何にも、な様子で彼は煽った。それは彼女にとって地雷だ。外見も、品性も、研究者としての技量も。そして、ユウガオからの寵愛も、全て、モクレンは姉には叶わない。つまり、得てしてモクレンの大きな地雷を踏み抜いたのである。


「フン! 後悔しても、泣き叫んでも知らないわよ」


 明らかにこれは意図的だった。先ほどから、手足を縛られ、ズタボロであるはずの彼に場を呑まれている感じが否めなかった。時に、窮鼠は猫を嚙み殺しさえする。いつの間にか、捕食と被食の関係が逆転することだってあるのだ。

 両肩を持ち、壁に彼を打ち付けると覆いかぶさる。そして、官能的な仕草で口づけをする。二つの唇が少し開き、舌がお互いを弄るように入る、と思われた。

 だがその直前、ユウガオはモクレンの頭を引っ掴むと強引に引き離した。


「待って!!」


 そう叫んで、そのまま彼女を引き剝がす方向に投げ飛ばす。嫌いだった自分の長い腕、強い力、俊敏力が生かされた瞬間だった。

 その拍子に、ピシャリと顔に何かが跳ねた。指で拭うと、真っ赤な血が付着していた。

 その時ごぼっと、口を覆うモクレンの掌から真っ赤な血が溢れ出る。


 

「チッ! あともう少しだったのに」


 最愛の女の姿を宿す悪魔が、大きく舌打ちをし、血痰と共に何かを吐き出した。小さな刃、メス刃を口腔内に仕込んでいたのだ。吐き出したということは、刃こぼれしたのだろう。何とか命までは取られなかったが、モクレンは切られたのだ。


「こ、殺す……」


 彼女はワナワナと震えながら、怒った。フーッ、フーッと興奮のあまり猫のように呻っている。

 一方でユウガオはこの男が恐ろしくて仕方なかった。殺さなくてはいけない、今すぐにでもだ。そうでなくては掌握され、殺される。この男はきっと、首だけになっても、彼女たちを虐殺する力を持っているからだ。

 だが、ユウガオにはできなかった。オオゼリの化身、彼女の現在を唯一知っている者。手にかけることなど、最早できない。そして、それも恐らく向こうには知られているだろう。


「ざまあないわね。獣はどっちだったのかしら、モクレン」


「はあぁ!? 何笑ってんだよ、メス豚!」


 口から血を吹き出しながら、モクレンはライラックの胸倉を掴んだ。

 汚物を掴むように、彼女はその手を払う。


「そう、それがアナタの正体なのね。パキラがオオゼリと肉体関係があったことも知っていたようだし、どうせ私のことを見下して楽しんでいたのでしょう」


「当たり前だろ、ババア! パキラが愛していたのは姉さん。お前は、リラ目当てのお飾りに決まってんでしょ!? アッハハ!! 顔も、女としての品格も、体つきも、頭脳も! お前は姉さんには叶わないのよ!! 現にお前、まだパキラに――」


 バチンッ!


 無機質な施設に、頬を叩く音が響き渡った。

 闘いのゴングの音だった。

 もう、止められない。ユウガオはそう悟った。そして、壁にもたれる男の表情を見て、悪寒が走った。


「何が、目的なの?」


 そう問いかけたとき、奇妙な光を宿した紫色の瞳が、彼女の背後に移った。何かを、見ていた。


(まさか!!)


 振り返ると、ライラックが捕まえて来た“メスラット”がいたはずの位置を見た。血痕を残して、もぬけの殻だった。二度刺され、怪我もしていた。手錠もかけられていた。

 とっさに見回し、「女がいない!!」と二人に叫んだ。だが、その声は髪を引っ掴み合う二人の怒号に掻き消された。


「どこに――」


「遅ェよ」


 その時、胸元に二滴、真っ白な白衣に真っ赤なシミが広がる。血だ、と思い自分の顔を触ってみる。

 違う――。


「上ッ!!」


 声の限り、ユウガオは叫んだ。真上に、女が四つん這いでぶら下がっていた。細長い棒を構え、その先から真っ直ぐに何かが飛んだ。掴み合ったまま、動きを止めた二人に向かって、何かが降り注いだ。そう速くない弾道で、殺傷性の低そうな針金のようなものが散乱した。

 華奢なモクレンが、咄嗟にライラックの後ろに隠れる。

 もろに食らったライラックが、ヒュウっと吃逆(しゃっくり)のような息を切ると、膝から崩れ落ちた。後ろで目を見開くモクレンの姿が、顕わになる。

 女は、天井から飛び降りると、ユウガオに回し蹴りを食らわす。足の裏にスパイクのような突起があり、彼女の腹部を数ミリ抉った。

 その拍子に大きく飛ばされ、床に叩きつけられる。処置台の角で腰を殴打し、痛みに呻く。

 モクレンの方を見た。何を呆けているのか、と思うほど、目を見開き、刺客を見つめている。肩に、一本だけ、針が刺さっていた。それを見たときに、体が動かないのだ、とユウガオは悟った。

 痙攣するライラックに、女はとどめを刺した。まるでカエルが鳴くような声を上げて、彼女は死んだ。

 今、女は小さな背中をこちらに向けている。彼女は悟られないように、麻酔銃を取り出すと、装填した。

 先ほど男の方に投与した、塩酸エトルフィン。かつてはゾウやクジラなどと言った数トンほどもある動物を、安楽死させるために使っていた動物用麻酔薬だ。

 肌に一滴たらしただけで、普通ならば死ぬ。あの男の言っていることが本当ならば、この女も死ぬだろう。

 脱力しているモクレンのアキレス腱を、細長い針で掻き切った。彼女の悲鳴に似た嗚咽が、聞こえる。


「謝れ。謝るまで、楽にさせないから」


 低い声で、囁いた。今だ、ユウガオは引き金を引いた。

 だが、ちょうどその瞬間、女はモクレンの方向に身を倒した。その背中の数センチ横を、注射筒が通り過ぎた。外した、そう思い絶望した。

 彼女の真っ黒な瞳が、ギロリとこちらを睨んだ。その時、“外した”のではなく“躱された”ことに、ユウガオは気付いた。

 まるで麻酔銃の軌道が分かったように、彼女は見向きもせずに、避けたのだ。後ろに目でもあるのか、と思わざるを得なかった。

 その所作を見て、彼女は戦意を喪失した。モクレンを切り捨てることにしたのだ。自分には、まだ、命を優先する理由があったからだ。

 そして、それを見透かしたような視線を投げかけると、女はまた視線を戻した。


「ぎゃあっ!!」


 モクレンの啼く声が、聞こえて来た。

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