7‐3

「被験体A2(えーつー)二〇二三番、間違いないね」


 ホタルは、はい、と答えて右腕を出した。違う、私はホタルだ、そう思うことは次第になくなっていった。【A2-2023】が今の自分の名前だ。

 肘窩の静脈に、注射をされる。軽く揉まれ、「何かあれば言ってね」と言われる。たまに心電図や撮ったり、レントゲンやMRI室に入ったりする。これ以外は代り映えのない日々が、続いた。

 抗わなければ、拘束されたり、乱暴なことをされることはない。知らない男と寝たり、ドラッグの取引仲介をしたり、盗みを働いたりしなくても、衣食住がある。

 だが、ここに自由はない。ホタルが大好きな、おしゃべりやおしゃれを楽しむことはもうできないのだ。

 そうだ、代り映えがない日々の中でも、少しだけ、変わったことがあった。“プロトタイプ”とよく呼ばれている男が、よくこのフロアを出入りするようになった。顔の半分にケロイドがある、綺麗な顔立ちをした男だった。

 相当に、手を焼く被験体なのだろう。だが、少々異質だった。

 いつも、保衛官が二人以上付き、手は拘束されている。移動をするとき以外の待機時間は、足も拘束されていた。轡をされているときもあった。

 緋色の瞳は自由を知っているような、光を宿していた。暴行を加えられても、その光が消えることはなかった。ホタルが以前は持っていた、目の輝きだった。

 手ひどく暴行を受けているのを見るたび、早く、順応したら楽なのに、と思った。

 だが、なぜ彼が“自由”への希望を手放さないか、ある時分かった。

 彼の目の前で、ハサミを落としてしまった職員がいた。拾おうとした彼女に向かって、上司らしき職員が青筋を立てて怒鳴りつけたのだ。


「おい! “プロトタイプ”の扱いには注意しろ、と言っただろう!! ヤツは、ボールペン一本で、脱獄したんだぞ。ここの職員を、皆殺しにしたいのかキサマは!!」


「すみません!!」


 どうやら、彼がこの虫かごの中で自由を手放せないでいるのは、一度、自由を経験してしまったから、らしかった。

 ホタルは、昔の職業柄、人間観察をするのが日課だった。娼婦は、そうでなくては客がとれないからだ。だが、ここの人々は、皆何かに囚われた目つきをしている。被験者も、職員も、まるでロボットのように、同じことを飽きもせずに繰り返す。だから、次に何をする、とか、この人はこう考えている、というのを考えるのは馬鹿げていた。

 一方で“プロトタイプ”は、見ていて面白かった。毎日、飽きもせずに暴れる。怪我をしたり、させたり、は日常茶飯事だった。腕や足が、全く動いていないほどの大けがをしていることもしばしばあった。気高い獣のように、怪我を歯牙にもかけない様子で、過ごしているのは、見ていて爽快だった。

 普段は無表情で、まるで機械のような顔をしている。それなのに、「触るな!」とか「殺してやる!」などと、怒りの感情を顕わにする一面もあるのだ。

 彼を観察することが、ホタルにとって代わり映えのない日々の、ささやかな楽しみになっていた。

 そしてこの日も、二人の保衛官を伴って、フロアに来ていた。この後、一連の身体検査を行い、収監されるのである。

 だが、その時、聞きなれないアラームが鳴り響いた。それに追従するように、アナウンスが鳴る。


≪フェーズ1、フェーズ1。リラロボティクス、全職員に告げます。システムのサーバーがDDoS攻撃を受けました。現在普及中。繰り返します――≫


 そして、【重要参考人】として、壁にかかったモニターに映し出された女性を見て、驚きの余り、腰を浮かせた。まるで心の奥底の闇まで見透かされそうな、大きな黒々とした瞳。肩あたりで外はねさせた髪型、重めの前髪、右サイドは耳にかけている。可愛い、とホタルがかつて褒めた髪型、横顔。変わらない、忘れるわけない、面影だ。大人になって顔つきが変わったとしても、すぐに分かった。


「アゲ――」


 愛おしい、彼女の名前を呟こうとして、ハッと口を噤んだ。慌てて周りを見渡す。だが、幸い、周りはモニターにくぎ付けになり、こちらには気付いていない。

 しかし、ここで彼女は、“プロトタイプ”も大きな反応を見せたことに驚いた。明らかに、アゲハと顔見知りの反応だった。そして、ホタルのように、一瞬で平常時の顔つきに戻る。だが、彼女の洞察力は、それを見逃さなかった。

 腹を、据えた。一抹の生きる楽しみをくれたこの男に、ホタルは命を燃やして光を灯す決意をしたのだ。

 あの日、アゲハに初めて声を掛けた日、ホタルは死ぬつもりだった。梅毒トレポネーマは客にも移る。当然、客何て取れるはずがなかった。熱で体力が奪われ、悪事を働く体力もなかった。だが、兄弟たちの食いぶちは減る。死ぬしか、なかった。その命を助けてくれたのは、アゲハだったのだ。

 それだけではない。被験者は、実験動物だ。当然持病や感染症の疑いがある者は、検疫を通すと殺処分になる。ここでも、彼女に救われたのだ。

 自分の命の燈火を燃やすならば、今しかなかった。

 こめかみを抑え、頭を抱えた。こうしていなければ涙が零れそうだった。足が竦むのは、高揚感か、恐怖感か。


「A2二〇二三、貧血かい?」


 すぐに主治医が飛んできた。


「はい、休んでもいいですか?」


 目を潤ませて、ホタルは言った。彼女は貧血気味だった。こういうことは稀にあったため、何の違和感も持たれずに休憩室に連れていかれる。

 その途中、件の男を確認する。足枷はついていなかった。両脇に、保衛官が立つ中で、点滴を打っているようだった。

 そこで、ホタルはよろめいた。彼の膝に手を付き、もたれ掛かる。慌てて、脇を主治医が掴んで引き上げた。


「大丈夫かい?」


「ごめんなさい」


 小さく謝って、休憩室へと向かった。ちらっと彼を盗み見たが、まるで銅像のように微動だにしなかった。



 ダクトから外に抜け出し、研究施設に向かったアゲハは、両手で口を押えて立ち尽くした。

 大きなガラス張りの部屋から、真っ白なだだっ広い研究施設が見渡せる。白い壁や床が、真っ赤に染まり、死体が山積みになっている傍らで、二人の白衣の女が抱き合っている。 

 状況が全くつかめない、混沌とした空間だった。床に打ち捨てられ、投げだされた姿態を見て、危惧する状況であることは分かった。

 見覚えのあるカーキの上着、規格外の背丈、微かに聞こえる荒い息遣いは、ジガバチに間違いなかった。生きていることに、ただただ両手を合わせた。

 白衣を羽織った三十代くらいの可愛らしい女は、背伸びをするともう一人の首筋に噛みついた。一人は白衣の上からもわかるしなやかな身体つきで、一七〇センチほどはありそうなスレンダーな女だった。

 どうすればいいか、考えなくてはいけないのに見たこともないほど艶やかな色事に目が奪われる。二人の真っ赤な唇から、唾液が糸を引く。目が離せない。

 とりあえずダクトにもう一度戻ろう、と踵を返したその時だった。


「アラ? 人の婀娜(あだ)事を盗み見するなんて、悪い子ネズミちゃんねえ」


 首筋に痛みが走る。“悪意”ではない。物理的な痛みだ。

 意識がなくなる中、朗らかな声で誰かが耳元で囁いた。気づかなかった。まったく“悪意”を感じなかったのだ。それはそうだろう、彼女は「うふふっ……」と心底愉しそうに声を洩らしていたからだ。小さな野ネズミを、わざわざ悪意を持って玩具にする人間などいようか。アゲハは意識を、手放した。

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